甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

水上勉さんのことば 母親について

2015年08月17日 21時46分13秒 | 本と文学と人と
 母と姫路の方へ遊びに行きました。こまかいことは置いておいて、とにかくずっと母は、
「今日はカンカン照りじゃなくてよかったわー」を繰り返していました。

 あまりに同じことばかり言うので、おかしくなったんじゃないの、とふと不安になったりしましたが、それはまあいつものことなので、その発言の度に私は「うんうん」と、同意のような、賛同のような、適当な返事をしていました。

 私にとって母は、いつも不変のこわれたテープレコーダーで、同じことばかりを繰り返す、不変の姿ですけど、帰りに読んでた水上勉さんの「足もとと提灯」(1976/1977のエッセイ集の集英社文庫版)では、水上さんは次のようなお母さんの姿を書いておられました。




 昭和五年の二月十八日。この日は若狭は大雪に見まわれた。岡田村から本郷の駅までゆくのに、激しい吹雪だった。私は、母親と村の和尚とにはさまれて雪の中を出かけた。生涯のうちでこれほどかなしかったことはない。駅は単線で一分間停車だったので、ピッと汽笛の音を聞いたかと見るうちに雪の中にかくれた。母は、改札口の柵のところに手をつき、雪まみれの蓑(みの)の下から、ひしゃげた顔を汽車の窓に向け、いつまでも、ぺこぺこと卑屈な頭を下げていた。なぜ母親が、産んだ子の門出にこんなに卑しい頭の下げ方をしたのかいまでも不可解だ。

 私はこの母の姿を今でも思い出す。そうして、次のように思うしかない。
〈母は私を放したくなかったにちがいない。しかし、私が京都の寺へゆけば、どうにかこうにか修行して一人前の坊さんになれるだろうと思ったにちがいない。いや、そう思うことで、あのとき、母親は九つの子を放す苦しみに耐えたのだろう。五人もの子どもがごろごろしていて、食うにも困っていたから、一人ぐらい放しても仕方がないと思ったのだろう……〉



 この母の面影は、生涯私の脳裏(のうり)からはなれないと同時に、私の頭の中にだけ生きる姿となった。現在生きている母は、もはや、もぬけのカラのような姿で私の眼に映る。もっと正確にいえば、私はこの二月十八日の大雪の日に母を失った。生家も失った。
 それから、私は、京都の寺へいった。母のまぼろしだけを抱いて暮らした。 


 水上さんは、9歳で家を出て、何回か家には帰ってはいますが、仮の宿りみたいなもので、大半は家にはいなかった。戦時中は満州にでかけたそうで、そこで結核になり、普通ならそこで亡くなるはずだったのが、たまたま快癒し、それからは東京に出ていろんな職業を経験して、服の行商をしている時に小説を書き始め、とうとう小説家になったということだそうです。

 それからは東京に遊びにおいでと呼び出しても、お母さんは東京には来られず、いなかで取れるものを送ってくださっただけだったそうです。

 このエッセイ集は、水上さんの五十代後半のものらしくて、お母さんは七十代後半になっておられたようです。それでも、水上さんにとってのお母さんは、9歳で卑屈に頭を下げていた姿のままのイメージが焼き付いていたということです。

 京都では2回お寺を出奔して、こつじき生活みたいなのも経験したそうです。そうしたお寺での生活で学んだことというと……、



 戒律がきびしいほど、人間は曲がるものである。つまり、これは、先輩にいじめぬかれて育った小僧仲間を見ていての私の勝手な感想だったが、誰ひとりとして従順な者はいなかった。兄弟子の眼をのがれてわるいことばかりしていた。私もその一人であった。盗み酒は常習で、十八歳で誰もが女買いをおぼえた。深夜、寺院の塀を乗りこえて西陣の五番町へ走るのである。頭を坊主にし、一律に墨染めの衣を着せて、修行させても、人間はみなそれぞれ横着なもので、型にはまらないものだ、といことを知った。

 なかなか解脱できない小僧さんたちから、人間というものを学んだらしい。すべてがこんなじゃないと思うし、今の若者たちはこんなことをする意欲がない気がするから、今のお寺の小僧さんたちはまた違ったものを学んでいると思うのですが、とにかく、人間の型にはまらないことを知ったということです。



 母親は大切にすべし。産んでくれた母親を大切にせよ、などというのは、もっとも常識的なことながら、この常識が忘れられていた社会(寺院)に育った私には、痛切に感じられたまでである。寺院は出家の家であった。

 つまり、幼くして父母を捨て、在家を出てきた者の家であった。そこには、出家得度の道があるだけで、私は母と全く、遮断されて暮らした。仏法には母親を大切にしてはいけないという法が説かれているはずもないのだが、私の育った寺がわるかったのだろうか。盆にも正月にも、一日の休暇ももらえず、私は、はるか北の空を拝んで、ああ、あの雲の向こうに若狭がある。母が生きている故郷があると、心に思うて暮らすしかなかった淋しさを今日でも思い出す。


 ということで、水上さんと比べたら、うちは母とベッタリで、しあわせというのか、不幸というのか、面倒というのか、それも私の運命というのか、とにかく私は、ものすごく母を身近に感じないではいられなくて、明日もあれこれ家の水道が壊れたとかで、水道屋さんを呼んであれこれするみたいだけど、どうなるのかなと心配していたりします。

 ああ、母は有り難いものだけれど、大事にしなきゃいけないのだけれど、一日母につきあっていたせいで、何だか疲れた今日の夜です。

 もう早く寝て、明日からリセットしようと思います。

★ 今日の夕方、クルマを止めて母に電話しました。私たちが三重に帰ってから、母は父のためにおだんごを作ったり、果物やお菓子を買ってきたり、お供えの料理も五品作ったりしたというのを自慢していました。

 私は、それを聞いて、何だかホッとしたものでした。母はあんなに暑い大阪で、今日も明日も過ごしていく。けれども、それなりに元気そうだし、電話の声を聞くと、また母に会いに行かなくちゃと思うのです。……それで、実家に帰ると、母の話はあまり聞かないでお酒飲んでばかり。もうとんでもないサイクルが続いています。


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1 コメント

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はじめまして (雨あがりのペイブメント)
2016-02-24 22:42:36
 登録させていただきました。
水上勉は大好きな作家のひとりです。
「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「金閣炎上」などが好きです。
 今回の「エッセイ」ありがとうございます。心に残るエッセイですね。
今後ともよろしくお願いします。
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