キーンさんの自伝は、2007年に『私と20世紀のクロニクル』というタイトルで中央公論新社から出されたもので、文庫化するにあたって『ドナルド・キーン自伝』2011 という本になりました。
ドナルド・キーンさんは、2011年の東日本大震災の後、日本国籍を取得し、2016年に亡くなるまで日本人として過ごされたそうです。
優しくて、理知的で、いろんなことを知っておられて、日本の文学を愛してくださった巨人です。
すっかりその存在を忘れていました。あまりに遠いところにあるような気がしていましたし、三島由紀夫さんや、司馬遼太郎さんと関わってくださると、少しだけ興味も起こりましたが、すぐに忘れてしまう私は、キーンさんから遠ざかっていました。でも、たまたま古本市で何となく手にした本の中にキーンさんの本があったんですね。すごく安かったと思います。信じられないくらいに。
1月ももうすぐ終わりという日々の中で、何となく気が向いて、家の書棚から取り出してました。とても面白くて、半分くらい読みました。そして、キーンさんがどうして日本語を学ぶことになったのかとか、たまたま戦争があって、その時に通訳として従軍し、通訳なのでたくさんの日本人の普通の人々の日記というものにふれ、そういうものは何も軍事機密なんかは書かれてなかったのですが、日本の一般庶民の書く日記というものを研究の最初でふれることになって、そこにもキーンさんの日本研究の一つのルーツみたいなのもあったのだ、と思ったりしました。
そもそも、どうしてキーンさんは、日本語の研究者になったんでしょう。スポーツはそんなにできる方ではなくて、記憶力は良かったそうです。勉強の才能はあったのかなあ。言語習得にはあれこれチャレンジして、フランス語、中国語、古典ギリシャ語、などいろんな言語を学んでいたということでした。
1940年頃、たまたまニューヨークの本屋さんでアーサー・ウェイリーという方の翻訳の『源氏物語』に出会い、少しずつこの世界にひかれていったということでした。
主人公の光源氏は、ヨーロッパの叙事詩の主人公たちと違って、男が十人かかっても持ち上げられない巨石を持ち上げることが゛できる腕力の強い男でもなければ、群がる敵の兵士を一人でなぎ倒したりする戦士でもなかった。
また源氏は多くの情事を重ねるが、それはなにも(ドン・ファンのように)自分が征服した女たちのリストに新たに名前を書き加えることに興味があるからではなかった。源氏は深い悲しみというものを知っていて、それは彼が政権を握ることに失敗したからではなくて、彼が人間であってこの世に生きることは避けようもなく悲しいことだからだった。
という風に、20歳のキーンさんは、1000年前の日本の文学作品に、出会ってしまって、その世界からどんな作品が出てくるのか、それらとしっかりと出会いたいとでも思ってくださったんでしょう。
語られる出会いに、キーンさんは勤勉とそれを多角的に学びたいという研究心と、人との出会いをきっかけに、それをしっかりと育てていく、たまたま本によって日本には出会ったけれど、そこから後は、しっかりと人との出会い、これはと思う人とは親友にもなっていく、キーンさんの人間力みたいなのを感じました。
たまたま同宿人になった永井道雄さん(文部大臣にも抜擢されたことがありました)、そのつながりで嶋中鵬二さん(中央公論のえらい人で、キーンさんの著作もここからたくさん出ています)たちとは終生の友にもなった、と書いておられました。たぶん、キーンさんがこれはと見込んだ人だから、相手の人たちもキーンさんを認めて行った。
後半でも、もっと人との関係を語って行かれると思うので、今夜も続きを読んでみます。たまたま今は風が強いし、明日は交通大パニックだろうし、道も凍結していると思われますが、今はもう寝転んで本を読むだけです。