大洲の町を訪ねて、一番びっくりしたのは、中江藤樹さんに出会ったことでした。
藤樹先生は、1608~1648の方で、江戸時代前期の儒学者ということになっています。先生の本を読んだことがあるのかというと、残念ながら読んだことがありません。でも、そういった先生がおられたというのは知っていました。
何しろ私は、大阪に住んでた時から、中学生のころからずっと、滋賀県びいきで(まるで芭蕉さんみたい)、そのころに湖の西側を走る湖西線というのができてから、もう大ファンでした。
当然、竹生島にあこがれ(まるで平家物語です)、白髭神社が見たくて(中三の夏にお参りに行きました)、何度も湖西線に乗って湖に行きました。いや、何度も行けないから、ここを通れるだけでワクワクしたというのが正しいのかな。
今は、湖の東南には行くけれど、北西はなかなか行くチャンスに恵まれません。
というわけで、湖の北西・高島藩(現在は高島市? 高島町?)に生まれた中江藤樹先生のことは知っていたんです。地図マニアでもあった私は、ここの25000分の1地図は持っていたと思います。実家にはまだあるかもしれない。
あなたのこだわりはもういいよ、という感じかな。
中江藤樹先生は、近江の国・高島郡に生まれた方でした。お祖父さんも儒学者で、お仕えするお殿様と一緒に、米子、伊予の国の大洲と住むところを変えたそうです。
お殿様は、加藤貞泰という方で、近江の国の人でした。織田・豊臣軍団に所属し、関ケ原の戦いでは徳川方につき、その甲斐あって、米子・伊勢・摂津・伊予大洲へと転進していった方だそうです。加藤家はその後、明治の廃藩置県まで13代ここでつづくわけですから、安定して国を維持してきたお殿様だったんでしょう。
熊本の加藤清正さんとは別の加藤家ということなんですね。そんなお殿様がいたなんて知らなかったし、そのお殿様と一緒に藤樹先生も江戸時代のの初めを生きておられた。
そのお城が、大洲城だった。
明治の半ばまで維持されてきたお城は、政府の指示で1888(明治21)年に取り壊されてしまいます。でも、つい百年位前までお城があったという町の記憶は、やがてお城を復活させたいという気持ちに変わり、2004(平成16)天守閣の復元完了へとつながったようです。
みんなに愛されたお城でもあったようです。たぶん今は大洲市がここを管理しているのだと思われます。
その天守閣の下に、中江藤樹先生の像が置かれている。
確かにここに住んだのだと思われますし、ここが先生の青春時代を過ごした場所でもあったんでしょう。それを記念しての像なんでしょう。
でも、1634年、ということは28歳のとき、脱藩してふるさと・近江高島に帰り、ここで10年余りを過ごすことになる人生を送られた。
それくらい、ふるさとは大事であったし、親孝行のため、仕事先から出ていく決意をされた。
お城の下には肱川が流れ、お城の南には城下町が広がっていた。今では学校やら、旧市街が広がっている。少し寒かったけれど、それなりに穏やかな気候ではなかったんだろうか。そんなに高島郡と違うものではなかったと思いますが、お母さんや親族はふるさとにいたそうで、それが最大の脱藩の理由だったんでしょうね。
ここにも一つの人生がありました。
ほんのチラッと見せてもらっただけど、参考にはなりました。先生がどんなふうに思っておられたのか、それは先生の著作を読むしかありません。チャンスがあれば、読まなくては! 中央公論で読めるかな。図書館に行かなくちゃダメかな。ネットでも探してみます。