リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

旅の空から~宮古(想像もしなかった絶景に感動)

2024年09月30日 | 日々の風の吹くまま
9月29日(日曜日)。☁🌥☁。長い航海の最後の寄港地である岩手県宮古に到着。しずしずと宮古湾を進むにつれて、船腹に何やらアニメっぽい絵が描かれた水先案内ボートが表れて、埠頭へ。歓迎の「菅窪鹿踊り」が披露される中午前8時に接岸。鹿踊りは何となく北海道のアイヌ伝統舞踊やBC州の先住民の伝統舞踊とメロディやリズムがどこか深いところでつながっているという感じがした。





今日のツアー(Miyako Geo Park)はまず魚菜市場。衣料品や日用品、花屋もあって、地元の人たちの日常生活を支えているショッピングモールのイメージで、日曜日とあってかなりの賑わい。次は「三の岩」というところで、太鼓岩、男岩、女岩の3つの奇岩がおもしろい。一番大きな太鼓岩はヘアカットに失敗してむくれているような、ちょっぴりユーモアさえ感じられる風情(想像力過多なもので・・・)。断崖の下の岩場で波が砕ける風景はアイルランドのディングル半島や北海道の能取岬で見たのをよく似ている感じ。地球はひとつだもんね。リアス海岸はフィヨルドと似ていなくもないけど、前者は河川の谷が水没してできたもので、フィヨルドは氷河が刻んだ谷が水没したもの。川と氷河のスケールの違いかな。






ツアーの最後は浄土ヶ浜。途中の田老というところで東北大震災の大津波で下半分が破壊されたホテルの前を通って、津波の激しさを実感。自身大国久代の生まれ育ちで地震には慣れているし、チリ地震津波の何波めかが釧路港の中央に怒りを下ろしていた貨物船をくるくる回すのを高台の小学校の教室から見ていた経験があるんだけど、こうして破壊力の激しさを増しかに見るとやっぱりぞっとするな。バスがつづら折りの道路を通って浄土ヶ浜の上に出たときはバスのツアー仲間が一斉に感嘆の声。いや、ギザギザの奇岩が連なっている感じで、すごい迫力。砂じゃなくて小石のビーチやその近辺にはかなり大きなカモメの大集団がいて、遊び半分なのかどうか知らないけど、ときどき観光客の頭の上すれずれに低空飛行。こんなところ初めて。いやぁ、絶景かな、絶景かな。









ツアーが終わってバスが埠頭に戻ったら、うはっ、何これ?旗がたくさん翻っていて、売店のテントがずらり延々と続き、トラック屋台も数台。船客と市民と観光客が入り混じって、ちょっとしたお祭りというところだけど、宮古市ではクルーズ船が入港するたびに「ポートフェスタ」と称して催されるイベントらしい。今日はたまたま日本のクルーズ船「にっぽん丸」も入港していて、「クルーズ船が2隻同時に寄港!」といつも以上に気合が入ったらしい。ここでワタシは目が合ってひと目惚れした焼き物のお地蔵さんをゲット。トラック屋台ではたこ焼きを買って、船室に戻ってたこ焼きとビールのランチ。午後、にっぽん丸がひと足先に出港して行って、ベランダやデッキでは鈴なりの人たちが手を振っていて、私たちも手を振ってBon Voyage!いやぁ、宮古は期待した何倍もの価値があって、釧路は別格として、今回のクルーズでは一番印象に残る寄港地になった。










旅の空から~函館(ユニークな歴史がおもしろい)

2024年09月30日 | 日々の風の吹くまま
9月28日(土曜日)。🌤☀⛅。相変わらず早起き。津軽海峡を航行中。ベランダから見えるのは下北半島かな。本州と北海道を隔てる津軽海峡は「しょっぱい川」と呼ばれていて、明治の初期に未開の蝦夷地に渡った開拓者たちにとっては「帰らざる川」でもあった。ワタシの母方の高祖父は明治3年の(淡路侍が徳島藩からの分離独立を図ったために起きた)庚午事変の翌年に北海道移住(体のいい追放刑)を命じられた淡路侍たちの船に乗って静内から北海道に入ったそうなので「しょっぱい川」を渡って来たとは言えないけど、ワタシは反主流の精神性をしっかり受け継いだ誇り高き道産子5世。津軽海峡は今でも海のハイウェイのようで、船影がたくさん。


下北半島かな





海のハイウェイ

函館入港、接岸は午前9時。いい天気で、何だか暑くなりそうな感じ。岸壁に白いテントが並び、白いテントを張った通路がターミナルまで続き、その間に煙突にJNRのロコがある古ぼけた船。かって津軽海峡を往復していた青函連絡船「摩周丸」で、今は記念館になっているらしい。思えば新婚旅行と里帰りを兼ねて札幌の実家に行くのに連絡船に乗ったことがあったな。ほぼ半世紀前の青函トンネルが開通するよりひと昔前の話で、乗ったとたんに男性客たちがビールの自販機に殺到してあっという間に売り切れたことと、デッキからイルカの群れが見えたことくらいしか覚えていないけど、あとで調べて私たちの船が実際に連絡船のターミナルだったところに接岸しているとわかって、これも何かの縁かなあと感動。乗った船の名前は憶えていないけど、もしかしたらこの摩周丸だったかもしれないしね。


青函連絡船摩周丸


今日のツアーは午前10時出発の3時間半で、まずターミナルからすぐ近くの朝市。どこを見てもイカ、イカ、イカ、カニ、カニ、カニ、そしてホタテにサンマに昆布。釧路はカニなら函館はイカ。店のおじさんの浜言葉がトーンが懐かしい。つい誘惑に負けてホタテの一夜干しを買って、次はロープウェイで函館山へ。眼下に絵葉書でお馴染みの砂時計の胴のような函館市を一望。あっ、私たちの船も見える!ギフトショップでマグネットを2個ゲット。日本の観光地ではおみやげのマグネットはまだ普及していないのか、なかなかいいのがなくて、あっても「カワイイ」丸出しのデザインで買う気になれないのが難点。




タコ坊主!

ツアーの最後は五稜郭。タワーに上って見下ろすと星の形がよくわかる。展望台には箱館戦争の顛末を模型で説明する展示があって、旧幕府軍の榎本武揚が幕政の再興を目指して樹立した「蝦夷共和国」と新政府軍の戦闘の状況がわかるようになっている。わずか5ヵ月足らずで壊滅した「蝦夷共和国」はイギリスやフランスから「事実上の政権」として認められていたんだけど、おもしろいことにウィキペディアの箱館戦争の記述にはひと言もその名前は出て来ない。もっとも榎本政権もそう名乗ったことはなくて、五稜郭に腰を据えた旧幕府軍が内輪で指導者や行政組織の長を「投票」で決めたから、函館駐在の外交団がそう呼んだというだけの話で、一般の住民は蚊帳の外だったから、「共和国」とは似て非なるもの。それでも、ほんの束の間でも北海道が「独立国」を目指したというのは近代日本史のユニークな1ページだと思う。まあ、新政府軍の攻撃を受けた大本営の五稜郭は当時まだ完成したとは言えない状態で、もしも当初の計画通りの防衛力を備えて完成していたら、「蝦夷幕府」ができていたりして、北海道の歴史は違ったものになっていたかもしれないな。


