甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

渚の五十五年(川口祐二)1988   第1回

2014年02月24日 20時20分35秒 | 三重の文学コレクション
 三重県度会郡(わたらいぐん)南勢町(現在は南伊勢町に変わりました!)の川口祐二さんという方に出会ったのは、今年の1月12日でした。ターナー展にクルマで神戸まで出かけ、あわただしくターナーさんを鑑賞して、例によって元町を歩きに行きました。

 昼ご飯が大津のSAでのカツカレーだったので、お口直しがしたくて、例によって風月堂に行きました。いつもなら、2階に上がって何か食べるのに、この日はケーキを食べようと思い、下でケーキセットを食べました。何やらよくわからないままにケーキを食べて、妻としばらく別行動をとることになりました。

 元町商店街の奥をめざしました。昔、海文堂があったあたりを通り過ぎると、右手に(山側に)地下にもぐっていく古本屋さんがあって、ここでほんの一瞬で岩波新書3冊を選び、その中の1冊が加藤周一編の「私の昭和史」という本でした。15人の昭和を生きた人たちの文章が取り上げられています。1988年の発行なので、いよいよ昭和も終わるかという時に出た本でした。

漁村の窮乏!
  三重県の漁村の女房たちは、亭主との中にできた〈子供〉を(間引)したかどで、一小隊ほど   も法廷に立たされた。(〈 〉は伏字を起こした個所)
 この一文は、岩波文庫の一冊、『踏査報告 窮乏の農村』の中にある。52年の生涯を、日本の農業の研究に特別の情熱を傾けたといわれる猪俣津南雄が、全国にわたる踏査見聞の中で、三重県の一漁村の窮乏をこのような短文で報告したのは、1934年であった。

 この報告の内容は、私の生まれた小さな漁村のことである。1930、31年ごろ、熊野灘沿岸の漁村の疲弊(ひへい)の深刻さは、言語に絶するものがあった。女房たちは、生まれ落ちた赤子を扼殺(やくさつ)した。1931年1年間の出生児の半分が、それぞれ母の手によって殺された。子どもは名もつけられず海に流された。波はそれを沖へは運ばず、もう一度渚へ押し戻した。事件の発覚はこれによる。

 当時の漁村は窮乏(きゅうぼう)を極めた。カツオ一本釣りを生業(なりわい)としていたが、流通機構がほとんどない孤立した漁村では、値も安く、満足な生計維持はむずかしかった。主婦たちは、猫の額のような段々畑でのサツマイモづくりのほか、わら草履、わらむしろづくりなどによる一銭二銭のわずかな副収入によって、家計を支えた。子ども一人増えることは、貧窮の上に貧窮を加える以外の何ものでもなかったのである。

 私は1932年6月生まれ、7人目の末子である。母は産むことを迷ったという。7番目の子が腹に宿ったと知ったとき、村を騒がせた事件は終息に近づきつつあったが、産むことに対する迷いは続いただろう。しかし、ある意味ではこの事件が、貧乏を承知で産むことを決意させたのかも知れない。法廷にだけは立ちたくない、と思ったからだ。それは私の母だけではなかった。以来、この事件は誰の口からも語られることなく、むしろ、口にするのを禁じられたかのように押しだまって、海の村の女房たちは、昭和の時代を生きてきたのである。ただ、村においては、1931年生まれの者が極端に少ないという事実だけを残した。

 一学年上の組が、他の学年に比べて半分ぐらいの人数しかいないことを不思議に思い、私は母にたずねたことがあった。その時の答えが、猪俣津南雄の報告と同じだったのである。産婆もそれに手を貸して、死産のように見せかけたという。
 「次ぎ次ぎと警察へ引っ張られて行ってな、そらすごい事件やった。」
 縫い物の手を動かしながら、母はこう言った。

 漁村に住む人びとは、おしなべて明るく気性はさっぱりしている、といわれるが、昭和時代六十余年の歳月の中には、このようなおぞましい、苦渋(くじゅう)に満ちた歴史の一ページのあることを忘れてはならないだろう。以後、産めよ殖やせよの戦時思想のひろがる中で、女房たちは、白エプロンにたすき掛けの国防婦人会組織へ組み込まれていった。


 川口さんはうちの父より2歳年下で、お元気であれば81歳になっている。この方たちの生まれた年、三重県の漁村は貧乏だったのでした。いや、漁村だけじゃなく、農村も都市部も、日本全体も貧乏で、産業はなく、ブラジルやハワイ、カリフォルニアに入植したり、満州に理想を求めたり、樺太へ行ったり、それはもう、国内でやっていけない人たちがいっぱいいたのです。今、日本でのんびり暮らしている私たちの生活なんて、ひょっとするとニセモノというか、仮の世界なのかもと思うとゾッとします。まさか、そんなことはないと思いたいけれど、つい80年前の日本では、貧しくて集団でわが子を親たちが殺さざるを得ないような事件が起きていました。

