高校1年の夏、Kは初めて東シナ海を見た。
その印象は、強烈で、何か形にしたいと彼は思った。たまたま、Kは下手くそな詩を中3の頃より書いていたので、表現手段として詩を書いてみることはできた。けれども、何が詩で、どこに詩心があるのか、あまり自分の中で深く考えることはなく、ただ、短いことばを分かち書きにして並べることしかできていなかった。次の詩も、誰に見せるわけではなく、とりあえず見た風景にことばをあてはめたものであった。
吹上松林 [1975・8・7 吹上浜を旅して]
その長く続く松林を通り抜けていった。
さいはての海。
もう緑の大地はなくなって、静かに終わりを告げる。
はてしなく遠い。
雲は、向こうの水平線の上に浮き、
波は、水平線のかなたから流れ落ちてくる。
雷鳴が海をさらってガガガガーッとやってくる。
松林をおもいっ切り振るわせ、光り、
そして、海と一つになって消えてしまった。
緊張を破って、
潮風が湿気をかすかに含んでそよいできた。
心がやすらいで、ほっとそちらへ微笑みかけたら、
突然また光り、消えた。
浜は硬く足跡を拒み、
いつかまた海が迎えにくるとき、
その時を待っているみたいだ。
向こうに、海に突き出た笠沙(かささ)からは、
憩(いこ)うべき島もない大海だ。
いつか陸は果てて、海に呑まれてしまう。
吹上はさびしく、
少女もいない。
ただうらがなしく風が寄せ来るだけ。
寄せ来る風は山を越し、また海に帰っていく。
少女もいないし、
冷たくただ海があるだけ。
でも松林は生きている。
風に吹かれても、
長く長く松林は続いている。
夕立の雲がやってくる。
もうすぐ雨が降りそうだ。
★ 笠沙とは、南北に広がる吹上浜の南に見える半島です。秋田のあちらこちらの海で男鹿半島が見えたり、静岡のあちらこちらで巨大な伊豆半島が見えたり、薩摩半島から錦江湾越しにどこまでも大隅半島が見えたりする、ああいう感じで笠沙の半島は見えるんです。
高1の夏の鹿児島の旅で、一番印象に残ったのは吹上浜であった。Kたちがたどりついたのは夕方でもう泳ぐことはできなかった。ただ、異様に固い砂浜と無限に広がる東シナ海が広がっている。
Kにとって海といえば、大阪湾。あるいは和歌山市付近の海。それとも日本海の波静かな海水浴場、あとは電車からチラッと見た瀬戸内海くらいしかなかった。それがKにとって十数年生きてきた経験の中での海であった。
同じ夏において、薩摩半島の南端の開聞岳あたりから南の海を見わたし、屋久島や種子島・硫黄島を見つけ、果てしない太平洋を実感することもできた。この南に広がる海は、すぐに父母や祖父祖母や一族みんなが戦争を味わうことになった海であった。このはるか南方から戦争はやってきたのである。それらが見る者に伝わる海である。
一方、東シナ海はどうだったのか。それは、深い頼りなさ・底深さを感じさせるのである。地図上では簡単に中国大陸にたどりつくのだが、目にする海は、全くものすごく空漠たるもので、底の知れない崖が向こうに広がっているような感じだった。まるでキリスト教の世界観のように、海の向こうは崖になっていて、底に向かって水が流れ落ちている。それで世界の終わりになっている。そんな印象をKに与えたのである。
海の上には全く舟さえ見えず、何かが浮かぶのさえ拒否をして、はるか向こうから砂浜に足を付けている愚かな人間どもを品定めするように波で洗い、何か意志ある生き物のようにふるまっている感じであった。不気味ではあるけれど、魅力的でもあったのである。
実はちょうどKたちがここを訪れたのと同じ時期に、この浜から失踪した若者たちがいて、鹿児島のKの親戚たちも世間話のように語っていたのである。
「吹上浜では、時々行方不明の人がいるみたいだよぉ」とか……。
けれども、当時のすべての日本人はただの失踪話として受け止めており、若い2人がいなくなったが、どうしてだったのだろう。どこかへ駆け落ちでもしたのかなと勝手に決めつけてまとめていたのであろう。
とにかく、Kにとって吹上浜は魅力的な土地になってしまっていた。
少女もいないし、公営の宿泊施設のにぎわいをチラッと見て、ただ浜のすごさを朦朧(もうろう)と受け止め、Kはこんな詩「のようなもの」を書いたのだった。
