廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

豪州の俊英

2015年08月30日 | Jazz LP

The Graeme Lyall Quintet  ( 豪 EMI / Columbia SCXO 7897 )


少し前に再発されて店頭に並んだ "Smokingun" を何の予備知識もなく聴いた際にその演奏力の桁外れの高さに驚かされたグレエム・ライアル。 
一体何者かと調べてみると、どうもメルボルンで地元のビッグバンドに所属したり音楽学校で教鞭をとったり放送局の裏方をやったり、と信じられないような
キャリアらしい。 オーストラリア国内では多数の受賞歴があって有名な人のようですが、遠く離れた我々には何はなくとも発表された作品、ということで
探してみると、どうにかこれを含めてレコードは2枚あることまではわかりました。 ただ、もしかしたらまだ他にもあるのかもしれません。
こんなに上手いサックス奏者が一体なんで?と不可解でなりませんが、どうにも情報がなくてよくわからない。

このアルバムも録音日時が記載されておらず、シドニーのEMIスタジオでの録音ということしかわかりませんが、おそらく60年代中頃のようです。
本人はアルト、電気アルト、テナーを色々持ち替えて吹いていて、そこにトロンボーンとピアノトリオが加わります。 A面はフリーとモードの間を
行ったり来たりする10分強の大作とジャズロックやジャズボッサ、B面に行くと抒情的な "When Sunny Gets Blue" のバラード演奏やアラビア風モード、
という感じの1曲ごとに作風や表情が変わる多彩さで、時代の空気が色濃く反映されていますが、どうも自分の本音や正体を隠そうとしているんじゃないか、
と勘ぐってしまうようなところがあります。 尤もどれも高度な演奏力に裏打ちされた見事な出来で、普通のジャズとは違ってかなりひねりの効いた内容ですが、
期待を裏切らないものになっています。

ただ、こんなにも素晴らしい音楽家なのに、こちらが近づこうとすればするほどまるで逃げ水のように遠のいて行くようなもどかしさがあり、ネットの中の
自分の痕跡を丁寧に消して回っているようなところもあって、もしかしたらこういう記事を書かれることも本人は望んでいないのかもしれません。





Greame Lyall meets the Joe Chindamo Trio



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週の収穫

2015年08月29日 | Jazz CD
お盆の時期に久し振りのフリー中古CDセールがありましたが、色々と所用があり、見に行けたのはかなり日数が経ってからになってしまいました。
そのせいか、残滓はあまり精彩がなく、辛うじて数枚つまんだだけとなってしまいました。 残念ですが、また半年後の特集を愉しみに待ちましょう。





■ Steve Noble / Ya Boo, Reel & Rumble  ( INCUS CD 06 )

英国の若いドラマー・パーカッショニストのスティーヴ・ノーブルと、こちらも若きリード奏者のアレックス・ワードのデュオによる作品。 1989、90年の録音です。
これはレコードがあったかなかったかが記憶が曖昧ですが、INCUSは90年頃を境にCDに発売を切り替えていているので、レコードはないかもしれません。

内側の写真を見ると、リードのアレックスはまだ十代のような幼い顔をしているので驚いてしまいます。 ここではクラリネットとアルトを吹いて
いますが、かなり控えめな演奏で、まだまだこれからの人だというのが伺えます。 同じく写真に写るスティーヴもまだ若々しい感じで、こんな2人が
こういう音楽をやっているんだから、フリージャズの流れはまだ脈々と受け継がれているんだな、と思います。

いろんな打楽器を使って脈絡なく叩いて音を出していく中をアルトやクラリネットが呼応するように細切れの音を出していく。 隙間が多く静かな雰囲気が
ずっと続いていきます。 最初はああまたか、という感じでしたが、しばらく聴き続けていくとなかなかどうして悪くないぞ、と思うようになります。
2人は対話をしているというよりは、2人で顔を前に向けて並んで歩きながら、互いにぽつりぽつりと何かを言っている、という風情です。
荒々しいだけがフリーではない、とでも言いたげな感じです。 


■ Cecil Taylor / Double Holy House  ( FMP CD 55 )