函館山から

五稜郭タワーから


旅の空から~生まれ故郷の釧路に寄港

2024年09月29日 | 日々の風の吹くまま
9月27日(金曜日)。🌧☁⛅。ゆうべ最後の時間変更で1時間戻したので、また5時半には目が覚めてしまった。外は雨。生まれ故郷の釧路港に接岸するのは7時だから、港に入るのは6時半くらいかな。カレシも6時には起き出してしまったので、さっさと身づくろいをして、カメラを持って10階デッキへ。夜の間にかなりの雨が降ったようで、プールのあるデッキはびしょびしょ。その上の11階デッキはもっとびしょびしょで、雨を避けられるところを探して歩きながら、近づいてくるわが故郷にカメラを向けてシャッターを押しまくり。赤い航路標識を通り過ぎて、丘の上に灯台の光が見えたときは、昔は野太い霧笛で有名だった釧路崎灯台のすぐ近く(灯台は米町2丁目、我が家は4丁目)で育ったワタシはさすがに感動しちゃった。停泊している海上保安庁の巡視船の横を通ってしずしずと進んでいくと、雨に煙る幣舞橋が見えて来た。うん、帰って来たよ、私のふるさと。




接岸を見届けて船室に戻って、J子に着いたよぉとテキストを飛ばしたら、すぐに「何時ごろ降りてくる?」と返信。そこが微妙なところなんだけど、入国管理があって、ツアーに出る人たちが優先されるからどんなに早くても9時過ぎだなあ。続けて「雨が降ってるから傘を持ってってあげるね」。うん、降ってるなあ。でも、ベランダから見える岸壁には白いテントがいくつか並んで、観光バスが数台。とりあえずラ・テラッツァに降りて朝食。そのうちJ子から「ターミナルに来たよ」というテキストが来たのでベランダに出て見たら、あ、ターミナルの前に止めた車から降りて傘をさして船の方へ歩いてくる人がいる。手を振ったらすぐにワタシの名前を呼んできたので、ワタシも手をメガホンにしてJ子の名前を呼んで、船と岸壁の間で8年ぶりの再会。「車の中で待ってるよ」というので、4階デッキの受付に行ったら、ツアー組が終わってその他組の番になったらデッキに関係なく列に並んでいいと言ってくれたので、そのまま下船できるように支度をしてロビーへ。待つこと数分で受け付けのスタッフが「並んでいいですよ」と知らせてくれて、それっと劇場の中へ。日本の入国審査に時間がかかるのは外国のパスポートだと指紋と顔写真を撮るからかな。乗客630人余の中で日本のパスポートを持っている人はほんの数人いるかいないかだろうから、時間がかかるはずだ。審査を通過したことを占めるステッカーをキーカードに張ってもらって、いよいよ下船。結局は10時過ぎ・・・。


おおい、とうとう来たよぉ~

雨が土砂降りになったり、小やみになったりする中を、J子の軽自動車でしばらく懐かしいところを走ってから、「まなぼっと」という円形の不思議な建物に着いて、まずは(晴れた日には阿寒の山々が見えるという)10階の展望台に上がって故郷の街並みを見渡してから、ランチをする9階の「まいづる」というレストランへ。ユリちゃんとケイ子ちゃん、ユミ子ちゃんがいて、恵庭から来てくれるヒデ子ちゃんは大雨で列車が1時間以上遅れているということ。(最近のJRはちょっとした雨や風で列車を止めてしまうらしい。)釧路に着いたらユリちゃんが迎えに行くことになって、まずは揃っている顔ぶれでランチ。戦後の昭和の子供が子供でいられた時代の思い出あれこれに花を咲かせてにぎやかなこと。東栄小学校1年3組で出会ったのは70年前なのに、いまだに会うときのうまで仲良く遊んでいたような感覚になるのは、釧路という霧深く、経済的にも厳しかった土地で一番霧が深い地域で自然に助け合って暮らしていて培われた純粋なやさしさがみんなの中に今でもしっかり根を張っているからだと思う。


子供のころよじ登った米町公園の啄木歌碑

私達が食べ終わる頃にヒデ子ちゃんが到着。入って来た時にすぐにわかった。どっちもきかん気でよく喧嘩をしたっけ。でも、あの頃の子供の喧嘩は他愛のないものですぐにけろっと仲直りしていた気がする。ランチの後でサーバーのお姉さんに記念写真を撮ってもらって、ユリちゃんとユミちゃんはボランティアで働いている芸術館のギフトショップに戻り、私たちとヒデ子ちゃんはJ子の車で子供時代を過ごした古いエリアをドライブ。市の歴史研究家で啄木ツアーのガイドもやるというJ子は次々と同級生たちが住んでいた家やその跡を指摘してくれて、なっつかしぃ~。小学校はとっくに廃校だし、崖っぷちの中学校は解体されて、空き地の向こうに残っているのはワタシがいつも頬杖をついて眺めていた「空と海と水平線」だけ。ワタシが釧路を出たのは1964年の夏だったから、うは、ちょうど60年かあ。芸術館に着いてみると船はすぐそこ。ユリちゃんが恵庭に帰るヒデ子ちゃんを駅まで送って行き、ワタシは帰って来るのを待っている間にギフトショップでおみやげを買い、J子と私たちは船が停泊している岸壁まで歩いて行って、しばらくして仕事を終えたユリちゃんとユミちゃんが合流しておしゃべり。出港の見送りイベントの準備が始まったので、船に戻って船室のベランダと岸壁の間で(携帯で話しながら)おいとま。午後5時半過ぎから北陽高校のプラスバンドの演奏があり、静かに岸壁を離れた船は広い所で回転して船首を太平洋に向けてしずしず。ワタシは赤い航路標識灯を過ぎて外海に出るまでベランダで遠くなって行くふるさとを眺めていたのだった。


盛大な見送り・・・

さよなら、幣舞橋

見送りありがとう

ふるさとがだんだん遠くなって行って・・・

港の外へ~また会う日まで


旅の空から~太平洋横断6日目(海と空の間の船旅も今日が最後)

2024年09月26日 | 日々の風の吹くまま
9月26日(木曜日)。⛅🌤☁。今朝の目覚めは5時50分で、外はまだ暗いけど目はパッチリ。何とかぐずぐずしてみたけど、6時半に起きてしまった。まあ、早起きが習慣になるなら文句はないけど、どうなんだろうなあ。今日は6日の空と海しか見えない大海原の旅の最終日で、南半球のオーストラリアのシドニーやブリズベーンと同じ時間帯は日本標準時の1時間先。つまり、時計を1時間戻すのも今夜が最後か。今日の海はあまり大きくない白波がちらほら・・・。

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手すりについた海の塩

カレシがポップ音楽に関する教養講座に行っている間に、ワタシはSIMカードの入れ替え。出したカードはなくさないように大切に保管。再起動したら、おお、ネットワークがソフトバンクになっている。普段の生活では携帯はもっぱらテキストメールで音声電話はスパムばかりだから鳴らないようにしてあるんだけど、日本にいる間だけは音声電話として使いそうだから、あしたは起きたらすぐに着信音を設定しておかないとね。携帯の切り替えが済んだところで、次は「外国人入国記録」に記入。氏名(フルネーム)、生年月日、国名、都市名、渡航目的、航空便名/船名、日本滞在予定時間、日本の連絡先(説明書に従って船の名前)、あとは前科がないか、強制送還されたことがないか武器や火薬を持っていないかという質問に全部「いいえ」と答えて、署名したら終わり。カレシの分も記入しておいて、講義から戻って来たところで署名させて、日本入国の準備が完了。あとはあしたの朝たぶん指紋を取って写真を撮ってパスポートにスタンプを貼ってもらうだけ。

