突然ですが、宮沢賢治さんの「青森挽歌」を読んでくれませんか。私は、もう1年以上は気になっています。
高校時代に買った角川文庫版の「宮沢賢治詩集」には入っていません。だから、全くそういう作品があったなんて、もう何十年も知りませんでした。
つい最近、賢治さんは妹さんが亡くなってから、そのあと樺太(からふと、現在のサハリン)に出かけていき、そこでいくつかの詩を書いているというのを知ったのです。
鉄道にも関係があるというし、旅の詩というのなら一度見てみようと、ぶ厚い宮沢賢治全集を借りてきて、読もうとするのです。けれども、まるでとりつく島がありません。まったくどこから手を付けたらいいのか、あまりにハードルが高かった。
けれども、何回かに分けて、少しずつ、青空文庫の打ち込み版を、全集と照らし合わせながら、読み進めると、何となくそれらしい気分にはなるので、何回かに分けて読もうと決めたのです。ただの私のためだけの校正作業みたいなものでした。
いろいろと途中で放置してあるものがいっぱいありますが、早くこれも始めておかないいけないと思って、中途半端なままにスタートしてみます。
第1回は、適当なところで切り上げようと思います。最初のところを見てみます。
青森挽歌
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
(乾いたでんしんばしらの列が
せはしく遷(うつ)つてゐるらしい
きしやは銀河系の玲瓏(れいろう)レンズ
巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
りんごのなかをはしつてゐる
けれどもここはいつたいどこの停車場(ば)だ
枕木を焼いてこさへた柵が立ち
(八月の よるのしづまの 寒天凝膠(アガアゼル))
支手のあるいちれつの柱は
なつかしい陰影だけでできてゐる
黄いろなラムプがふたつ点(つ)き
せいたかくあほじろい駅長の
真鍮棒(しんちゅうぼう)もみえなければ
じつは駅長のかげもないのだ
(その大学の昆虫学の助手は
こんな車室いつぱいの液体のなかで
油のない赤髪(け)をもぢやもぢやして
かばんにもたれて睡(ねむ)つてゐる)
わたくしの汽車は北へ走つてゐるはずなのに
ここではみなみへかけてゐる
焼杭の柵はあちこち倒れ
はるかに黄いろの地平線
それはビーアの澱(おり)をよどませ
あやしいよるの 陽炎(かげろう)と
さびしい心意の明滅にまぎれ
水いろ川の水いろ駅
(おそろしいあの水いろの空虚なのだ)
汽車の逆行は希求(ききう)の同時な相反性
こんなさびしい幻想から
わたくしははやく浮びあがらなければならない
そこらは青い孔雀のはねでいつぱい
真鍮の睡(ねむ)さうな脂肪酸にみち
車室の五つの電燈は
いよいよつめたく液化され
(考へださなければならないことを
わたくしはいたみやつかれから
なるべくおもひださうとしない)
今日のひるすぎなら
けはしく光る雲のしたで
まつたくおれたちはあの重い赤いポムプを
ばかのやうに引つぱつたりついたりした
おれはその黄いろな服を着た隊長だ
だから睡いのはしかたない
樺太に行くのですから、夏の汽車の旅です。夜行列車で北へ向かっている。妹さんは前年の秋に亡くなっているので、この夏もぼんやりとした悲しい気持ちを抱えている。
初盆が近づいているということもあるでしょう。田舎の夏は、亡くなった人をしのぶ季節で、みんなが一様にシンミリするものです。でも、賢治さんは若いのだから、シンミリすることはないのに、やはり若くして亡くなった妹さんのこと、とても大事にしていたんでしょう。
楽しくウキウキするような夜行列車の旅もあるでしょうけど、この時の賢治さんは、相変わらず浮遊感たっぷりです。
実際に動いていく車窓、過ぎ去る駅員の姿、電信柱、車内のうつろな照明など、どれも不安で落ち着かない。どこに自分がいるのか、現実なのか、夢の中なのか、本州なのか、東北なのか、自分でもどこをめざしているのかわからなくなってしまう。そんな感じに包まれています。
樺太への旅をいくつかのシーンに分けて書いていて、これはその旅の最初の部分と思われます。
次からは、車内のドラマが始まるようです。
(おゝおまへ(オー ヅウ) せはしいみちづれよ(アイリーガー ゲゼルレ)
どうかここから急いで去らないでくれ(アイレドツホ ニヒト フオン デヤ ステルレ)
《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》
いきなりそんな悪い叫びを
投げつけるのはいつたいたれだ
けれども尋常一年生だ
夜中を過ぎたいまごろに
こんなにぱつちり眼をあくのは
ドイツの尋常一年生だ)
あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはいるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
(草や沼やです
一本の木もです)
《ギルちやんまつさをになつてすわつてゐたよ》
