三島由紀夫さんは、本名は平岡公威(きみたけ)さんといいます。お父さんは梓さんで、息子さんが亡くなってから、息子さんのことを振り返っておられます。
梓さんのお母さんのもとで、三島由紀夫さんは育てられた、というのかしつけられたというのか、そういうご家庭に育った人だったのかと、改めて思ったりしています。少しだけ、ムズカシイお育ちというのか、シンプルな核家族とは違う、それなりにいろいろある「家」で育てられたのだという感じです。
何が言いたいのかというと、今「伜(せがれ)・三島由紀夫」(平岡 梓 著 1972 文藝春秋)という本を、ふと見つけて、読んでいるんでした。
東大から、お父さんの望み通りに大蔵省に入り、そのまま頑張ってもらおうと思っていたら、あまりにハードワークだし、それなのに小説も書こうとするし、フラフラになって、電車のホームから落ちたこともあったそうです。だから、お父さんの梓さんは、「おまえの好きなようにしなさい」と言ってあげたそうで、お役所勤めは止めて、作家1本でやることになったという事情があったそうです。
「役所をやめてもよい、作家一本で行け。その代わり日本一の作家になるんだぞ」と宣言した以上、僕も、伜の作家生活には多少の協力をしております。たとえば、「潮騒」の場合がそうです。
伜から、「漁村のことを書きたいけれど、どこか適当のところがないかさがしてください」と依頼を受けたとき、僕は農林省水産局のベテラン技師数名に集まってもらい、いろいろと検討してもらいました。技師の人たちはわざわざ長距離電話であちこちの現地にその地の模様を尋ねてくれたりして、かなりオーバーな調査の上、三、四日たって、やっと、伜が提示したきわめて素朴な寒漁村であること、その他数項目の条件をできるだけ満たすものとして、三重県の神島を選定してくれたのです。
ということになったそうです。お父さんが、どこかさびしいけれど素朴でドラマが生まれそうな漁村ってある? と同僚(部下?)に探してもらったそうです。今の社会なら、そんなの公私混同だ! となるだろうけれど、結局それがドラマを産み、三重県の財産になっているのだから、役所としても、地域としてもありがたかったわけで、杓子定規にそれは役所仕事ではない、と切り捨てるのもどうかということになりますか?
さてそれから、本省から直接詳しい電話をかけてもらったりして、いよいよ本人が出かけましたが、東京からのお声がかりというので薬がききすぎ、地元としては最大級の歓迎を受けたようです。ただし宿屋などはもちろんないので、組合長宅に厄介(やっかい)になることになりましたが、座敷に上がるとその隣が便所で。座敷中が臭気充満、さあお風呂へと案内されると、それはドラムかん風呂で猛烈に熱く、水でうめるのも一仕事。さて昼食となるとものすごく大きい魚が運び込まれて、これはもちろん鯛にはあらず、何か得体の知れない怪魚で、「食べろ食べろ」と言われても食欲が起きない、やっと少し口に入れて、あとはたくあんでごまかしてしまったそうです。
少し思い出しました。大人のみなさんが「わあ、ごちそうだ」という時、たいてい子どもはゲンナリしたものでした。大人はどうしてこんな変な食べ物で喜ぶんだろうと思ったことがありましたね。あれと、少しだけ似ているかもしれない。
とはいえ、五右衛門風呂といい、客間とトイレといい、昔の神島は、それこそ素朴だったんですね。今はどうなっているのかわからないけれど、少しはましになってないかな……。
さて楽しみにしていた夜の大饗宴(だいきょうえん)は何かまたものすごい大魚の御入来(ごにゅうらい)、どうも見覚えのある魚だと目を近づけると、それはまぎれもなく昼食の食べのこしの魚そのままなので、「どうぞお構いなく」と何度も強調しましたが一向聞いてもらえない。その翌日に一縷(いちる)の望みを持っていたら、このときも前日のままの同一の大魚だったそうで、それでも三日かかつて大魚の五分の一くらいは平らげたようです。偉とすべきです。
父と子の会話の場面が見えてきそうな、お父さんの回想談です。きっと若き三島由紀夫さんは、帰って来ていろいろと報告したんですね。息子からあれこれ報告が聞けて、楽しいひとときが過ごせたことでしょう。何だかうらやましいです。そんな場面、私はちゃんと作れたでしょうか。今さらながら反省します。
これは聞くところによると、この土地の賓客(ひんきゃく)を遇する礼儀慣行らしいので、恨みようもありません。伜はまったくへとへととなり、これではとても取材どころではない。務めは果たした、組合長に対する義理もすませた、と、やっと灯台のところまでのぼってみると、ここの灯台守(とうだいもり)の奥さんが、転任してきて数ヶ月になるよそ者だったそうで、さすがに東京人に対する気のきかせ方を知っており、佃煮その他のあっさりした食べ物でもてなしてくれたとのこと、まったく救われた思いで、また元気を回復し取材に取りかかったということでした。
田舎者って、そういうことがあるんですね。でも、それは悪いことではないと思います。それを受け入れない人にはダメかもしれないけど、それを乗り越えて、地元の人と仲良くなれなくちゃと、あまり人と仲良くなれないタイプの私は思います。
