この写真は、関ヶ原ではないですけど、もう少し開けたところもあったと思うのですが、私は駅からほんの少しのところしか歩いていないので、全体像はまるっきりわかりません。会戦場所、陣地あとなど、いろんな標識はあるのに、全体像はまるっきりです。
家康さんが天下を取るための大事な場所でしたけれど、よくぞこんなところがあったものだと今さらながら思いますが、まるでナポレオンの進軍みたいで、ロシア軍と戦ったボロジノの戦いとか、どんな場所なのかわからないけれど、それくらいドラマチックな場所なんだろう、というイメージは持っていました。
家康さんは、秀吉さんみたいに真正面からぶつかって戦うよりも、局地戦だったり、ゲリラ戦だったり、戦略・懐柔戦だったり、すべての要素を使って戦うのが得意だったのでしょう。最初優勢だっ西軍が崩れるのも、すでにいろんな手を打ってあって、個々の武将たちも現場でいかに相手をびっくりさせるか、そういう策略をしっかりしていたはずです。
対する石田三成さんは、陣地的にはバッチリだし、布陣も徳川軍を見下ろす位置で戦えて、軍勢も西側の精鋭だし、勝てそうな感触を持っていたでしょう。けれども、その鉄壁の布陣も戦う前からあれこれと崩されていたんだから、三成さんもそこが誤算でした。何度も振り返られる場面ですけど、三成さんは戦う前から裏切られる要素を抱えて戦っていたんでしょうね。
結果的に、徳川の260年というのは、日本という土地に大きな遺産を残しました。それが明治からの百数十年ですり減って、沈没国家へと進んでいますが、ここからどのようにして逆転してくのか、私にはそのプランがありません。
基本的なことを、着実にやっていく。なるべく自分たちの土地でできるものは自分たちで作って行く。特に食料に関しては、自分たちの食べられるものを確保しながら進んでいく。
そんなプランしかないですね。ころころと政治家の思惑で、イベントや政治改革風の制作など、いろんなつまらない小細工があると、さらに沈没していくし、経済政策も何だか失敗しているという感覚もあります。
まあ、私なんかがつべこべ言わない。
三成さんは、倒れてしまった。もし三成さんが勝てたとしても、豊臣の家の政治では、さらに戦国時代は続いたでしょう。どっちにしろ、豊臣でない、国内を安定させられる大物政治家が出てこないと、ダメでしたね。三成さんにそれができたのか、私にはわかりません。
この前の「ブラタモリ」で関ヶ原が取り上げられていて、なだらかな斜面のあちらこちらを見せてもらいました。私が行きたくなったのは、古代の不破の関が河岸段丘をどんどん降りていって、境目に川が流れているところ、そこに関所が設定され、古代からずっと東と西の境目になったという、河岸段丘を降りて中山道が続くところの境目が見たくて、今回関ヶ原歩きに挑戦してみたというところでした。