Kの詩に対する情熱のターゲットはもう1つ、指宿市から十キロほどの開聞岳に向かう。独立峰でもあり、薩摩半島の少し高いところにくれば見られる山である。けれども一番近い町の指宿市の中心部からは全く見えない。低く名もない丘のような山々に邪魔されているのである。
だから、指宿を訪れた人々は、何の気なしにこの山に出くわし驚くことになる。急に視界が開けて真っ正面にこの山が現れ、ここを訪れる者を待っていたようにはじけ出てくるのだ。
それと反対なのが桜島で、錦江湾の真ん中にポッカリと存在していて、数十キロ離れた指宿からもその様子が眺められる。錦江湾沿いのすべての町は、遮るものがないから自然にこの桜島を意識して「ああ煙を吐いている」「ああ今日は穏やかだ」などと言い合う。
鹿児島のみんなに見られている桜島山と、苦労して薩摩半島の南端まで行かないと見ることができない開聞岳。どちらも鹿児島の人々には大切な山である。Kは開聞岳のやさしさが好きで、見える限りはじっと視線を移さずにこの山を見てしまうのであった。
開聞岳のうた [1975・9・15に作成]
開聞岳は そこにある
どこの誰にも 冒されず
海に向かって ただポツリ
広いすそ野に 草生わせ
その頂で 雲を切る
ずっと昔の この山は
煙を吐いて いたろうか
時空を越えて 歴史をば
じっと座って 見続けて
千メートルに あと少し
われらが山は 夕陽浴び
すっくと静かに そこに立つ
はるか南の 戦いや
近き人の世 知らぬげで
波の音のみ 聞いている
Kにとって高1の1学期はショックの連続! 自信はすべて吹っ飛び、すがるものが何もなくなり、何かを見つけたい気持ちがいっぱいであった。
英語は文法・会話・解釈どれをとっても実力のなさを感じさせられ、数学は教科書の最初の方からついていけなくなり、教科書ガイドを慌てて買い、練習問題の解き方を見るのだが、それでもわからなかった。三角関数が登場すると、数Ⅰは「ハイ、サヨウナラ」という感じだった。
化学はモルが現れ、どうしてマグマ大使の奥さんがこんなところに出てくるんだよ、と反発しても何にもならず、この教科も終わってしまう。他にもたくさん学校の勉強でついていけないものが見つかった。そして、ついていけないなら大慌てで勉強すればいいものを、なんだかんだ言い訳をしてなかなかやろうとしないのだった。
座学以外はどうだったのか? これがまた驚くくらい悲惨なもので、
「よくぞ高校生活を三年間耐えた」と褒めてやらねばならないほど、体育も、音楽も、恋も、通学もパッとしなかった。
それなのに、Kが元気良く学校に通っていたのはなぜか? たぶん、できないのは自分だけではなく、何人もできない人がいて、互いに励まし合い、少しでもできるようになろうとしていたり、そうしたできない気持ちを共有し合ったりするのが楽しかったのだろう。
愕然(がくぜん)とすることがあっても、当時の風潮だったのか、「また明日があるさ」と立ち上がることができた。
何度かテレビの番組改編時期になると放映された映画『風と共に去りぬ』的な気分をみんなが同じように持てていた時代だった。ものすごく楽観的に世の中を見ていたのである。世界の状況はそれほど楽観的なものではなく、冷戦は続いており、ベトナムもやっと終結できたのではあったが……。
★ 弟が仕事でカゴシマヘ行き、親戚のみなさんたちとあれこれ楽しんでいたみたいです。本当にうらやましい。先週の土日などはお祭りで、花火大会にも参加したということでした。きっと焼酎を飲んだり、あれこれみんなとうまくやっているんでしょう。彼はその辺の才能のある人です。みんなと仲良く楽しくやれる人です。彼がいると、その場が盛り上がるというのか、上手にその場を盛り上げてしまう人なのです。
私は、それが彼みたいに上手ではなくて、親戚のみなさんと一緒だったら、さらにトーンダウンしてしまいます。
ああ、うらやましくて今日は焼酎の水割りにしました。この間開けたばかりの「夢鏡」というお酒は、最初はイマイチかなと思ったんですけど、今日は最初の時のトンガリ感がなくなって、素直に飲めました。どっちにしろ素直に飲めるのかも知れない。開けたてはちょっとツンとしてたけど、しばらくしたらトローンとしたお酒になったのかも……。(2015.9.30)
★ 「夢鏡」という焼酎も、弟がネットで取り寄せてくれたものでした。彼はこんな細やかな気遣いができます。それに比べて私は、ホントにいい加減でダメですね。(2018.6.30)