三島由紀夫さんと三重県の出会いはこんな感じだったんですね。初めて知りました。
梓さんのお母さんのもとで、三島由紀夫さんは育てられた、というのかしつけられたというのか、そういうご家庭に育った人だったのかと、改めて思ったりしています。少しだけ、ムズカシイお育ちというのか、シンプルな核家族とは違う、それなりにいろいろある「家」で育てられたのだという感じです。
何が言いたいのかというと、今「伜(せがれ)・三島由紀夫」(平岡 梓 著 1972 文藝春秋)という本を、ふと見つけて、読んでいるんでした。
東大から、お父さんの望み通りに大蔵省に入り、そのまま頑張ってもらおうと思っていたら、あまりにハードワークだし、それなのに小説も書こうとするし、フラフラになって、電車のホームから落ちたこともあったそうです。だから、お父さんの梓さんは、「おまえの好きなようにしなさい」と言ってあげたそうで、お役所勤めは止めて、作家1本でやることになったという事情があったそうです。
「役所をやめてもよい、作家一本で行け。その代わり日本一の作家になるんだぞ」と宣言した以上、僕も、伜の作家生活には多少の協力をしております。たとえば、「潮騒」の場合がそうです。
伜から、「漁村のことを書きたいけれど、どこか適当のところがないかさがしてください」と依頼を受けたとき、僕は農林省水産局のベテラン技師数名に集まってもらい、いろいろと検討してもらいました。技師の人たちはわざわざ長距離電話であちこちの現地にその地の模様を尋ねてくれたりして、かなりオーバーな調査の上、三、四日たって、やっと、伜が提示したきわめて素朴な寒漁村であること、その他数項目の条件をできるだけ満たすものとして、三重県の神島を選定してくれたのです。
ということになったそうです。お父さんが、どこかさびしいけれど素朴でドラマが生まれそうな漁村ってある? と同僚(部下?)に探してもらったそうです。今の社会なら、そんなの公私混同だ! となるだろうけれど、結局それがドラマを産み、三重県の財産になっているのだから、役所としても、地域としてもありがたかったわけで、杓子定規にそれは役所仕事ではない、と切り捨てるのもどうかということになりますか?
さてそれから、本省から直接詳しい電話をかけてもらったりして、いよいよ本人が出かけましたが、東京からのお声がかりというので薬がききすぎ、地元としては最大級の歓迎を受けたようです。ただし宿屋などはもちろんないので、組合長宅に厄介(やっかい)になることになりましたが、座敷に上がるとその隣が便所で。座敷中が臭気充満、さあお風呂へと案内されると、それはドラムかん風呂で猛烈に熱く、水でうめるのも一仕事。さて昼食となるとものすごく大きい魚が運び込まれて、これはもちろん鯛にはあらず、何か得体の知れない怪魚で、「食べろ食べろ」と言われても食欲が起きない、やっと少し口に入れて、あとはたくあんでごまかしてしまったそうです。
少し思い出しました。大人のみなさんが「わあ、ごちそうだ」という時、たいてい子どもはゲンナリしたものでした。大人はどうしてこんな変な食べ物で喜ぶんだろうと思ったことがありましたね。あれと、少しだけ似ているかもしれない。
とはいえ、五右衛門風呂といい、客間とトイレといい、昔の神島は、それこそ素朴だったんですね。今はどうなっているのかわからないけれど、少しはましになってないかな……。
さて楽しみにしていた夜の大饗宴(だいきょうえん)は何かまたものすごい大魚の御入来(ごにゅうらい)、どうも見覚えのある魚だと目を近づけると、それはまぎれもなく昼食の食べのこしの魚そのままなので、「どうぞお構いなく」と何度も強調しましたが一向聞いてもらえない。その翌日に一縷(いちる)の望みを持っていたら、このときも前日のままの同一の大魚だったそうで、それでも三日かかつて大魚の五分の一くらいは平らげたようです。偉とすべきです。
父と子の会話の場面が見えてきそうな、お父さんの回想談です。きっと若き三島由紀夫さんは、帰って来ていろいろと報告したんですね。息子からあれこれ報告が聞けて、楽しいひとときが過ごせたことでしょう。何だかうらやましいです。そんな場面、私はちゃんと作れたでしょうか。今さらながら反省します。
これは聞くところによると、この土地の賓客(ひんきゃく)を遇する礼儀慣行らしいので、恨みようもありません。伜はまったくへとへととなり、これではとても取材どころではない。務めは果たした、組合長に対する義理もすませた、と、やっと灯台のところまでのぼってみると、ここの灯台守(とうだいもり)の奥さんが、転任してきて数ヶ月になるよそ者だったそうで、さすがに東京人に対する気のきかせ方を知っており、佃煮その他のあっさりした食べ物でもてなしてくれたとのこと、まったく救われた思いで、また元気を回復し取材に取りかかったということでした。
田舎者って、そういうことがあるんですね。でも、それは悪いことではないと思います。それを受け入れない人にはダメかもしれないけど、それを乗り越えて、地元の人と仲良くなれなくちゃと、あまり人と仲良くなれないタイプの私は思います。
三島由紀夫さんと三重県の出会いはこんな感じだったんですね。初めて知りました。