《こおんなにして眼は大きくあいてたけど
ぼくたちのことはまるでみえないやうだつたよ》
《ナーガラがね 眼をぢつとこんなに赤くして
だんだん環(わ)をちひさくしたよ こんなに》
《し 環をお切り そら 手を出して》
《ギルちやん青くてすきとほるやうだつたよ》
《鳥がね たくさんたねまきのときのやうに
ばあつと空を通つたの
でもギルちやんだまつてゐたよ》
《お日さまあんまり変に飴(あめ)いろだつたわねえ》
《ギルちやんちつともぼくたちのことみないんだもの
ぼくほんたうにつらかつた》
《さつきおもだかのとこであんまりはしやいでたねえ》
《どうしてギルちやんぼくたちのことみなかつたらう
忘れたらうかあんなにいつしよにあそんだのに》
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
感ぜられない方向を感じやうとするときは
たれだつてみんなぐるぐるする
わからないままに見切り発車で読み始めているので、わからないところはいっぱいです。たぶん、研究者の方たちはいろいろと研究してくださっているんでしょう。そういうのを読まなきゃいけません。でも、どこにそういう研究書があるんでしょうね……。
いいかげんな読者の私は、とにかく賢治さんと一緒に旅がしたいと思って読んでいるので、ただ聞くばかりです。本当なら、ギルちゃん、ドイツの尋常小学生とかのことがわかるといいんですが、ただ懸命に聞くだけで、まだこれが何なのかつかめていません。残念ながら……。
時々わかるところが出てきます。妹のとし子さんは「みんなが死ぬとなづける そのやりかたを通」っていき、どこへ行ったかわからないと、賢治さんはいいます。
賢治さんは、まだ妹さんは亡くなって、それを他人は「死」というのかもしれないけれど、それを「死」ということばで片付けたくはないのです。自分としても、それは「死」であるのは認めるのだけれど、それだけではなくて、何かを考えたいのです。考えたいから旅に出ているわけであり、吹っ切れていたら樺太なんか行く必要はないのです。吹っ切れていないのです。
どうしても、魂がどこへ行くのかつきとめたい気持ち、何かわかりたい気持ちで旅をしている、ような気がします。とにかく浮遊感いっぱいの汽車の旅でしょ。
ガタンゴドン揺られているような気分になってきました(?)
というわけで、できれば明日、つづきを読んでみたいと思います。
北への旅って、時々寒いくらいで、今の季節には読んでてホッとさせられます。なにしろ毎日暑いですからね。
高校時代に買った角川文庫版の「宮沢賢治詩集」には入っていません。だから、全くそういう作品があったなんて、もう何十年も知りませんでした。
つい最近、賢治さんは妹さんが亡くなってから、そのあと樺太(からふと、現在のサハリン)に出かけていき、そこでいくつかの詩を書いているというのを知ったのです。
鉄道にも関係があるというし、旅の詩というのなら一度見てみようと、ぶ厚い宮沢賢治全集を借りてきて、読もうとするのです。けれども、まるでとりつく島がありません。まったくどこから手を付けたらいいのか、あまりにハードルが高かった。
けれども、何回かに分けて、少しずつ、青空文庫の打ち込み版を、全集と照らし合わせながら、読み進めると、何となくそれらしい気分にはなるので、何回かに分けて読もうと決めたのです。ただの私のためだけの校正作業みたいなものでした。
いろいろと途中で放置してあるものがいっぱいありますが、早くこれも始めておかないいけないと思って、中途半端なままにスタートしてみます。
第1回は、適当なところで切り上げようと思います。最初のところを見てみます。
青森挽歌
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
(乾いたでんしんばしらの列が
せはしく遷(うつ)つてゐるらしい
きしやは銀河系の玲瓏(れいろう)レンズ
巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
りんごのなかをはしつてゐる
けれどもここはいつたいどこの停車場(ば)だ
枕木を焼いてこさへた柵が立ち
(八月の よるのしづまの 寒天凝膠(アガアゼル))
支手のあるいちれつの柱は
なつかしい陰影だけでできてゐる
黄いろなラムプがふたつ点(つ)き
せいたかくあほじろい駅長の
真鍮棒(しんちゅうぼう)もみえなければ
じつは駅長のかげもないのだ
(その大学の昆虫学の助手は
こんな車室いつぱいの液体のなかで
油のない赤髪(け)をもぢやもぢやして
かばんにもたれて睡(ねむ)つてゐる)
わたくしの汽車は北へ走つてゐるはずなのに
ここではみなみへかけてゐる
焼杭の柵はあちこち倒れ
はるかに黄いろの地平線
それはビーアの澱(おり)をよどませ
あやしいよるの 陽炎(かげろう)と
さびしい心意の明滅にまぎれ
水いろ川の水いろ駅
(おそろしいあの水いろの空虚なのだ)
汽車の逆行は希求(ききう)の同時な相反性