その印象は、強烈で、何か形にしたいと彼は思った。たまたま、Kは下手くそな詩を中3の頃より書いていたので、表現手段として詩を書いてみることはできた。けれども、何が詩で、どこに詩心があるのか、あまり自分の中で深く考えることはなく、ただ、短いことばを分かち書きにして並べることしかできていなかった。次の詩も、誰に見せるわけではなく、とりあえず見た風景にことばをあてはめたものであった。
吹上松林 [1975・8・7 吹上浜を旅して]
その長く続く松林を通り抜けていった。
さいはての海。
もう緑の大地はなくなって、静かに終わりを告げる。
はてしなく遠い。
雲は、向こうの水平線の上に浮き、
波は、水平線のかなたから流れ落ちてくる。
雷鳴が海をさらってガガガガーッとやってくる。
松林をおもいっ切り振るわせ、光り、
そして、海と一つになって消えてしまった。
緊張を破って、
潮風が湿気をかすかに含んでそよいできた。
心がやすらいで、ほっとそちらへ微笑みかけたら、
突然また光り、消えた。
浜は硬く足跡を拒み、
いつかまた海が迎えにくるとき、
その時を待っているみたいだ。
向こうに、海に突き出た笠沙(かささ)からは、
憩(いこ)うべき島もない大海だ。
いつか陸は果てて、海に呑まれてしまう。
吹上はさびしく、
少女もいない。
ただうらがなしく風が寄せ来るだけ。
寄せ来る風は山を越し、また海に帰っていく。
少女もいないし、
冷たくただ海があるだけ。
でも松林は生きている。
風に吹かれても、
長く長く松林は続いている。
夕立の雲がやってくる。
もうすぐ雨が降りそうだ。
★ 笠沙とは、南北に広がる吹上浜の南に見える半島です。秋田のあちらこちらの海で男鹿半島が見えたり、静岡のあちらこちらで巨大な伊豆半島が見えたり、薩摩半島から錦江湾越しにどこまでも大隅半島が見えたりする、ああいう感じで笠沙の半島は見えるんです。
高1の夏の鹿児島の旅で、一番印象に残ったのは吹上浜であった。Kたちがたどりついたのは夕方でもう泳ぐことはできなかった。ただ、異様に固い砂浜と無限に広がる東シナ海が広がっている。
Kにとって海といえば、大阪湾。あるいは和歌山市付近の海。それとも日本海の波静かな海水浴場、あとは電車からチラッと見た瀬戸内海くらいしかなかった。それがKにとって十数年生きてきた経験の中での海であった。
同じ夏において、薩摩半島の南端の開聞岳あたりから南の海を見わたし、屋久島や種子島・硫黄島を見つけ、果てしない太平洋を実感することもできた。この南に広がる海は、すぐに父母や祖父祖母や一族みんなが戦争を味わうことになった海であった。このはるか南方から戦争はやってきたのである。それらが見る者に伝わる海である。
一方、東シナ海はどうだったのか。それは、深い頼りなさ・底深さを感じさせるのである。地図上では簡単に中国大陸にたどりつくのだが、目にする海は、全くものすごく空漠たるもので、底の知れない崖が向こうに広がっているような感じだった。まるでキリスト教の世界観のように、海の向こうは崖になっていて、底に向かって水が流れ落ちている。それで世界の終わりになっている。そんな印象をKに与えたのである。
海の上には全く舟さえ見えず、何かが浮かぶのさえ拒否をして、はるか向こうから砂浜に足を付けている愚かな人間どもを品定めするように波で洗い、何か意志ある生き物のようにふるまっている感じであった。不気味ではあるけれど、魅力的でもあったのである。
実はちょうどKたちがここを訪れたのと同じ時期に、この浜から失踪した若者たちがいて、鹿児島のKの親戚たちも世間話のように語っていたのである。
「吹上浜では、時々行方不明の人がいるみたいだよぉ」とか……。
けれども、当時のすべての日本人はただの失踪話として受け止めており、若い2人がいなくなったが、どうしてだったのだろう。どこかへ駆け落ちでもしたのかなと勝手に決めつけてまとめていたのであろう。
とにかく、Kにとって吹上浜は魅力的な土地になってしまっていた。
少女もいないし、公営の宿泊施設のにぎわいをチラッと見て、ただ浜のすごさを朦朧(もうろう)と受け止め、Kはこんな詩「のようなもの」を書いたのだった。