釧路のJ子からユリちゃん経由で「9時に岸壁にいるからね」とのメール。仲良しのJ子とユリちゃんを船に招待しようと思ったんだけど、事前にSilverseaの本社に申請して許可を得る必要があり、乗船にはパスポートがいることが分かって、おまけにユリちゃんが小学校時代の同級生たちに声をかけていると聞いて、船の上での再会は残念ながらお流れ。外国船だから、日本の港に停泊していても船の上は「外国」ということなんだよね。でも、船を降りて「同窓会」をやる方が気兼ねがなくておもしろそう。ただし、5時過ぎには船に戻っていなければならないことを忘れないように・・・。



午後3時にはローシー教授の教養講座で、今日のテーマはサンゴ礁の不思議な生物たち。カレシもついてきて、サンゴ虫の誕生からサンゴができるまでや、サンゴ虫と寄生虫の共存関係や、大きな魚の口の中に入って寄生虫や粘液を食べて生きている「掃除屋」の魚の話や、はては性転換する魚たちの話まで、すごくおもしろかった。講義の後は5階デッキのラウンジのバーに行って、今日はペニシリン。ラウンジではチームに分かれてのトリビアクイズのコンテストをやっていて、テーブル席は超満員。私たちは質問の答えをググったりしているうちにペニシリンをお替り。バーテン氏たちと軽口をたたき合っていたら、担当のバーテン氏が私の前に思わせぶりたっぷりに空のグラスを2個おいたので、思いっきりこわぁ~い顔でダメダメと首を振ったら、カウンターの後ろはクイズ組に負けない大爆笑。今夜の夕食はS.A.L.T. Kitchenで関西風のなんちゃって和食で、ワインなしで前菜はたこ焼き、メインは関西風すきやき。きのうは九州風だったから、あしたは関東風でもやるのかな。うん、来る日も来る日もベランダの向こうは海と空だけで、さすがにちょっとだらけがちだった太平洋横断6日間(陸を踏まずに8日)の旅も今日でおしまい・・・。


ペニシリンという名前のカクテル



バーテンの腕の見せどころ


これが関西風たこ焼きとすき焼きだって


旅の空から~太平洋横断5日目(毎日が前日より1時間長い)

2024年09月26日 | 日々の風の吹くまま
9月25日(水曜日)。🌤⛅🌤🌫。ゆうべは時計を1時間戻しての10時まで何とか頑張ったけど、目が覚めたらまだ6時すぎ。悩ましいねえ。これで5日連続で毎日が1時間ずつ長くなった勘定だけど、時差の話になるとややこしくなるばかり。携帯のクロックによるは東京は現在時間より1時間遅れとなっているけど、まだやっとカムチャツカ半島の南端の沖を通っているのに時差1時間なんてありえなぁい、としまいには2人とも混乱してお手上げ・・・。

けさの論点は、釧路に入港するのはあさってだけど、その前、つまり今夜と明日の夜にもまた時計を戻すのかどうか。あと1回?あと2回?結論としては、船はUTC+11の時間帯(ソロモン諸島など)を航行中なので、あしたはUTC+10(オーストラリアのブリズベーンやタスマニア)の時間帯に入るから、今夜のうちに1回。で、日本標準時はUTC+9の時間帯なので、明日の夜にまた時計を戻すことになるわけで、つまりあと2回。要するに、釧路に着いたらそのあとは函館、宮古、東京とずっと日本標準時のままだから、あさってから先はカナダに帰ってUTC-7(太平洋標準時夏時間)の日常生活に戻るまで時計を変えなくても済むようになるわけ。それが10月10日で、それから1カ月もしない11月3日に夏時間が終わって、来年の春のクルーズの前までUTC-8。都合勝手でジグザグな時間帯よりはストレートで分かりやすい気もするけど、はあ・・・。


こんな風にまっすぐだといいのに・・・

まあ、地球が丸いから、あちこち動き回って「人間活動」をやるとなると、こうならざるを得ないわけで、船が出るまでは、途中で日付変更線を越えて、6日もかけて太平洋を横断する船旅ってどんなものかなあと想像を巡らせていたんだけど、現実になってみるとずいぶん違った体験をしているという感じがする。ヴァスコ・ダ・ガマやコロンブスの大航海時代には時間帯なんてものがなかったし、帆船のスピードは現代の船とは比べ物にならないわけだけど、はて、大西洋のど真ん中でコロンブスはどんなことを思って海と空が出会うところを見ていたのかな。たぶん、巨富を期待して目指す「黄金の国ジパング」はもうすぐに違いない・・・とか。




きのう夕食が終わってキャビンに戻ったら、ベッドの上に日本の「外国人入国記録」2枚と、明後日の釧路港での入国管理の手順の説明書が置いてあった。日本の領海に入って最初の寄港地で、陸上ツアーが2つ、3つあるから、空港と同じ扱いなわけね。説明によると、(日本国法に基づいて)入国管理局が対面審査をすることになっていて、上陸するしないに関わらず4階デッキのVenetian Lounge(劇場)でで乗客全員を審査するので、それぞれに記入した入国記録とパスポートとカードキーを持って左舷側の入口から劇場に入るようにとのこと。Silver Novaは乗客定員728人のところ今回は632人(40%がリピーター)乗っていて、ツアーの予約をしている乗客を優先して、その他はデッキごとに順に処理と言うことで、8階デッキの私たちは何時ごろになるのかな。ツアーの出発は8時過ぎだから、8時前に始まるとして、私たちの番は9時ごろかな。でも、釧路で入管の手続きが済むってことは、東京で船を降りたらそのままホテルまで行けるから楽ちんでよさそう。うん、あしたは日本に着く前の事務処理の日ってことにしようっと。こういう日常の端っこを持ち込めるのもちょっと長めのクルーズのいいところ。なぁんてのんきにやっていたら、ベランダの外で急に…あ、霧!子供の頃の夏に見慣れた霧の色。なつかしいなあ。うん、霧の出迎えだ・・・。




ランチのバフェ

海の霧の出迎え?


旅の空から~太平洋横断4日目(映画を観て、ラーメンを食べて)

2024年09月25日 | 日々の風の吹くまま
9月24日(火曜日)。⛅🌤🌥。ゆうべもまたやっと10時と言う時間に早寝したもので、目が覚めたらまだ6時で外は真っ暗。海は穏やかなようで、揺れはほとんどない。ごろごろしていてもしょうがないので、6時半には起きて、船の上の暮らし6日目の始まり。夜の間に日付変更線を越えて東半球に出たので、寝たときは日曜日だったのに起きてみたらもう火曜日。いつの間にか月曜日がなくなっていたと言う感じで、なぁ~んかヘンな気分。


東半球(日付変更線の西側)の朝日

猛スピードで飛ぶ飛行機の場合は、西向きでも東向きでも一気に複数の時間帯を超えるから、降り立ったところで何時間もまとめて時計を進めたり、戻したりしてその土地の標準時間に合わせれば済むけど、船はそうは行かない。ひとつの時間帯を通過するのにだいたい1日かかるようで、毎朝起きたら前の日とは1時間違う時間帯。飛行機での移動のように何時間もまとめて時計を変えるわけではないので、いわゆる昼夜逆転のような時差ぼけはないけど、何日も連続して1時間、また1時間と(私たちの場合は)逆戻りする時間に体内時計が追い付かなくなって来るのが感じられて、早い時間に眠くなってしまうから厄介。ユニークな体験と言えるかもしれないけど、世界一周クルーズなんかだと、いったい何回時間を変えなければならないのかな。一見してゆっくりで楽そうに見えるけど、あんがい知らず知らずのうちに時差ぼけが起きていたりして・・・。


