甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

あらむつかしのうめの花

2024年02月15日 20時09分26秒 | 蕪村さんの旅と放浪

 芭蕉さんは一通り勉強した気になったので、蕪村さんの句集を昨日から取り出しています。すぐ三日坊主になると思われます、とりあえず、三つくらい抜き出してみます。

 その前に、ドナルド・キーンさんが宣長さんのことおっしゃってたのを思い出しました。

 日本人はいつも何が日本的であるかということについて心配する。昔からそうだったようです。国学者の場合には、特別そういう悩みが激しくあったのでしょう。

 本居宣長などは、純粋のやまとことば、つまり当時の日常生活に使用されていることばとまったく違うようなことばで自分の作品を書きましたが、なるべく穢(きた)ない外来のことばを避けるために、不思議な、まったく不自然な日本語を創作した。

 現在でも日本人は、日本的なものはどういう形で残るか、日本的なものは全部滅びるんじゃないかという心配を抱いているようですが、日本国民というものが残るかぎり、何らかの形で日本的な特徴はあらゆる表現のうちに現われるにちがいないと思います。

 意識して特徴を出そうと思ったら、むしろ本居宣長のような、なにか不自然なものになるんじゃないか。〈『日本人と日本文化』司馬遼太郎さんとの対談集より〉

 私は、宣長さんの使う表現が、不自然な日本語であったという指摘はおもしろいなと思っていました。中国語に毒されない、日本的なものとは何か? 何だか、何を言っているのかわからない古代語みたいなものになるんでしょうか。それは、作られたものであって、日本的なものと言えるかどうか?

 日本的であるということは、あれこれまぜこぜになって、何がルーツなのかイマイチよくわからない、混沌とはしているけれど一つの形になっているもの、そういうのではないかと思うのです。

 当時すでに、上田秋成さんと論争したりして、「日本とは何か」が話題になったようです。



 それを蕪村さんは、

 あらむつかしの仮名遣ひやな。字儀に害あらずんば、アアままよ
  梅咲きぬどれがむめやらうめじゃやら

 宣長さんが「ン音」を「む」と書くべきことを主張したということでした。宣長さんは「むめさきぬ」と表記しないといけないと述べる。秋成さんは、「うめさきぬ」でいいじゃないかと述べる。「うめ」なのか、「むめ」なのか、それとも「んめ」なのか、こんがらがってしまったそうです。

 こんがらがっている間に、梅も散ってしまいそうです。

 ただの表記問題だけど、どっちだってよくて、蕪村さんは、面倒だから漢字で書くことにしたようで、

  梅咲いて帯買ふ室(むろ)の遊女かな

  源八をわたりて梅のあるじかな

 という句を作りました。播州の風待ちの港・室津というところに遊女がいて、春になったとて、新しい帯を買ったとか……。新生活が始まるのか、それとも気分転換なのか、けなげに生きてる女性を描いて見せました。何らかの物語が生まれそうです。



 源八は、大阪の都島の桜宮に近い淀川の渡し船があったそうで(今はちゃんと源八橋というのができてますけど、当時は橋はなかったんですね)、川を渡ると、梅が咲き誇る家にもどれば、だれからも邪魔をされない自分だけの世界の主になれる、そんな希望的観測のうただったでしようか。

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