* 分限と誠意
貧しき者は(a )をもて礼とし、老いたる者は(b )をもて礼とす。おのが分を知りて、及ばざる時はすみやかにやむを知といふべし。
貧しい者は(a財貨)をもって人に尽くすのを礼儀とし、年をとった者は(b労力)をもって人に尽くすのを礼儀としている。自分の身の程を知って、とても及ばないと思った時は、さっそくやめるのが賢明といえよう。
*aは財(たから)、bは力(ちから)でした。
えっ、それどういうこと? と、わからなくなります。お金のない人が、お金を有り難がるのはよくあることです。お金がなくても、平気で「カネなんかいらないよ」と言える人は、立派な暮らしをしている人です。やはり、お金がなかったら、それを何とかしたいと思う。
年を取った者にとって力というのは憧れであり、懐かしいものです。ビックリするくらいに自分から力というものがなくなっていきます。だから、年寄りにとって力は、それを持っているものは、それだけで素晴らしく見えてしまう。
そして、ダメだと判断したら、サッと切り上げる人は賢い人である、それもその通り。ダメだなあと思いつつイヤイヤやってるのがわたしたちの日常だったりします。
許さざらん人は、人の誤りなり。分を知らず、強ひて励むは、おのれが誤りなり。貧しくて分を知らざれば盗み、力おとろへて分を知らざれば病を受く。〈131段〉
それを許さない人は、その人の誤りである。自分の身の程を知らないで、無理をして強行する人は、その人の誤りである。貧乏で身の程をわきまえなければ盗みをするようになり、力が衰えて身の程をわきまえなければ病気になる。
それを許さない人は、その人の誤りである。自分の身の程を知らないで、無理をして強行する人は、その人の誤りである。貧乏で身の程をわきまえなければ盗みをするようになり、力が衰えて身の程をわきまえなければ病気になる。
ズバリ、ちゃんと判断ができない人は、泥棒や病気になると言い切りました。ちゃんと引き下がることができないととんでもないことになる、という分かってるけど、なかなか実践できないお話でした。
いっそのこと、お金も要らない、力も要らないと言ってしまったらどうだろう。それは囚われないイイコトのように思えるけど、お金もものごとを実行する力も拒否してしまったら、生活破綻者になってしまいます。
いやでも、お金と力には関わらないといけない。それが生きている、ということでした。だから、ほどほどであり、許し許され、出たり入ったり、そういうことができる人になりたい、ということでしょうか。
今度は、233段です。
よろづのとがあらじと思はば、何事にも(c )ありて、人を分かずうやうやしく、言葉少なからんにはしかじ。
すべてのことに非難されないようにしようと思うのならば、どんなことにも(cまこと)誠心誠意で接して、だれかれの区別などせずに丁重にあつかい、口数を少なくするにこしたことはなかろう。
誠実に人と向き合う、簡単なことのようで、実は簡単ではありません。そういう風にしたいと思っていたも、諸般の事情により(自分の都合で?)なおざり・いい加減・適当になってしまうことは本当にたくさんあります。
それに、すべてに誠実にやろうとすること、今の若い人はそういう人が多いけれど、そうやっていると、すぐに疲れてしまうし、エネルギーを失ったり、自分は何がやりたいのかわからなくなったり、燃え尽きてしまったりする。
いや、そもそも人から非難されたくないという前提がいけないのかもしれない。人はいつも他人のことを言い、自分の悪いところは話さないものです。人が何か自分とは違うことをしている、それだけでもう我慢できなくなって不平を言うことだってあるのだから、人から非難されないように生きる、というのは無理がある。
人から非難されても、そんなことは何ともないと思いたい。でも、なるべく波風を立たせず、静かに目立たずに生きていくということはあり得ます。そういう生き方もありですね。
ある程度だれかに何か言われるのは仕方がないとしても、自分自身の生き方として、目立たず、穏やかに生きていたいという願望はありますね。もちろん、目立って、みんなとワイワイやって生きていくというのもありです。適当にミックスした生き方というのでいいかな。
よろづのとがは、なれたるさまに上手めき、所得たるけしきして、人をないがしろにするにあり。〈233段〉
すべての失敗というのは、慣れたふうにして名人ぶり、得意顔をして、人を軽蔑することから起こるのである。
私たちはどれくらい「人をないがしろにす」れば気が済むのか、実は際限がないのかもしれません。人は、人がなかなか信用できないし、いつも自分の陰口を言ってる気がするし、たえずウソの情報を流して、適当な思い込みを植え付けておかないと、人はとんでもない方向へいく、独裁者は考えるでしょうね。
慣れた感じ、立派な英雄としてのしぐさ、適材適所で、的確な判断と行動、そういう見せかけ。独裁者たちはどれくらいそういう作り物情報に心を砕かなくてはいけないのか、考えてみるとゾッとします。
彼らにマコトはありません。彼らこそフェイクであり、まぼろしです。それなのに、とんでもない負の歴史を刻んでいる。私たちはどれくらいこうした負の歴史を抱えていくのか、いつかそういう負の歴史が止まる時が来るのか、現在の私は、わからなくなっています。
いつまでも人の負の歴史は不滅なのかもしれない。人が「国家」なんていう空疎なものを大事にしていると、とんでもないことが起きたりするようです。
老いたる者が失うものとは何か? 心? 夢? 歯? 髪? 家?
答えは「力」って、おもしろいです。私はてっきり筋肉だと思ってました。髪はもちろんですけど……。