セシル・テイラーがFMPに録音するようになるのは1989年頃からで、多作家らしくおびただしい量の作品がありますが、なんせ数が多くて、おまけに
そのどれもが廃盤ときているもんだから、まだほとんど聴けていません。 

セシル・テイラーが1人でピアノ、詩の朗読、パーカッションをこなす内容で、1990年9月22日に朗読とパーカッションを先に録音し、翌日にピアノソロの
ライヴ録音を行ったもの。 コンサート中に前日のものを流したのか、それともCD化の際にオーヴァーダブしたのかは定かでありません。

朗読の声でピアノがよく聴こえない箇所もあったりしますが、それでもピアノのタッチは凛としていて素晴らしい。 ところどころでストックフレーズも
見られますが、若い頃の激しい勢いとはまた違った落ち着きと切れるような鋭さがあり、もう完全にこの人だけの音楽になっています。

ジミー・ライオンズがいた若い頃の荒々しい演奏もいいですが、近年の独特の透明感が漂う演奏はもっといい。 ピアニストとしての1つの極みが
間違いなくここにはあると思います。 もっとたくさん聴きたいですが、なかなか出回らないのが残念です。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界最高と言われた歌手

2015年08月23日 | Jazz LP (Vocal)

Tony Bennett / This Is All I Ask  ( Columbia CL 2056 )


音楽にはいろんな種類やスタイルがあるけど、結局のところ、最後に行き着くのは「歌」になる、というのは真実だと思います。
楽器というのは元々歌声の模倣品、代替品として始まっているし、その演奏は如何に「歌う」かで善し悪しが決まってくるもので、
人の素晴らしい歌声以上に感動させられるものは音楽の世界にはない。

そういう意味で、このトニー・ベネットは最高の歌声を持つ1人だろうと思います。 ベルカント唱法で最高のジャズを歌える唯一の人です。
絶頂期のオペラ歌手の歌声はグラスをも割る、と言いますが、この時代のトニー・ベネットもそうだったんじゃないでしょうか。
その圧倒的な声量がもちろんトレードマークですが、弱音部での情感の込め方も上手く、どこにも隙の無い歌い手だと思います。

それ以上に怖いのが、歌にはその人の人柄がそのまま出てしまうということです。 トニーの歌にはこの人の人柄の良さがそのまま出ていて、声量や上手さを
超えてそういうところに直感的に感動させられるのです。 これにはさすがのシナトラも「トニーが世界最高の歌手だ」と言わざるを得なかった。

彼のキャリアの最高の時期が上手い具合にレコードにたくさん残されていて、これはとてもラッキーなことだと思います。 ジャズの世界ではこのレーベルに
残された "Kind Of Blue" や "Time Out" の音の良さに話題が集中しがちですが、コロンビアがその音に最も注意を払ったのがこういうヴォーカル物だった
ことがこういうレコードを聴くとよくわかります。 トニーが絶唱するところではスピーカーが壊れるんじゃないかと思ってしまうような凄い音です。

このアルバムはジャズのインスト物では取り上げられない曲ばかりが収録されているのでジャズの中古屋ではまったく出回らない。
ラルフ・バーンズのオーケストラの豪華な演奏の中を自由に泳ぐようにトニー・ベネットが最高の歌声を聴かせます。 
この人はオーケストラをバックにした録音のほうがより素晴らしいです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【番外編】 渡欧後のバートン・グリーンとか、日本のレコード会社のこととか

2015年08月21日 | Free Jazz

Burton Greene / Celesphere  ( 仏 Futura Records / CBSソニー ECLP 10-FU )


渡欧後のバートン・グリーンを聴いてみたい、と先日書いたらその途端にこういうレコードが目の前に現れたりします。 誰かがこちらを見ているかのようで、
なんだか気持ちが悪い。 これはCBSソニーがかつで発売した国内盤で、1,600円でした。 仏 Futuraレーベルが原盤ですが、たぶんこの国内盤のほうが
レア度は高いような気がします。 だから、ちゃんと廃盤セールのコーナーに入っていた。 この夏の廃盤セールでの唯一の収穫です。