Kの詩に対する情熱のターゲットはもう1つ、指宿市から十キロほどの開聞岳に向かう。独立峰でもあり、薩摩半島の少し高いところにくれば見られる山である。けれども一番近い町の指宿市の中心部からは全く見えない。低く名もない丘のような山々に邪魔されているのである。
だから、指宿を訪れた人々は、何の気なしにこの山に出くわし驚くことになる。急に視界が開けて真っ正面にこの山が現れ、ここを訪れる者を待っていたようにはじけ出てくるのだ。
それと反対なのが桜島で、錦江湾の真ん中にポッカリと存在していて、数十キロ離れた指宿からもその様子が眺められる。錦江湾沿いのすべての町は、遮るものがないから自然にこの桜島を意識して「ああ煙を吐いている」「ああ今日は穏やかだ」などと言い合う。
鹿児島のみんなに見られている桜島山と、苦労して薩摩半島の南端まで行かないと見ることができない開聞岳。どちらも鹿児島の人々には大切な山である。Kは開聞岳のやさしさが好きで、見える限りはじっと視線を移さずにこの山を見てしまうのであった。
開聞岳のうた [1975・9・15に作成]
開聞岳は そこにある
どこの誰にも 冒されず
海に向かって ただポツリ
広いすそ野に 草生わせ
その頂で 雲を切る
ずっと昔の この山は
煙を吐いて いたろうか
時空を越えて 歴史をば
じっと座って 見続けて
千メートルに あと少し
われらが山は 夕陽浴び
すっくと静かに そこに立つ
はるか南の 戦いや
近き人の世 知らぬげで
波の音のみ 聞いている
Kにとって高1の1学期はショックの連続! 自信はすべて吹っ飛び、すがるものが何もなくなり、何かを見つけたい気持ちがいっぱいであった。
英語は文法・会話・解釈どれをとっても実力のなさを感じさせられ、数学は教科書の最初の方からついていけなくなり、教科書ガイドを慌てて買い、練習問題の解き方を見るのだが、それでもわからなかった。三角関数が登場すると、数Ⅰは「ハイ、サヨウナラ」という感じだった。
化学はモルが現れ、どうしてマグマ大使の奥さんがこんなところに出てくるんだよ、と反発しても何にもならず、この教科も終わってしまう。他にもたくさん学校の勉強でついていけないものが見つかった。そして、ついていけないなら大慌てで勉強すればいいものを、なんだかんだ言い訳をしてなかなかやろうとしないのだった。
座学以外はどうだったのか? これがまた驚くくらい悲惨なもので、
「よくぞ高校生活を三年間耐えた」と褒めてやらねばならないほど、体育も、音楽も、恋も、通学もパッとしなかった。
それなのに、Kが元気良く学校に通っていたのはなぜか? たぶん、できないのは自分だけではなく、何人もできない人がいて、互いに励まし合い、少しでもできるようになろうとしていたり、そうしたできない気持ちを共有し合ったりするのが楽しかったのだろう。
愕然(がくぜん)とすることがあっても、当時の風潮だったのか、「また明日があるさ」と立ち上がることができた。
何度かテレビの番組改編時期になると放映された映画『風と共に去りぬ』的な気分をみんなが同じように持てていた時代だった。ものすごく楽観的に世の中を見ていたのである。世界の状況はそれほど楽観的なものではなく、冷戦は続いており、ベトナムもやっと終結できたのではあったが……。
★ 弟が仕事でカゴシマヘ行き、親戚のみなさんたちとあれこれ楽しんでいたみたいです。本当にうらやましい。先週の土日などはお祭りで、花火大会にも参加したということでした。きっと焼酎を飲んだり、あれこれみんなとうまくやっているんでしょう。彼はその辺の才能のある人です。みんなと仲良く楽しくやれる人です。彼がいると、その場が盛り上がるというのか、上手にその場を盛り上げてしまう人なのです。
私は、それが彼みたいに上手ではなくて、親戚のみなさんと一緒だったら、さらにトーンダウンしてしまいます。
ああ、うらやましくて今日は焼酎の水割りにしました。この間開けたばかりの「夢鏡」というお酒は、最初はイマイチかなと思ったんですけど、今日は最初の時のトンガリ感がなくなって、素直に飲めました。どっちにしろ素直に飲めるのかも知れない。開けたてはちょっとツンとしてたけど、しばらくしたらトローンとしたお酒になったのかも……。(2015.9.30)
★ 「夢鏡」という焼酎も、弟がネットで取り寄せてくれたものでした。彼はこんな細やかな気遣いができます。それに比べて私は、ホントにいい加減でダメですね。(2018.6.30)