スヌーピーが好きな友だちがいます。私もそれなりに好きだし、谷川俊太郎さんが訳してくれてた本など、おもしろいなあとは思ってました。でも、心から大事にしてたかというと、ついつい私は忘れてしまうところがありました。
第一、作者のチャールズ・M・シュルツ(1922~2000)さんが亡くなった時も、どれくらいちゃんと受け止めたか。毎日の生活にまぎれて、サラッと忘れていました。何ということでしょう。私って、いつもウカツなことばかりでしたね。
ジャーナリストの廣淵升彦さん(「スヌーピーたちのアメリカ」という本も書かれています)がこんなことを教えてくれていました。引用してみます。
シュルツはひとりっ子だった。家は決して裕福ではなかったが、生真面目に働く父と優しい母がいた。父のカールはミネソタ州セントポールの床屋さんだった。彼はいっさい危険なことはせず、たまの休みには店の掃除をするくらいの生真面目な人だった。
1930年代の大恐慌の時代、失業者が町にあふれている時代だったが、カールは家族に心配をかけまいと、朝から晩まで客の頭を刈り続けた。1人分35セントの料金を受け取り、この厳しい時代を生き延びてツードアのセダンを買った。その車で親子三人は時々ドライブに行くことができた。
シュルツさんは、大恐慌の時代に少年時代を過ごして来られた方だったんですね。うちの父よりも年上だけど、うちの伯父さんとは同い年くらいでしたか。シュルツさんって、父たちの世代といっていいんでしょうか。改めて、その言葉を聞かせてもらいたくなりました。
親子三人のドライブ、これは誰もが憧れるしあわせの一つでした。親もそんなことがしてみたいし、子どももちゃんとは憶えていないけど、断片がとぎれとぎれに残っていく、そういう貴重な時間でした。
今、古い岩波新書の「昭和史」というのを読んでいますが、それと同じ時代のところでした。シュルツさんちは、お父さんとお母さんの頑張りで、一人っ子のチャーリーくんを育てておられたんですね。日本は、恐慌の時代を大陸進出という簡単な方法で切り抜けようとしていた。
欧米がそんな風に植民地があるなら、わが国にも植民地があってもいいではないか、という理屈でした。もう、イヤになるほど聞かされ、今も私たちはウンザリさせられながら、そうした政治家の理屈とやらに付き合わされている。
当事者は、たまらないです。
幼いシュルツはいっさいの悩みごとを忘れて、安心しきって後ろの座席で眠ることができた。家庭は温かくて、母はおやつにパンケーキを焼いてくれた。
パンケーキを食べられるというのは、1930年代のアメリカではかなりの豊かさの証明だったらしい。シュルツは自分の家が裕福なのだと思っていた。だが、のちに彼は我が家が決して裕福ではなく、母が苦しい家計をやりくりして、自分のためにパンケーキを焼いてくれたのだと知るようになる。
パンケーキがでてきましたね。それが幸せだったなんて、私は完全に忘れてました。家にホットケーキミックスの袋はありますけど、最近は食べたことがないです。いっそのこと、自分が家族みんなのためにホットケーキを焼くというのをやってみたらいいわけですが、それさえやれていません。うちにはパンケーキの幸せというのがないの? あるはずですよね。
ダメだなあ。とにかく、私がグータラだから、いけないな。グータラ禁止!
しかし、グータラでナマケモノとワガママというのが、私の真骨頂でした。ほどほどに、まわりのことを考えながら、自分の持ち味を出す、ということですか(ああ、自己弁護と言い訳……)。
それでも、家庭の平穏は損なわれることなく続いていった。しかし、彼が高校生活を終える頃、母は癌に侵されて寝たきりになった。昨日まで確かなものとしてそこにあったものが、急に失われたのだ。確かなものとは、家庭の平穏であった。少年の衝撃は大きかった。
シュルツさんのお母さんは、ずっと無理をされてお子さんを育ててこられた。みんな貧しいとはいうものの、みんなとは少し違う、自分たちなりの家庭を築き上げてきた。それが、どこかへ連れ去られそうになりました。
チャーリーくんは、これに向き合わねばならなくなったんですね。そういうのを乗り越えてきて、スヌーピーたちの世界が作られたんですね。フンワカした世界ではあるけど、強い魂みたいなのがあったわけかぁ。
幸せは、クルマの後部座席にあったんだ。うちの子は感じてくれてたのかな? たぶん、大丈夫と思うけど、後ろで寝てましたね、たいてい。