こんなさびしい幻想から
わたくしははやく浮びあがらなければならない
そこらは青い孔雀のはねでいつぱい
真鍮の睡(ねむ)さうな脂肪酸にみち
車室の五つの電燈は
いよいよつめたく液化され
(考へださなければならないことを
わたくしはいたみやつかれから
なるべくおもひださうとしない)
今日のひるすぎなら
けはしく光る雲のしたで
まつたくおれたちはあの重い赤いポムプを
ばかのやうに引つぱつたりついたりした
おれはその黄いろな服を着た隊長だ
だから睡いのはしかたない
樺太に行くのですから、夏の汽車の旅です。夜行列車で北へ向かっている。妹さんは前年の秋に亡くなっているので、この夏もぼんやりとした悲しい気持ちを抱えている。
初盆が近づいているということもあるでしょう。田舎の夏は、亡くなった人をしのぶ季節で、みんなが一様にシンミリするものです。でも、賢治さんは若いのだから、シンミリすることはないのに、やはり若くして亡くなった妹さんのこと、とても大事にしていたんでしょう。
楽しくウキウキするような夜行列車の旅もあるでしょうけど、この時の賢治さんは、相変わらず浮遊感たっぷりです。
実際に動いていく車窓、過ぎ去る駅員の姿、電信柱、車内のうつろな照明など、どれも不安で落ち着かない。どこに自分がいるのか、現実なのか、夢の中なのか、本州なのか、東北なのか、自分でもどこをめざしているのかわからなくなってしまう。そんな感じに包まれています。
樺太への旅をいくつかのシーンに分けて書いていて、これはその旅の最初の部分と思われます。
次からは、車内のドラマが始まるようです。
(おゝおまへ(オー ヅウ) せはしいみちづれよ(アイリーガー ゲゼルレ)
どうかここから急いで去らないでくれ(アイレドツホ ニヒト フオン デヤ ステルレ)
《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》
いきなりそんな悪い叫びを
投げつけるのはいつたいたれだ
けれども尋常一年生だ
夜中を過ぎたいまごろに
こんなにぱつちり眼をあくのは
ドイツの尋常一年生だ)
あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはいるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
(草や沼やです
一本の木もです)
《ギルちやんまつさをになつてすわつてゐたよ》
《こおんなにして眼は大きくあいてたけど
ぼくたちのことはまるでみえないやうだつたよ》
《ナーガラがね 眼をぢつとこんなに赤くして
だんだん環(わ)をちひさくしたよ こんなに》
《し 環をお切り そら 手を出して》
《ギルちやん青くてすきとほるやうだつたよ》
《鳥がね たくさんたねまきのときのやうに
ばあつと空を通つたの
でもギルちやんだまつてゐたよ》
《お日さまあんまり変に飴(あめ)いろだつたわねえ》
《ギルちやんちつともぼくたちのことみないんだもの
ぼくほんたうにつらかつた》
《さつきおもだかのとこであんまりはしやいでたねえ》
《どうしてギルちやんぼくたちのことみなかつたらう
忘れたらうかあんなにいつしよにあそんだのに》
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
感ぜられない方向を感じやうとするときは
たれだつてみんなぐるぐるする
わからないままに見切り発車で読み始めているので、わからないところはいっぱいです。たぶん、研究者の方たちはいろいろと研究してくださっているんでしょう。そういうのを読まなきゃいけません。でも、どこにそういう研究書があるんでしょうね……。
いいかげんな読者の私は、とにかく賢治さんと一緒に旅がしたいと思って読んでいるので、ただ聞くばかりです。本当なら、ギルちゃん、ドイツの尋常小学生とかのことがわかるといいんですが、ただ懸命に聞くだけで、まだこれが何なのかつかめていません。残念ながら……。
時々わかるところが出てきます。妹のとし子さんは「みんなが死ぬとなづける そのやりかたを通」っていき、どこへ行ったかわからないと、賢治さんはいいます。
賢治さんは、まだ妹さんは亡くなって、それを他人は「死」というのかもしれないけれど、それを「死」ということばで片付けたくはないのです。自分としても、それは「死」であるのは認めるのだけれど、それだけではなくて、何かを考えたいのです。考えたいから旅に出ているわけであり、吹っ切れていたら樺太なんか行く必要はないのです。吹っ切れていないのです。
どうしても、魂がどこへ行くのかつきとめたい気持ち、何かわかりたい気持ちで旅をしている、ような気がします。とにかく浮遊感いっぱいの汽車の旅でしょ。
ガタンゴドン揺られているような気分になってきました(?)
というわけで、できれば明日、つづきを読んでみたいと思います。
北への旅って、時々寒いくらいで、今の季節には読んでてホッとさせられます。なにしろ毎日暑いですからね。