甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

臥しん嘗胆 日本とロシア 中歴50

2016年12月18日 07時50分09秒 | 中国の歴史とことば
 父の会社の先輩で、フクさんという方がいました。郷里も同じカゴシマで、父はあれこれと相談とか、頼りになる先輩だったのだと思われます。家族ぐるみのつきあいで、母もフクさんの奥さんと普通に話ができるし、仲良しの雰囲気でした。

 お正月の2日は、父がフクさんちにお年始に行く日と決まっていました。母もついて行ったり、お供は私だけになったり、いろいろでしたが、ある時、フクさんちで立派なものを見つけます。

 それは、学研の「少年少女第百科事典」全二十巻でした。どれも興味深く、少し歴史とか地図とかに興味が出てきた私は、むさぼるように見せてもらいました。そういう姿を見たせいか、父はそれからしばらくして(たぶん無理をして)全二十巻を買ってくれました。

 子どもだった私は、単純に喜び、歴史とか世界とか、日本とか、そういう巻ばかり読んで、理科的な巻はまるで手に取らなかったようです。かくして社会は得意な男の子ができて、えらそうな顔をしていたようです。

 例によって長い前置きです。

 中学になり、あれこれ調べて発表という場面があって、たまたま日露戦争の発表を担当することになりました。そうなると、大百科が活躍する時です。それで調べていたら、日露戦争においてあるスローガンがあったというのでした。



 それらしいのをネットから借りてきました。

 日露戦争の当時は、「臥しん嘗胆」をスローガンにしてロシアと戦いました。しかし戦争には勝ったものの、賠償金を得ることができず、忍耐を強いられてきた国民には不満がつのりました。そして政府に抗議する民衆の一部が暴徒化し、日比谷焼き討ち事件なども起こりました。

 このように国民の生活を後回しにしていた政府に対して、民衆は不満の声を上げはじめました。そこに吹いたのがデモクラシーの風でした。 出典 NHK高校講座 日本史 近代国家の形成と国民文化の発展 大正デモクラシー


 ということだったそうです。「捲土重来」と同じでリベンジを誓うことはよくあります。ただやり方がすごいのです。やはり、この2人ならではのやり方だなと思ってしまいます。

 でも、2人が特別というのではなくて、人間とはそういう生き物であり、わざと自分に苦痛を与え、いつか苦痛を快楽につなげようとする。もっとフツーに、机の前に貼るとか、毎日繰り返して口に出すとかしたらいいのに、体を痛めつけないとできないなんて、何だか少しイヤになってしまう。



 さて、ことばですね。

57【臥しん嘗胆】……かたきを討つために、自分の身を苦しめて志を励ますこと。
→呉王・夫差(ふさ)が朝夕……の上に寝て苦しみ、越王・勾践(こうせん)が苦いきもをなめて苦しさを忘れなかったという故事から。《十八史略》

* 「しん」を漢字にすると? 芯 寝 親 針 薪 辛 唇 森 どれでしよう?


 プーチンさんが日本に来ました。アベさんの都合による、いつもの地方への罪滅ぼしパフォーマンスで、プーチンさんは山口県に行かされてしまった。ロシアの報道関係者は、「どうして伊勢志摩じゃないのか?」と質問したそうです。

 三重県民としては、二度とそんなことはゴメンだと思いますが、向こうの人たちは、プーチンさんの扱いがG7と同じでないのが気になるらしい。いっそのこと東京に来てもらったらよかったのに、アベさんは地元のためになると判断して山口にお招きした。

 それがマイナスになるなんて、皮肉な結果です。まわりがどれだけ丁寧な仕事をしても、トップの独善でお互いの交渉はズタズタになってしまうなんてね。

 結局、すぐに東京に行ったそうですから、どれだけ地元のためになったのか、その辺は不安です。地方は常に政府関係者に振り回される。何もしてくれなくて、たまにはお金をくれるかもしれないけど、ちっともいいことなんかありません。すぐにそれ相応の負担が強制されますからね、目をつけられたら大変です。

 プーチンさんもアホらしかったでしょう。そんなことだから、3時間も遅刻したくなるんです。というか、遅刻はプーチンさんの得意技らしいから、それは仕方のないことなんでしょう。



 2500年前の中国の南、長江の河口の南側の国、呉王の夫差(ふさ)さんは、お父さんが越との戦いの際に毒矢の傷を負い、そのまま亡くなったことを忘れないために、ベッドに寝ないで、デコボコの寝床に寝たそうです。私なんかはすぐに首を痛めそうだし、ろくな夢を見られないかもしれない。

 夫差さんは若かったから、とりあえず眠れたけれども、毎晩イヤな気持ちを抱えていたことでしょう。恨みを晴らすまではちゃんとしたところに寝ないのだと誓った。

 それからしばらくして、呉は越をコテンパンに打ちのめしたのです。とはいえ、とことんまで殺すということはしなくて、越の勾践(こうせん)さんのこびへつらい、みじめったらしい姿を見て、こんなヤツら殺すまでもあるまいと、会稽山(かいけいざん)というところに閉じ込めて満足します。

 悠々と凱旋した。すると、越の勾践さんは、生のレバー(胆)を嘗(な)めて、食事のたびに苦い思いをして、それを忘れまいとした。こういう体で痛い思いをすること、人間はどうしてこんなことをするのかわからないけれど、今もそういうことがありそうです。いくつか思いつきますが、あえて書きません。

 やがて、越は、呉王・夫差が不在の時に、呉に侵入して夫差を殺害してしまいます。みごと恨みを晴らすのでした。ああ、人というのは、きりがないですね。



答え 57・薪(まき)の上に寝ました。臥薪嘗胆(がしんしょうたん)です。






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