今日のランチはメキシカン

まあ、日付変更線を越えて東半球に入ったことで、日本に着くまでもう少しのところまで来たので、ランチの後で親しい友だちにもうすぐですと言うメール。(東京で船を降りてからは、現役時代の翻訳仲間の交流グループの集まりに参加する以外は全く日程が決まっていない・・・。)短いメールを5本書いて送って、午後2時から映画『Crazy Rich Asians』(「クレイジー・リッチ」)を観るために4階デッキのキャバレー式劇場Venetian Loungeへ。飛行機の中では必ず探し出して飛行中に2回は観るし、船の映画のリストにもあって2日目にテレビで観て、いったいもう十何回観たのか覚えていないんだけど、大きなスクリーンで観るのは初めて。映画はあまり好きじゃないワタシだけど、これは観るたびに何か共鳴するものがあって、繰り返して観てしまうから不思議。しっちゃかめっちゃかなコメディではあるけど、やっぱり心に響いて来る何かがあるんだよなあ・・・。

今日は何を食べようかなあと、船室のテレビで(3日ぐらいのサイクルで変わる)レストランのメニューをチェックしていたら、おお、S.A.L.T. Kitchenに九州料理?のメニューがあるじゃないの。前菜は「めんたい卵焼き」と「ぎょうざ」と[鶏天]、メインは「皿うどん」、「博多ラーメン」、「鯛のゆずあん」、デザートは「カステラ」と「さつまいものプリン」。なぁ~んかちょっと?な感じだけど、試してみない手はないよ。というわけで6時半からのVenentian Society(リピーターのクラブ)のレセプションの後で3階デッキのレストランに直行。メニューを渡されて2人共迷わずぎょうざと博多ラーメン。マッシュルームと野菜のぎょうざはおいしかった。メインのラーメンは見てびっくり。何でって、チャーシューと半熟卵とタケノコとほうれん草はまあ普通で、とんこつスープは脂ぎっていなくて、塩味も控えめでおいしかったんだけど、肝心の麺が「うどん」なのだっ。(九州だってラーメンにはラーメンの麺だよねえ。)デザートのカステラは少々ドライだったけど間違いなくカステラ。サーバーのエリザベッタ(ブラジル人)にカステラはポルトガル語から来ていると言ったら、「ブラジルもポルトガル語ですよ」。そう。で、ワタシの母方の家系の一派も100年以上前のずっと昔にブラジルに移住したそうなのと言ったら、「じゃあ、ブラジル人の親戚がいるんですね」。うん、そういうことになるなあ。


おしゃれっぽいギョーザ

クラシックなルックだけど

ラーメンとしては少々太すぎるような・・・

カステラ!


旅の空から~太平洋横断3日目(教養講座とフランス料理)

2024年09月24日 | 日々の風の吹くまま
9月22日(日曜日)。☁🌥☁⛅。今日はUTC(国際協定時)-11と言う時間帯。ニウエ時間とかサモア標準時とか呼ばれるらしい。太平洋時間からアラスカ時間、アリューシャン時間、ハワイ時間と連日1時間ずつ時計を戻したので、体内時計が狂い始めたのかどうか知らないけど、眠くなる時間が早くなって、ゆうべはとうとうきのうの時間で午後10時半、今日の時間で9時半。あんまり早く寝たもので、目が覚めたのは午前6時過ぎ。船体がギシギシいうのを聞きながらしばらくぐずぐずしていたけど、7時前にはとうとう起き出してしまった。ベーリング海のアリューシャン列島の北を西に進んで来た船はやや南に進路を変えたようで、けさは北緯53度で、昼前には北緯52度。

ラ・テラッツァの朝食バフェが開くのを待って朝ご飯。コンジーにスクランブルエッグと刻みネギをまぜたワタシ流の朝粥にはまっていて、後はフルーツだけ。コンジーは中国粥だけど、ここのはあっさりした日本の「お粥」。和食レストランのKaisekiのキッチンで作っているからで、中国人客がわりといるのでコンジーと呼んでいるんだろうな。今日は10時からローシー教授の海洋学の教養講座3回目がある日で、カレシも一緒。今日のテーマは「Underwater Technology」、つまりは海中での遊泳や作業や(究極的には)居住のための技術と言えるもので、水圧や酸素中毒、潜水病を防ぎ、克服するために考案されて、アクアラングや潜水艇、海底の居住設備などに発展。技術の進歩で今では1万メートルと言う深海まで到達するのが可能になって、マンガン団塊の資源開発も将来はロボットによる採鉱に発展すると言う話。ロボット技術が進んで人間が深海の資源に危険を冒さずにアクセスできるようになったら、次は新しい資源を求めてどんどん地球の芯まで掘り進むようになるのかなあ。




きのうバハールが東京で下船した後の移動に関する申込用紙を持って来たので、青海の国際クルーズターミナルから(Silversea指定でない)新宿のセンチュリーサザンタワーに行く手段についてカレシと相談。空港や指定ホテル(コンラッド)へはSilverseaが無料バスを用意しているけど、自主行動のワタシたちは自分たちでホテルまで行かなければならないので、ターミナルですぐにタクシーを拾えるかどうかが懸念事項。でも、申込用紙には、プライベート(つまり有料)に羽田、成田、そして都心のホテルのどれかに行くのに2人なら乗用車、4人ならバン、10人集まればバスを手配すると書いてあって、なぁ~んだ、心配することなかったじゃないの。アメリカドルで1台240ドルはお高いけど、世界中でdoor-to-doorパッケージの送迎サービスやプライベートな観光に使っているブラックレーンの車を呼ぶからじゃないかな。それでも船を降りてから車に乗るまでめんどうを見てもらえるので、こんなに楽ちんなことはない。さっそく「車/2人(スーツケース2個)/都心のホテル」にチェックマークを入れて、ホテルの名前を書き込んで、ピックアップの時間を指定して、4階デッキの受付に提出。これでひと安心。

肩の荷が下りたところで、ランチは(ビール付きながら)ごく軽く済ませて、夕食の予約の時間まで、午後いっぱいひたすらのんびり。カレシは昼寝をして、ワタシはブログを書いたり、写真の整理をしたりと、家事がないだけで何だか家にいるのとあまり変わらない午後の風景だな。遠い水平線を行くコンテナ船とタンカーをながめながらリラックスして、シャワーを浴びて、1枚だけ持って来たドレスに着替えて、カレシもジャケットを着込んで、4階デッキの奥にあるフランス料理のLa Dameへ。シャンペンとトリュフとモリーユのアミューズブーシュで始まって、ワインのおススメを聞きながら、ワタシは前菜のフォアグラに定番のソーテルヌワイン、メインのラムにはローヌ川南部の赤ワイン、カレシはロブスターとホタテのサラダの前菜にソヴィニョンブラン、メインのドーバーソール(舌平目)のシャンペンバター焼きにシャルドネをペアリングして、前菜とメインの間に口直しのソルベ。サーバー氏が大きな鉄のお盆に載せて来た舌平目の皮と骨をフォークとスプーンで取り除く手さばきにしばしうっとり。最後のデザートは2人そろって塩キャラメルバターのスフレ。コーヒーで仕上げをしながら、うん、美味であった。(船内での前払いこづかいはこのためにある・・・とか。)さて、今夜はいよいよ日付変更線を通過・・・