出征兵士を送る場に
 昭和一桁生まれの者にとって、自分の少年時代の思い出は、必ず戦争と重ならざるを得ない。戦争をぬきにしては語ることはできないのである。戦争末期の学童集団疎開こそ経験しなかったものの、地方の暮らしにも、それなりの不安と暗さがただよっていた。

 尋常高等小学校から国民学校へと名前が変わり、担任の先生は次ぎ次ぎと出征兵士として戦地へ赴いた。半年、いや短い場合は1学期だけで担任の先生が代わった。指折って名を挙げると、10人にも達する。

 まだ太平洋戦争に入る前であった。若い先生に私は放課後、特別に習字をさせられた。1時間ほど指を墨で染めるようにして字を書いたあと、浜辺の見える学校の前の小高い松林へいっしょに登って、歌をうたった。日本にはこんな歌があるぞ、と言って歌ってくれたのは、
みぞれ、/北風、/坊主山。

山のうえから/ながめたら、
ぼくの学校が見えました。

お掃除番で/しめてきた。
   窓が小さく見えました。

みぞれ、/北風、/坊主山。

   あしたは/雪が降るでしょう。

という歌であった。学校が下に見えた。童謡を歌って聞かせてくれた先生は、ある日突然、兵士となって中国へ渡った。そして半年もたたぬうちに、戦死した。

 きのうまで教壇に立っていた先生が、次の日、赤だすきを肩から斜めに掛けて海を渡って行くことが多くなっていった。十年ほど前、嬰児(えいじ)の死体が流れついた浜辺に立って、村中の人々が出生していく若い先生を見送った。日の丸の白い旗の波が、青い海の波と相対峙していつまでも続いた。その間を船は進む。先生は船上で何度も頭をさげた。子どもたちはそのたびに大声でばんざいと叫んだ。浜辺を区切る岩山が海に突き出ていて、そこには大きな穴が開いていた。海蝕洞(かいしょくどう)といわれる穴である。その穴の向こうに遠ざかる船が見える。一瞬の船影に最後の喚声をあげたのである。

 いつの間にか、渚は出征兵士を見送る場所となった。白いエプロン姿の母親たちも大勢並んだ。彼女たちは、足元の渚の悲劇を思い起こすこともなく、戦争への協力体制の一員となっていった。

 漁村の母親たちは、ヒジキやヒロメを刈り、フノリを摘んだ。夏にはアラメを浜に干し、テングサをこも袋に入れるのに足で踏んで固めた。それらの暇には、慰問袋づくりをした。節約するにも物資はなかったけれど、芋飴などを貯めておいては袋に入れた。慰問袋の提供は、県が村で組織している国防婦人会の支部へ命令した形であった。1940年において、一村で100袋から150袋の強制割当があり、当時の記録を見ると、慰問袋とともに、金円の寄付(1袋に1円)を要求している。

 子どもたちは食べたい飴をがまんして食べずに残し、芋の餅(サツマイモを蒸して餅状にしたのを干し固めたもので、当時のおやつとしては最高のものであった)を添えて作った慰問袋を学校に提出した。ある日、その袋がからになっているのを職員室で見つけた。先生が空腹をいやすために中のものを食べてしまったのを後で知ったが、食いもののうらみでか、その時は一日中腹が立って仕方がなかったのを、今でも思い出す。


 数十年前の、戦中の小学生たちが見た学校風景です。そして出征風景です。まるでNHKの朝ドラのような情景です。少し漁村テイストがありますが、どこにでもあった風景なのでしょう。食べ物のこと、先生たちの様子、あれこれ感じるものがあります。多少、時代がずれるでしょうけど、同じく伊勢の竹内浩三さんなんかは、見送られていく兵士の側だったんですね。

 「ぼくもいくさに行くのだけれど」と頼りない気持ちを彼は書いていましたが、川口さんは小学生として見送っていたのですね。今日は少し引用が長くなってしまいました。スミマセン。



★ 実は現在も三重県で、あれこれ活動しておられて、新聞にも出たり、あれこれされている方でした。実はこのあとに書き写したところはあったのですが、それは失礼だと反省して、それからあとはボツにしました。

 うちの父よりも若い方なんだから、元気でおられて当たり前で、そんなこともわからない私がアホウでした。たまたま見つけた岩波新書が古かったので、ここに書かれた方々はみんなもう歴史の彼方に行かれたのではないかと早合点しました。完全な私のミスでした。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。