★ 指宿通信 第10稿 ……2019.1.3 Thu 3:44am 今日もくもり?
こんな時間にまた起きてしまいました。まあ、仕方がありません。家でならコテッと寝れる時もありますが、あれこれ考えてしまって、眠れなくなりました。
1:46amにトイレに起きました。「なあんだ、これくらいしか寝れていない!」と、自分の体に残念な気持ちで起きたものでした。もっとトコトン眠れたらいいのに、オシッコやら、つまらない妄想で眠れなくなってしまう。まあこれも贅沢病というやつで、もっと寝ることに貪欲なというか、必死になって眠ろうとする人もいると思われますが、私は、「ああ、眠れない!」とのん気な不満をもらしているだけです。ちっともかわいそうではなくて、お気楽なオッチャンの贅沢な悩みです。そんなヤツはもう二度と寝なくていい!
そんなこんなで、この夜二度目のトイレをきっかけに起きることにしました。朝まで起きているのか、途中で少しだけでも寝るのか、それはわかりません。5時くらいまで起きているようだったら、もうそのままゴハンを食べて、6時の電車で隼人に行き、鹿児島神宮にお参りしてくることにしましょう。あと1時間くらいです。
寝転がってモンモンとしている間、従兄の奥さんのおしゃべりをしていたリズムがずっと耳で鳴り響いていました。それくらい耳に残ってしまうおしゃべりだった。中身は大したことは言ってないし、何も心に残らないしゃべりなのだけれど、ワンワンと耳に鳴り響くあのリズムは大したものでした。久しぶりに人の話を聞いて疲れを感じました。
ただもう相手に自分の話を聞かせたくてしゃべっていて、ちっとも相手のことを考えてくれない話者で、それがとても残念でした。母が何かしゃべろうとしたりすると、少しだけ止まる姿勢も見せていたけれど、大半は相手のことお構いなしのしゃべりでした。それがこの人へのまわりからの評価にもなるようで、残念な気がしました。
自分さえ語ればいいという、ものすごい独善的なしゃべりになってしまうから、相手との対話も何もないのです。さんざんしゃべっていると相手との溝ができてしまうわけで、損をしているはずです。でも、本人はたくさんしゃべったら満足するみたいで、これはもう仕方がないのかもしれない。この人は数十年ずっとそうしてきたし、従兄の人はそれを認めてきたのでした。それさえ愛していたでしょう。
他には何を考えたかというと、定型についてでした。
たとえば、「海」です。どんな海かというと、定型の海です。
うみはひろいな おおきいな(七・五)
つきがのぼるし ひがしずむ(七・五)
うみにおふねを うかばせて いってみたいな よそのくに
うみはおおなみ よせるなみ ゆれてどこまで つづくやら
こんな言葉で海のすべてを表現できているとは思わないけれど、それでも単純な繰り返しと、海への畏敬・憧憬も表されていて、定型の伝える伝播力が隠されている。従兄の奥さんの百万言は何も相手に伝わらないのに、こんな単純なリズムとわずかなことばが、相手にもそれを発する人にも、静かに広がる力があるのではないかと思うのです。ただベラベラしゃべればいいというものではありません。しゃべり過ぎてまわりを凍らせる人はたくさんいます。
それで、紅白で見たユーミンだと、「やさしさに包まれたなら」だったら、
ちいさいころは かみさまがいて(七・七)
ふしぎにあいを とどけてくれた(七・七)
歌詞が間違っているかもしれないけど、やはり定型になっていた。
ちいさいころは かみさまがいて(七・七)
ふしぎにあいを とどけてくれた(七・七)
歌詞が間違っているかもしれないけど、やはり定型になっていた。
そうなのです。定型は相手に届けることばとしては、強い力があるような気がするんです。今の歌はそうした定型でない、くどくどしいものが多い(私の偏見だと思われます)気がするけれど、いつかまた定型にもどったり、見直したり、新しい定型を作っていったり、そうした工夫が必要になると思ったりしました。
なあんだ、大したこと考えたわけではなかった。残念です。私もくどくどしいオッサンで、大したことが語れていない。残念だなあ。
4:16amになりました。再び寝るのにチャレンジしてみますか。それとも本を読むかな。それがいいですね。寒くなってきました。夜が明けたら、私は指宿を出発します。うれしいような、かなしいような気分です。うれしさの方が大きいかな。どうだろう。