旅の空から~太平洋横断2日目(海の色と船の上のWiFi)

2024年09月22日 | 日々の風の吹くまま
9月21日(土曜日)。☁🌥☁。目覚めは7時。夜の間に雨が降っていたようで、ベランダはびしょびしょ。でも、風はあまりなくて、波は穏やか。ゆらゆらと揺りかごで揺られて眠っている感覚だったので、海は荒れていなかったんだろうな。何となく枕の下から響いて来るエンジンの音とゆったりした揺れはワタシにとっては最高の睡眠効果があっていい。十代の頃に船乗りになりたいと思った時期があって、あの頃に男女同権、機会均等が浸透していたら、もしかしたらクルーズ船の船長になれたんだろうか。まあ、過ぎ去った遠い、遠い昔のはかない夢だったとしても、世界の海を渡るワタシを想像するのは果てて欲しくない楽しい夢をむさぼっているようなもんかな。ある意味で「海の子」なんだと思う。

アリューシャン列島の北にあるベーリング海の色は、何となく緑がかった灰色で、子供の頃に見慣れていた霧深い夏にはどんよりと重い鉛色になる、太平洋の色。(釧路沖の太平洋は冬の壮大な夕焼けに染まる日以外はいつも重たい鉛色だった。)海の色は海水の温度を示しているんだそうで、冷たい海はどんよりした色になり、温かい海ほど青くなるらしい。初めてのクルーズで通った南シナ海は青かったし、スールー海は目が覚めるような青だったし、地中海でも、リグリア海、ティレニア海、バレアレス海、アドリア海を通ったけど、それぞれに微妙に色あいが違ってもみんなほんとに青かった。逆にオーストラリアとニュージーランドの間のタスマン海はどっちかと言うとどんよりしていたっけ。はて、来年の夏に行くバルト海はどんな色合いかな。

船の上で丸1日を過ごすとなると、食事の支度や掃除をしなくてもいい以外は、2人共てんでに自分のPCに向かっている日常とあまり変わらない生活パターンになるからおもしろい。リタイアしちゃえば日常と非日常の境がほやけてしまうってことかな。船内ではいろんなアクティビティのプログラムがあるけど、ダンスだゲームだ講習会だと1日中飛び回るエネルギーも関心もないって感じで、ワタシはこうしてブログを書いていたり、FBに載せる「中間報告」を書いていたりで、カレシはカレシでミャンマーやベトナムの英語の生徒と即興のレッスンを始めたり。クルーズ船上のWiFiはシグナルを遠い上空の通信衛星に送って、その衛星からどこかの地上局に送ってネットのサーバーにつなぐんだそうだけど、何しろ距離があるから、シグナルが衛星に届くまで時間がかかるし、衛星から地上に届くまでにも同様の時間がかかるし、その衛星だって常に同じところにいるわけじゃないので、キャッチできるかどうかは(たぶん)運任せ。それでも、だだっ広い太平洋をカバーするために通信衛星が優れモノなのかどうか知らないけど、WiFiの条件は文句なしで、地中海クルーズではプレミアムの料金を払っても接続が当てにならなくて、いつもイライラしていたのとは大違い。これまたバルト海の上の衛星のカバー状況はどうなんだろうなあ。今ダニューブ川をリバークルーズ中のケイトお姉ちゃんと、スペインを旅行中のトッドとヴァルに、帰ってからどんなだったか聞いてみなくちゃ。どっちも大量の写真をアップするのに苦労してはいなさそうだけど。

夜も更けて、風が強くなって来た。揺れも大きくなって来たけど、エンターテインメントを偵察に行っていたカレシが戻って来て、「昨日はがら空きだったのに今日はどこもにぎわってるぞ。Silver NoteのデュオもDolce Vitaのピアノ弾きも」。へえ。で、シアターのトランペット奏者はどうなのよ。「すごいんだよ、それが。だからしばらく座って聞いて来たんだ」。はて、船の揺れとエンタメ需要にがどんな関連性があるんだろう。(似非科学なら説明がつくかな?)さて、今夜もまた時計を1時間戻さなくちゃ。もしかしてこの調子で次の港(釧路)に着くまで毎日時計を戻し続けるとか・・・?




旅の空から~太平洋横断1日目(アリューシャン時間帯)

2024年09月21日 | 日々の風の吹くまま
9月20日(金曜日)。🌤☀⛅。ゆうべ寝る前に時計を1時間戻しておいたので、目が覚めたのはアリューシャン時間の午前7時。(アラスカ時間帯にいたきのうの朝なら午前8時。)時計の時刻を変えるのはバンクーバーを出港した翌日のインサイドパッセージでの変更に次いでこれで2度目。(船は日付変更線に向かって西へ西へと航行中なので、時間帯が変わるたびに1時間逆戻り。)ハワイ/アリューシャン標準時というそうだけど、ハワイは夏時間を採用していないのに対してアラスカでは夏時間があるために、標準時に戻るまではひとつの時間帯の中で1時間の違いができて、夏の間はハワイ時間とアリューシャン時間があるということでややこしい。船内誌のChroniclesによると、今夜も寝る前にまた1時間戻すことになっていて、ほんっとにややこしい。何だかそのたびに1時間ずつ若返って行くような気がしないでもないけど、んなこたぁないよなぁ。日付変更線を越えたらとたんに次の日になって、1日年を食っちゃうわけだし・・・。



どこにも寄港しない日(Day at Sea)の朝食はラ・テラッツァのバフェが7時半から、レストランAtlantideが8時からと、それぞれ30分繰り下げ。ゆっくり寝てくださいってことだろうけど、ほんとに8時を過ぎてから行ってもラ・テラッツァはがらがら。ルームサービスを頼んでキャビンでのんびりくつろいで食べる人も多いのかな。クルーズの宣伝にもよく(若くておしゃれな)カップルがバスローブに身を包んでバトラーの給仕で優雅にやっている写真が載っているし、夏ならベランダで海風に吹かれて2人きりのひとときというのもありだけど、外の気温は10度で、9月の北太平洋ではロマンチックも何もあったもんじゃない。今日は正午からワイン・ペアリングのセッションがあるので、朝食はフルーツたくさんとミニマフィンとクロワッサンで軽くコンティネンタル。外には船影(きのうはクジラが見えた)。海上暮らしの日はイベントやゲームや教養講座が目白押しで、カレシは10時から「ポップ音楽史」、ワタシは11時からきのうに続いて「海洋学」。そしてジャズクラブSilver Noteの前で待ち合わせてワイン・ペアリング・・・。





けっこうな参加費がかかるせいか集まったのは15人くらい。シャンペンが配られて、総料理長と副料理長の挨拶があって、アミューズブーシュ(フォアグラ)が運ばれて来るとソムリエ長のマリアがペアしたシャンペンについて解説。前菜はホタテのセヴィチェ、メインは鴨の胸肉、続いてチーズ3種、そしてデザートはパイナップルのバーバと、それぞれにペアしたワインの解説を聞きながら食べ進むこと2時間。何と5杯もワインを飲んだ勘定で、おなかもいっぱい。キャビンに戻った2人はそのままベッドにバタンキューで3時間も昼寝・・・。







