甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

宮沢賢治「青森挽歌」 その2

2015年07月30日 18時18分56秒 | 賢治さんを探して
 賢治さんは妹さんが亡くなったことを考えたかった。考えてもどうにもならないことだけど、とにかく日常に流されるんじゃなくて、ふみとどまって、できたらそれにふさわしい場所で、どこかにいる妹さんを追いかけてみたかった。

 そういう気持ちで汽車の旅に出ました。花巻から青森なら、今だったら新幹線に乗れば2、3時間で行ってしまうでしょうけど、当時は半日、1日かけないとたどりつけないところだった。

 そこからさらに北に向かえば、広大な原野の広がる北海道でした。そこへ行くにも半日くらい掛けなきゃ行けませんでした。だから、青森にたどり着いた賢治さんは、かなり非日常的な空間を走っているわけですね。

 時間はたっぷりあるのです。長い夜はつづきます。外を見つめながら、どうにもならないけれど、今まで一緒に過ごしてきた妹さんのことを思ってあげようとしたのです。


《耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい》

さう甘へるやうに言つてから
たしかにあいつはじぶんのまはりの
眼にははつきりみえてゐる
なつかしいひとたちの声をきかなかつた
にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた

それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう
わたくしがその耳もとで
遠いところから声をとつてきて
そらや愛やりんごや風 すべての勢力のたのしい根源
万象同帰のそのいみじい生物の名を
ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき
あいつは二へんうなづくやうに息をした
白い尖(とが)つたあごや頬がゆすれて
ちひさいときよくおどけたときにしたやうな
あんな偶然な顔つきにみえた
けれどもたしかにうなづいた


 何ヶ月も前のことなのに、はっきりと賢治さんはおぼえています。一緒に過ごしてきた日々が鮮やかによみがえります。でも、そのときすでに彼女は、何か考えているような、この世の人とはどこか距離をおくような感じだったということも思い出します。

 妹さんは、そうして賢治さんたちの世界からだんだん遠ざかっていった。賢治さんは、現実の世界に連れて来ようとあれこれと話しかけたのだけれど、それらはみんなどこかへ消えてしまって、妹さんは、静かにうなずいたまま、どこかへ行ってしまったのです。それを賢治さんは、しっかりと憶えているし、わすれたくないと思っていた。



   《ヘツケル博士!
    わたくしがそのありがたい証明の
    任にあたつてもよろしうございます》
 仮睡硅酸(かすゐけいさん)の雲のなかから
凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は……

 (宗谷海峡を越える晩は
  わたくしは夜どほし甲板に立ち
  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
  からだはけがれたねがひにみたし
  そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

たしかにあのときはうなづいたのだ
そしてあんなにつぎのあさまで
胸がほとつてゐたくらゐだから
わたくしたちが死んだといつて泣いたあと
とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ
ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで
ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない



そしてわたくしはそれらのしづかな夢幻が
つぎのせかいへつゞくため
明るいいゝ匂のするものだつたことを
どんなにねがふかわからない
ほんたうにその夢の中のひとくさりは
 かん護とかなしみとにつかれて睡つてゐた
おしげ子たちのあけがたのなかに
ぼんやりとしてはいつてきた




 亡くなるときのことを思い出しているようですね。このあたりを読んでいると、これは賢治さんの妹さんのお話なんだけど、人ごとじゃなくなってしまって、まるでうちの父が亡くなる場面のような気がしてなりません。

 私は、夜中に呼び出されて、ずっと父を見守るしかなかったのですが、あの時と同じです。どうしようもなくて、ただ何とかしてあげたくて、ただ見守るしかなかった、あの感じです。

 私は今まで、このオッサンになるまで、家族の死・身内の死というのをほとんど経験していなかったので、ノホホンと暮らしてきたせいか、父の死で初めて目が覚めたというのか、初めて死を見つめることができたというのか、今までそれなりにしんみりしてきたはずなのに、少しだけ大人になれたというのか、そんな感じでした。

 大切な人の死というのは、仕方ない一方で、どうしてあんなこと、こんなことしてあげられなかったんだろうという悔いがいっぱいいっぱい出てくるものです。

 遠い存在の人なら、自分から何かしてあげようというんじゃなくて、その人の知らない面がいっぱいあるから、ただ知りたいというだけで、興味・好奇心・知識欲のような、頭でつくった悲しみみたいな気がします。

 身近な大切な人なら、とにかく動き回りたいし、何かしてあげたい気持ちがいっぱいになります。

 賢治さんは、やっと妹さんのことを思ってあげられる時間が取れて、流れゆくうす暗い風景の中に妹さんを探すのでした。



 いくら探しても、見つからないのです、たぶん。でも、探さないわけにはいかないのです、絶対に。とにかく、探すのです。そして、見つからなくて疲れるのです。それでもいいのです。何か、してあげたいし、何か見つかるかもしれないのです。そして、ふっとこみあげるものもあるでしょ、それでいいんじゃないかな……。どうせ、私たちは何もできないのです。でも、しないわけにはいかないのです。





 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。