早く吉野に行ってほしいのに、なかなか宣長さんは吉野にたどりつきません。私の住んでいる世界でもサクラは散り、ハナミズキや八重桜や、初夏の花が咲き始めました。ツツジもシャクヤクも咲いています。ボタンだって咲くんだろうな。
されどしばしにて、里はなるゝ程はきよくやみぬ。あなたよりいる口に、いと大きなるあけの鳥居たてり。さて出はなれて、出雲村・黒崎村などいふ所をすぐ。このあたりは朝倉宮・列木宮(なみきのみや)などの跡と聞ききこしかばいとゆかし。
雨は降りましたが、里を離れたあたりであっさりと止みました。道の向こうに大きな朱塗りの鳥居が立っています。そこをもう少し行くと出雲村、黒崎村というところを通過します。このあたりは朝倉の宮、列木の宮などの跡だと聞くと何やら心ひかれるものがあります。
★ 長谷朝倉宮は雄略天皇の都、長谷列木宮は武烈天皇の都だそうです。こんな奈良の山奥に都があったんだろうか。
此くろざきに、家ごとにまんぢうといふ物をつくりてうるなれば、かのふりにし宮どもの事たづねがてら、あるじの年おいたるがみゆる家見つけて、くひに立ちよる。さてくひつゝとふに、ふるき都のあととばかりはうけたまはれど、これなんそれとたしかにつたへたるしるしの所も侍らずとぞいふ。
この黒崎では家ごとに饅頭を作って売るそうなので、過去にあった都のこともついでに訊ねてみようと、年老いた主のおうちを見つけて饅頭を食べさせてもらうことにしました。食べながら都のことを質問してみました。するとその家の主人は、古い都の跡があるというのは聞いておるのですが、ここがその場所であるというのがわからないとのことでした。
高円山(たかまどやま)はいづこぞととふに、そはこのうしろになん侍るとてをしふるを見れば、この里よりは南にあたりて、よろしき程なる山のいたゞきばかりすこし見えたる、今はとかま山となんいふとぞ。
高円山はどこにありますかと訊ねてみると、それはこの後ろにございますと教えてくれるのを見ると、この里からは南にあって、その山のてっぺんが少し見えていて、今はとかま山と言うそうです。
まことの高円山は春日にこそあなるを、こゝにしもその名をおふせつるは、もとよりとかまといふが似たるによりてか、又は高円山とつけたるを里人のもてひがめてかくはいふか、いづれならん。脇本・慈恩寺などいふ里をゆく。こゝよりはかのとかま山ちかくてよく見ゆ。
本当の高円山は春日大社のある奈良の都にありますが、ここでもその名をつけているのは、もともと「とかま」という音が似ているからそうなったのか。または高円山とついているのを里人が呼び方を変えてこのように「とかま山」と呼ぶのか、どちらかなんでしょう。脇本・慈恩寺などという里も過ぎていきます。そのあたりから「とかま山」はとても近く望めました。
この里の末を追分とかいひて、三輪の方へも桜井のかたへもゆく道のちまたなり。今はそのすこしこなたより左へわかれ、橋をわたりて、多武(とう)の峯へゆく細道にかゝる。この橋ははつせ川のながれにわたせるはしなりけり。
この里のはずれを追分として、三輪山の方へも桜井の方へも行くことのできる道の分岐点となっている。私たちはその追分の手前から左に入り、橋を渡って多武峰に向かう細道を歩くことになった。この橋は初瀬川の流れに渡した橋でした。
そも/\たむの峯(多武峰)へは桜井よりゆくぞ正しき道にはありける。とび村などいふもその道なりといふなれば、それも名ある所にて、たづね見まほしき事どもはあれど、みな人ほどの遠きをものうがりて今の道には物するなりけり。東の方にいと高き山をとへば音羽山とぞいふ。音羽の里といふもその麓にありとぞ。
そもそも多武峰へは桜井から入っていくのが正しい道だと言われています。とび村などというところもその道だそうです。それらも有名なところで訪ねてみたいと思われますが、私たち一行は遠回りをするのが面倒で今の道にしたのでした。東の方にとても高い山があるので山の名を訊いてみると、音羽山というそうです。音羽の里というのがその山の麓にあるということです。
忍坂(おさか)村は道の左の山あひにて、やがてこの村のかたはらをとほりゆく。こゝもふるき歌に見え、神の御社などおはすなれど、ゆくさきいそがれてさまではえたづねず。なほ山のそはづたひをゆき/\て倉梯(くらはし)の里にいでぬ。こゝはかのさくら井よりくる道なりけり。はつせよりこし程は二里。たむのみね迄はなほ一里有とぞ。
忍坂村は道の左の山あいにあり、このまま村のそばを通り抜けていきます。ここも古い歌に詠まれていて、古いお社があると聞きますが、先を急ぐ私たちはお訪ねすることができなくなりました。山をそのままたどっていくと倉梯の里に着きました。ここで桜井から来る道と合流します。長谷寺から8キロ。多武峰まではまだ4キロほどあるということでした。