目を覚ました頃にはもう5時で、備え付けのコーヒーマシンでアメリカーノをいれて目覚まし。遠くの水平線にはコンテナ船のお通りで、陸地は影も形もなし。カレシが「今日は夕食はスキップだな」と言うので、うん、ワタシもおなかが空いていないから、後でおやつにバトラーのラヴィニアが毎日補給してくれるトリュフ味のカシューナッツとドライフルーツを食べれば十分だろうね。何たって毎日ワイン付きで3コースのリッチな食事をしてるから、たまにはおなかを休めないとね。午後11時、船はウナラスカ島の手前で島の間を抜けてベーリング海へ。今夜もまた時計を1時間戻すんだって・・・。





旅の空から~アラスカ州コディアク

2024年09月20日 | 日々の風の吹くまま
9月19日(木曜日)。🌤☀⛅。一晩中かなり揺れていたけど、8時過ぎに目を覚ましたら静か過ぎて拍子抜け。とっくにアラスカというか西半球で最後の寄港地コディアクに着いていて、ベランダのすぐ外に大きなはしけが横付けになっていて、どうやら燃料の給油の最中。Silver Novaはハイブリッドエンジンを採用しているから燃料はそれほど要らないかもしれないけど、それでもコディアクを出たら日付変更線を越えて東半球の釧路に着くまで、陸地は影も形もない日が続くんだから、燃料だけじゃなくて食糧もたっぷり補給しておかないとね。



コディアクは辺境アラスカのさらに辺境にあるという印象だったけど、人口は6千人近い、アラスカで10番目の都市で、アメリカ沿岸警備隊と海軍の施設がかなりある。アメリカが帝政ロシアからアラスカを買収するまでは、18世紀末にラッコの毛皮を求めて住み着いたロシア人がパブロフスカヤ・ガワンとしてロシアの植民地の首都にしていたところで、今でもロシア正教の信者が相当数いるそうな。(北海道にもロシア人が住み着いていた形跡があるそうで、思いがけないところにロシア正教の教会が残っていたりするらしい。)朝食の後でカメラを持って10階デッキに上がったら、貨物の荷揚げ施設らしい埠頭にバイキングのクルーズ船が停泊していて、後ろにそそり立つ山の上にはウィンドタービンが6基。コディアクの電力需要の相当な部分をまかなっているんだそうで、かなり進取の風潮があるところと言う印象。



コディアクでのツアーは野生動物の観察などの自然に親しむのが目的のエネルギーが必要そうなものが4つあるだけで、毎日キャビンに届く船内の情報誌『Chronicles』を見ていたカレシが、「市内と港のツアーはいいな」と言うので、残念でした、ツアーのチケットは全部売り切れ。自分でテンダーに乗って行って街を歩いて来る手があるけど、どれほどの見所があるのかな。そもそもツアーの予約がオープンしたときに、ケチカンから(後でキャンセルになった)ダッチハーバーまで寄港地全部でこれはと思うツアーを予約してあったのに、カレシがアラスカには興味がないとか、山の中を歩き回るのは嫌だとか言うから、ケチカンとシトカを除いてそっくりキャンセルしたんだから(スカグウェイは予約しなおしたけど)、今さらツアーに行きたいなんて言っても遅いっつうの。


スシとビールのランチ

キャビンでアメリカーノをいれて・・・

午後3時頃、10階デッキのプールサイドで午後4時から太平洋への船出を祝うパーティがあるという船内アナウンス。午後4時はコディアク出港の時間で、ホスピタリティ部門のスタッフの発案で予定にはなかった「出帆パーティ」をすることになったらしい。おもしろそうだから4時ちょっと前に行ってみたら、うは、かなりの人がシャンペングラスを片手に即席のバンドの演奏を聴いたり、踊ったり。船が動き出す4時にはクルーズ・ディレクターのJPが挨拶して、日本語で乾杯の音頭を取って、みんなそろって次の寄港地である釧路までの楽しい太平洋横断の旅を願っていっせいに「かんばぁ~い」の大合唱。次いでDJのリオがバンドを指揮してダンスパーティ。最初は10人くらいだったのが、周りの人を引っ張り込んでいるうちにみんな大いにノリノリ。ワタシもエキサイトして生まれ故郷に行くのよぉと踊りまくり。スタッフの1人がワタシの携帯でカレシとワタシが踊っているところをビデオに撮ってくれて、楽しい思い出の記録ができちゃった。ちょっと(年甲斐もなく)はしゃぎすぎかもしれないけど、さよなら、コディアク!うん、いい運動にもなった・・・。


夕日に赤い帆じゃないけど・・・


旅の空から~波高き北太平洋を西へ

2024年09月20日 | 日々の風の吹くまま
9月18日(水曜日)。☁⛅🌤。きのうは何だか疲れて早くに寝てしまって、最初に目が覚めたのが6時過ぎ。シトカ湾から北太平洋のアラスカ湾に出たせいか、ひと晩中かなりの揺れて、おまけにキャビン全体がギシギシ、ガシガシ、カリカリとけっこううるさい。それでも、波の上の揺れは、ときどき大きな波にぶち当たってドンっとつまずくような衝撃があるけど、だいたいはゆらゆらした感じなので、いつの間にかまた眠りに落ちて、次に目が覚めたら7時過ぎ。今日はどこにも寄港しない(寄港するところがない)ので、1日中ひとかけらの陸地の影さえ見えない、まさに大海原のど真ん中と言う感じで、つい「Where the ocean meets the sky, I’ll be sailing」とロッド・スチュワートのRhythm of My Heartを口ずさんでしまう。どこまでも果てしないと大空が1本の細い線を挟んでどこまでも果てしない大海原と出会うという光景は、ワタシにとっては幼い脳裏に強烈に焼き付いた最初の「意味のある風景」として、その後のワタシの世界観に大きな影響を与えた原風景と言えるもの。妹が生まれて母が手いっぱいだった頃(ワタシは3歳半くらい)に父がよく散歩に連れ出してくれて、特に晴れた日にはジャガイモ畑の外れの崖っぷちに手をつないで立って、太平洋を見ていたんだけど、ある日父が横にまっすぐな線(地平線)を指さして、「あの線をくぐって行くとこことは違う世界がたくさんあるんだよ」と言ったのを驚異として受け止めた記憶がある。その頃のワタシはまだ「世界」が何であるかも理解できていなかったはずだけど、あの線の向こうにはわくわくするものがあるんだと感じたんだろうな。ロッド・スチュワートの歌をもじるなら、「大海原が大空と会うところ、そこがワタシの宇宙」(Where the ocean meets the sky, it’s my universe)となるかな。父はワタシの人生の最高のメンターだった。うん、来年は父が人生を終えた年齢に追いつこうというワタシだけど、きっとこのままずっと「お父さんの子」でいるんだろうな。


寄港地のない日は教養講座で・・・

のんびりと写真の整理を試みて、おなかが空いたら今日のランチは(高級)和食レストランKaiseki。メニューに「とんこつラーメン」があるので、普通のラーメンを想定して注文したら、「寿司はどれにしますか?」と来て、はあ?「前菜ですから量は少ないですよ」と言うので、そっか、ラーメンは「前菜」のスープなのか。それじゃあと、ワタシはたこロール、カレシはレインボーロールを注文したら、「それだけでいいんですか」と来て、そっか、巻きずしを好きに組み合わせるようになっているのか。でも、船が出て以来ずっと食べ過ぎの感があるから、今日はそれで十分。ということで、出て来た「ラーメン」を見てなるほどとナットク。脳内にしみついているラーメン屋のてんこ盛りのラーメンのイメージとは大違いで、いやあ、こんなお上品なラーメンは初めて。でも、麺はごく普通の中華麺だったけど、スープは薄味でおいしかった。次いで出てきたスシロールは、あはは、小さい輪切りが3個。いやあ、お上品もここまで来ると・・・。


