近ごろよく聞くようになったドビュッシー。昔は全くつまらない音楽だなと心の底から思っていました。何も感じませんでした。
でも、近ごろ、どういうわけかオッチャンの心の琴線はビンビン揺さぶられます。どうしてなんだろう。わかりません。メロディにやっと入り込めるようになったからなのか。ただの老人ボケのカン違いなのか。なぜなのか、わかりません。
そんなにわからないのであれば、人にオススメすることもできません。どうしていいのかわからないのですから。でも、これからもずっと私は聞き続けるでしょう。
というわけで、ドビュッシーが刺激を受けたヴェルレーヌを取り上げます。
昨日、フトンの中でだいたいの作品に目を通しましたよ。あのランボーさんを銃撃して手首に傷を負わせて収監されたり、奥さんからは離婚されたり、男の友だちと恋愛関係になったり、ウィキペデイアを見ただけで、すごい人なのだと驚かされました。
でも、今を生きる私たちには、その人の生きたあれこれはもうどうでもいい気がする。確かに破天荒で、型破りで、ハチャメチャで、退廃的ではあるけれど、だからそれをマネするのかというと、全くマネできないし、彼は生きて作品を残した。百何十年の後の私たちは、とりあえず作品を読み、その世界を思いやるしかできないのです。その人の人生は置いておくしかありません。
いつかフランスに行ったら、ヴェルレーヌという詩人さんの人生を振り返ればいいや!
月の光
君の心は 奇(めず)らかの貴(あて)なる風景(けしき)、
仮面仮装の人の群(むれ) 窈ちょうとして行き通ひ、
竪琴(たてごと)をゆし按じつつ 踊りつつ さはさりながら
奇怪(きっかい)の衣装の下に 仄々(ほのぼの)と心悲しく
何をうたっているのでしょう。北イタリアの仮面舞踏会にいる女の人のことなのか。異国情緒はあるような気がします。仮面や仮装ですから、少し怪しい夜の世界です。
誇りかの恋 意のままのありのすさびを
盤渉(ばんしき)の調(しらべ)にのせて 口遊(くちずさ)み 口遊めども、
人世(ひとのよ)の快楽(けらく)に涵(ひた)る風情(ふぜい)なく
歌の声 月の光に 入り乱れ、
夜のおまつりに人々は繰り出しています。みんなで何かをくちずさんでいる。
でも、どこか心は覚めていて、おまつりのあとにどんなことが起こるのかを期待し、冷静に人々の動きを見つめている。
何だか怖いくらいの、人々がお互いを値踏みしている、ギラギラした情念が隠されている感じです。あまり楽しくない遊びです。もっとアジアのどこかの国みたいにすべてを投げ出して好きな人を見つければいいのに、何だか隠微なおまつりです。
私なら、すぐイヤになって逃げ出してしまいそうです。そこを辛抱してパートナーを見つけることが欧州スタイルなのかもしれないな。みんなそれぞれが独立の個性なわけです。
悲しく美(は)しき月魂(つきしろ)の光 和(なご)みて、
樹々に 小鳥の夢まどか、
噴上(ふきあ)げの水 恍惚(こうこつ)と咽(むせ)び泣き、
大理石(なめいし)の像の央(まなか)に 水の煙の姿たをやか。
踊りはどうなったんだろう。終わってしまったのか。人々はどこに消えたのです。ただ静かな夜の庭園なんて! 何だかずるい形でまとめてしまいましたね。
静かだけれど、あるものは楽しみ、あるものは悲しみ、あるものはぼんやりと疲れているのかもしれない。
だれもいないのはまつりの後、ということを示しているんだか。
何だかよくわからない詩ですね。これがドビュッシーを刺激して、ベルガマスク組曲というのが生まれています。それを冨田勲さんもシンセサイザーで再構成したり、いろんな人たちに影響を与え続けている。
ヴェルレーヌの詩は、もうフランス語が読めない私には、鈴木信太郎さんが訳した岩波文庫を広げてみても、何だかポッカリしています。
四十年も前に鹿児島で買った岩波文庫でした。どうして鹿児島でヴェルレーヌだったのか、それも意味不明だけれど、とにかく知ろうと思って買ったんでしょう。けれども、取りつく島もなくて、ずっと眠り続けていた本で、たまたまドビュッシーの関係で取り出されてきました。これはどういうことなのかな。
わからんことばかり。だったら五七五を作ってみます!
1 一日の終わりに小さな春の月
2 春の月シングルママは赤ワーゲン
3 仮面にて違う人格おぼろ月
4 春の月悪魔になれないわたしたち
いつもの意味不明の五七五でした。