これがとんこつラーメン

夕食を出すレストランは8つあるけど、そのうち5つは予約制で、うち3つはけっこうお高いカバーチャージがかかる。パッケージの料金にはクルーズ会社が決めるonboard creditと言うアカウント(私たちは今回300アメリカドルずつ)が含まれていて、ブティックで買い物をして、有料のレストランやプライベートなツアーを利用させるのが狙いのようで、言うなれば船内でのお小遣いの前払いということだけど、返金されないので「使わにゃ損損」。出発の半年前くらいになって空室を埋めるためにExpediaなどに激安で売り出されるパッケージに1000ドルなんてお小遣いが付いて来るのは、クルーズ慣れしていない人たちに「お得感」を持たせると同時に割引の幾分かを取り戻すしくみになっているからだろうと思う。でも、私たちには超高級ブランド品は縁がないし、ツアーはパッケージに含まれる(ベーシックな)ものを選んでしまうので、使い道はプレミアムWiFiと長めのクルーズなら洗濯の料金くらいなんだけど、今回は(少し高いキャビンにしたせいか)どっちも「無料サービス」になっているので、残るはレストランくらい。それで今回は和食のKaisekiとフランス料理のルレ・エ・シャトー会員La Dameに予約を入れて、さらにレストランでソムリエに声をかけられたイベント(ワイン・ペアリング)に申し込んで「前払い分」はめでたく使い切り。ビジネスってのは一種の狐の化かし合いのようなもんで、上手に化かされて上手に化かせられたらWin-Win。

午後も深まって来ると、今日はどのレストランに行こうかと言う話になって、10階デッキのレストランMarqueeの中にあるSpaccanapoliでピッツァでも食べようと思ったけど、そこはほぼ吹き曝しなので、地中海かカリブ海にでもいなければ寒すぎて、ピッツァとビールなんてのは年寄りの冷や水の最たるもの。ということで、3階デッキのけっこう気に入っているS.A.L.T. Kitchenのメニューが変わったからそっちにしよう。(となりのAtlantideと交互に行っている感じだけど・・・。)窓の外で砕けるすごい波しぶきを見ながら、前菜はカニの足、メインはワタシは(今夜のスペシャルの)メルルーサ、カレシはパンをボウルにしたシーフードチャウダー。カリフォルニアの白ワインはまあまあよりちょっと落ちる感じだったけど、メルルーサはおいしかったし、取り合わせに選んだ和風きのこライスはいい味の「炊き込みご飯」。デザートは?と聞かれたとたんにダイエット志向はまたもや雲散霧消して、ウォッカでマリネ―としたイチゴのパンプディング。帰りに5階デッキの船尾のラウンジで食後酒のコニャックを1杯。今夜も船は揺れそうだなあ・・・。


温室育ちのパン?






旅の空から~アラスカ州シトカ(野生動物たち)

2024年09月19日 | 日々の風の吹くまま
9月17日(火曜日)。⛅🌤。シトカはインサイドパッセージ外側で太平洋に面したシトカ湾の奥にある町で、1867年まではロシア領だったところ。周辺の集落を統合してできたシトカ市は陸地面積が7434平方キロ、水域を含めると何と12461平方キロで、市の面積としてはアメリカ合衆国で第1位。日本地図に重ねると、陸地だけなら熊本県より大きく、水域を含めると長野県よりちょっと小さい広さの「市」に人口わずか8500人。想像しがたいスケールだなあ。船は市街地からかなり離れた海上に停泊。潮の流れに乗って少しずつ位置が変わっているのか、外の景観がどんどん変わって行くのがおもしろい。近くにはOceanaのRegattaが停泊していて、テンダーが往来。たちのツアーはテンダーが船を出るのが午後2時で、観光船の出発は2時半。ラッコと野生動物を見に行くと言う趣旨だけど、何が見えるかは動物の気分次第。ツアーのオペレーターは穴場のようなところを熟知しているだろうと思うけど、それでもダメなときはダメ。動物園に行くんじゃないんだからあたりまえか。

テンダーが出る2時少し前に2階デッキに降りて、ちょうど戻って来たテンダーの客が降りるのを待って乗船。いつもツアーは10分前までに集合、テンダーは出発時間までに乗船口に来るようにと口を酸っぱくして言われているのに、遅れてくる人が必ず何人かいるから、いつも不思議。たいていが30代後半から50代前半くらい(つまりミレニアル世代?)で、慌てている様子はなく、遅れるのがファッショナブルと言った感じでもなく、待っていた人たちがいることに気付くようでもなく、淡々と現れて開いている席に座っておしまいなんだけど、共通して説明しにくい雰囲気を持っているからおもしろい。ちなみに遅刻常習は人種に関わりなく男性より女性の方が多いという印象。波を蹴立てて飛ばすテンダーでシトカの船着き場に着き、陸に上がったら回れ右して隣の桟橋を歩いて待っている観光船に乗り換え。下は両側に4人掛けのシートがずらりと並んでいて、上は屋根のない展望デッキ。

テンダーは沖の船を通り越してさらに飛ばして、入江のようなところでエンジンを停止。ガイドが「ザトウクジラがいますよ」。へえ、こんな北までザトウクジラが来るとは知らなかった。みんな窓の外の水面に目を凝らして、ときどき誰かが「ほら、あそこ」。でも、そっちに顔を向ける頃にはクジラは垂直降下(瞬間的に尻尾が見える)。トフィーノでホエールウォッチングに行った時もそうだったけど、クジラは観光客相手にショーをやっているわけじゃないので、潜ったら次はいつどこに現われるかわからないので、写真を撮るのはまず無理。でも、軽くジャンプして見せてくれたのでいいってことか。次はかなり離れた入江の旧サケ養殖場に近づいて、「岸にいるよ」。いるよって、何が?カメラを目いっぱいズームして岸辺をのぞいたら、いたっ。太ったクマ!夢中で写真を撮りまくって、船がぐるっと回ったら反対側の岸にもクマが3頭か4頭現れて、また写真を撮りまくり。





次はまた波を蹴立てて飛ばして、今度はラッコ探し。あそこにいるっと言われて、日差しがまぶしい海の上に目を凝らしたら、あはっ、黒い点々がぷかぷか。ラッコは生涯のほとんどを海の上で過ごすのに、皮下脂肪がなくて高密度の毛皮で体温を保持しているそうな。それで、昔はラッコの毛皮が引っ張りだこで、乱獲の対象になったけど、今は毛皮を目的とする捕獲は禁止されているから、ああして(一見して)のんびり、ぷかぷか・・・。



ラッコの群れ(規則でこれ以上は近寄れない)

ツアーを終えた観光船は船着き場に戻らず、沖の船まで波しぶきを上げて一直線。途中で歓声が上がったと思ったら、あはは、大きなブイで大きなトドが大あくびをしながら日向ぼっこ。ちょっと寒かったけど、海の上で楽しい午後を過ごして、観光船は帰船の期限ぎりぎりの午後5時25分にSilver Novaに横付け・・・。


日向ぼっこのトド・・・



旅の空から~アラスカ州スカグウェイ

2024年09月18日 | 日々の風の吹くまま
9月16日(月曜日)。☁⛅☁⛅。何となく目が覚めたのが7時40分で、とっくにスカグウェイに着いていて、外を見たら、あら、またもやOvation of the Seasが目の前に。今月釧路に入港するクルーズ船の中には入っていないので、一緒に太平洋横断ということはなさそうだし、きのうジュノーにいたSeven Seas Explorerも一緒もしかしたらまだアラスカシーズンが終わっていないのかな。



スカグウェイはアメリカのワシントン州からカナダ西岸に沿って延々1600キロ続く(瀬戸内海のような)海のハイウェイ「インサイドパッセージ」の北の終点(あるいは出発点)で、内陸の鉱山地帯に通じる鉄道の起点でもある人口1200人ほどの集落。朝食の後でひとりカメラを持ってプールデッキに上がって見たら、周りに険しい山がそそり立っていて、そこここに氷河が見える。部屋に戻ってカレシに船を降りてみるかどうか聞いたら「街に出てみたいな」。でも、船からはテンダー(補給船)で岸まで行くらしいので、ツアーのデスクでテンダーの運行予定を聞きに行くことにしたけど、4階デッキまで降りて行く途中で「ストリートカーで市内観光」ツアーに空きがあったらそれに乗ろうかと言うことになって、たまたま空きがあったのであっさり自主行動よりも楽なツアーに決まり。ツアーは陸で1時15分スタートで、12時45分かそれ以上前のテンダーに乗るようにとのことで、今日はランチを端折って、その代わりバトラーのラヴィニアが毎朝持って来てくれるトリュフ味のカシューナッツをおやつに持参。

普段は補給船で緊急時には救命ボートになるテンダーは、接岸できない寄港地では客の足にもなる便利な存在。スカグウェイでは船からテンダーの船着き場まではせいぜい5分で、そこから標識を持った係の案内に従って、ツアーの出発点に行ってみたら、おととい乗ったスクールバスみたいな古ぼけたバスが待っていて、ええ?あのぅ、street carってのは市街電車のことのはずだけど・・・いえいえ、スカグウェイでは1927年型のバス。昔ハーディング大統領が訪れたときに、派手な色に塗ったトラックを「ストリート・カー」と銘打って走らせたのが始まりで、その後公共交通機関となって、道路(ストリート)を走る乗用車(カー)なのでストリートカー。つまり、初めからガソリンエンジンの乗用車だったわけ。開拓時代の服装のガイドが運転して、クロンダイクのゴールドラッシュ時代の建物が並ぶ中心街からのどかな住宅地を走り抜け、町を見下ろす展望台に行き、ゴールドラッシュ時代のカラフルな人物が埋葬されているゴールドラッシュ墓地で開拓時代そのものの逸話を聞いての1時間半。最後にガイドさんが「世界のあちこちでオーバーツーリズムが問題になっていますが、スカグウェイではみなさんのような観光客のおかげで街並みや景観を守れていることを理解して感謝しています。今日はありがとうございました」と深々とおじぎ。なるほど、住宅街ではストリートカーに手を振る人たちがいたなあ・・・。


スカグウェイのストリートカーはバス

人口1200人の町に大きなクルーズ船が3隻

太陽にきらめく氷河

ゴールドラッシュ時代の墓地

津波の際の避難ルートの標識

スモールボート・ハーバーに巨大な船

出港は午後4時。次の寄港地シトカに向かって夜の間に北上して来たインサイドパッセージを南下。夕食はどこにしようかなんて考えながらだらだらと過ごしていたら、ベランダの外に海からそそり立つ山と流れ落ちる滝(川?)と後ろに散在する氷河。風が冷たいので、出たり入ったりしながら1時間も見とれまくりの写真を撮りまくり。よく考えたら、インサイドパッセージはフィヨルドなんだ。ニュージーランドの南島のフィヨルドもすばらしかったけど、アラスカのフィヨルドはもっと荒々しくて野性的。いつか北欧のフィヨルドをもに行きたいな。


お先にぃ~








旅の空から~アラスカ州ジュノー

2024年09月17日 | 日々の風の吹くまま
9月15日(日曜日)。🌧。起きたのはまだ今日の寄港地ジュノーに向かっているときで、外は雨。風もありそうで、気温は10度。うはっ、北緯58度の秋は寒いっ。でも、私たちはツアーを予約していないので、のんびりと8時半に朝食。オートミールの向こうにコンジー(中國粥)があったので、ボウルにたっぷり入れてもらって、ぐるっと回ってスクランブルエッグをのせて混ぜたら、あら、けっこうイケるじゃないの。



アメリカ合衆国で49番めに州になったアラスカの州都ジュノーはアンカレッジ、フェアバンクスに次ぐ第3の都市で人口約32000人。大陸の端にありながら市に直結する道路がないため、海と空からしか到達できないことで有名。ジュノーと言うフランス語名前の由来は金鉱を探しに来た(カナダの)ケベック人ジョー・ジュノーだそうで、もしかしたらこの辺りはカナダ領になっていた可能性があるのかもしれないな。ほんと、世界の歴史には自然の干渉とか人間の出会いのタイミングとか、いたるところにある種の「ボタンの掛け違い」のドラマがあっておもしろい。




接岸は9時半で、町はずれの大きなクルーズターミナルにはすでにNorwegian CruiseのNorwegian Sun(定員1976人)とRegentのSeven Seas Explorer(定員750人)が接岸していて、Silver Nova(定員728人)は3隻目。アラスカクルーズの起点バンクーバーにはターミナルのカナダプレイスに毎日でかいのが3隻、4隻と停泊していて、それがみんなここに寄るわけで、シーズンの終わりでこれだから、夏場の混みようは推して知るべしだな。そこいら辺を散歩して来ようということになって、持参の雨具を着込んで下船したら、これがバンクーバーだったら注意報が出るくらいの雨と風で、あっという間に眼鏡がびしょびしょ。船の写真を撮っていたら、図体の大きいクルーズ船がもう1隻ぐぃっと入って来てびっくり。Silverseaの親会社Royal CaribbeanのOvation of the Seas(定員約4905人)で、5年前にオーストラリアからニュージーランドにクルーズしたときにシドニー港に停泊していた船。私たちのSilver Museより先にニュージーランドのタウラロンガに寄港した際に、沖の火山島ホワイトアイランドを観光中のグループが噴火に遭遇して、死者22人、負傷者25人の大惨事になったいわくつきの船にアラスカで再会するなんて・・・。


Silver Nova

びしょぬれ・・・

Ovation of the Seas~5年ぶりの再会?

降りしきる雨の中をどこまでも続くような岸壁に沿って歩いていたら、あまりの冷たさに手がかじかんで来るし、しまいには顔に寒冷蕁麻疹が出始める始末で、雨が横殴りに近くなって来たので、散歩をあきらめて回れ右して帰船。ランチタイムだったので、ラ・テラッツァに駆け込んで、温かなチキンスープで体の中をほかほかにしたところで、夜はイタリアンの予約を入れてあるので、ワタシはピッツァのスライスと蒸した野菜(とデザート)と言う「控え目」のランチ。夜になっても雨は止まず、風は強くなって、今日のジュノーの最高気温はとうとう一桁のまま。ずいぶんと久しぶりに出た寒冷蕁麻疹は何とか夕食の頃には消えたけど、いやはや、寒かった・・・。