バートン・グリーンは主に電子ピアノを弾き、それにベースが寄り添ったデュオによる演奏です。 バートンは憂鬱な表情でポロンポロンと不可解で
元気のない音を鳴らし、ベースはギコギコとのこぎりを引くように異形の音を鳴らします。 終始ブルーでグルーミーな内容で、ESPでの演奏と同一人物の
ものとはとても思えません。 独特の雰囲気が漂う黄昏の音楽です。 

バートン・グリーンは渡欧後もコンスタントに作品を作っているようです。 これは渡欧後すぐの作品なので、まだあまり元気がないのかもしれません。
この後どうなっていくのか、気長に聴いていこうと思います。 


原盤は1970年、この国内盤は1971年にリリースされていますが、当時はちゃんとこういうのが日本盤として発売されていたんですね。
国境の境が無くなった現在は輸入盤はもはや輸入されたものという感じは消え、わざわざそれらを日本盤として出し直す意味がなくなっています。
だから今の新作は国内盤というものがほとんどなくなっていますが、じゃあ、日本のレコード会社は一体何をしているのでしょうか。

海外のレーベルが作った音盤を買ってきてただ化粧直しをして発売するだけでは、定額配信が当たり前になった現在ではもう存在意義はなくなります。
大きな資本を持つレコード会社にしかできないことをやればいいのに、と思うのですが、どこもやってくれないんでしょうか。

まだ陽の当たるところに出ていないアーティストを足を使って探し出して、彼が/彼女が一流になるまで育てるとか。
世界のどこかのマイナーレーベルで飼い殺されている才能あるアーティストを引き抜いて、もっと作品を発表する機会を与えるとか。
レコード会社の本来の使命はそういうところにあるはず。 過去の廃盤をリイシューするのはそれはそれで結構なことだとは思いますが、
もしかしてそれだけで終わってないでしょうか?

音楽の定額配信はレコード会社にとっては脅威でしょうが、それらは所詮既にあるものを提供しているだけの受け身の事業。 レコード会社はアーティストと
一緒になってまだどこにもない新しい音楽を創っていける創造的な仕事ができます。 マイルスだってモンクだって、そうやってレコード会社に育てて
もらったという側面があるわけです。 売上維持のための一部のマニア相手のリイシューはほどほどにして、現在のリアルな音楽やこれからの新しい音楽を
産み出していって欲しいです。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ESP が残してくれたもの (3)

2015年08月17日 | Free Jazz


■ New York Art Quartet  ( ESP 1004 / ESP CD 1004 )

ロズウェル・ラッド、ジョン・チカイの双頭リーダーによる室内楽的で実験音楽的な内容です。 やはり、白人とヨーロッパ人が組むとどうしてもこういう
内容になるんだなあ、と思います。 2曲目は詩の朗読だったりするし、全体的に停滞して澱んだ感じがします。 サックス奏者たちのリーダー作の中で
聴くと非常に大人しく感じるので、ESPレーベルの "MJQ" という印象です。

中にはチカイのサックスが唸る曲もあるのですが、全体的に内向的過ぎて、私はこういうのは苦手です。 聴いているこちら側へ何かが伝わってくるものが
感じられない。 フリージャズは観客を置き去りにして云々・・・、と言われることがありますが、この音楽は違う意味で聴いている人に背を向けているような
ところがあります。 そこに革新性があるということなのかもしれませんが、私の心には何も響くところがありません。 少し考え過ぎだったように思います。


■ Sunny Murray  ( ESP 1032 / ESP1032-2 )

2本のアルト、トランペット、そしてピアノレスという変則的なフォーマットですが、3管のせいかサウンドに厚みと重みがあり、とても聴き応えがあります。
また例によって、サニー・マレイがドラムを叩きながら低い声でずーっと "ウー、オー" と唸り続けています。 これと比べるとブレイキーの唸り声なんて
かわいいもんです。

サニー・マレイのリーダー作ということもあってドラムの音が1番目立つような演奏になっていますが、さほどうるさいところもありません。 この辺りの
フリーの音盤を聴いていて不思議に思うのは、どの音盤もドラムが他の楽器たちよりも大人しいな、ということです。 まあ、大抵が管楽器やピアノが
最大ボリュームで演奏されることが多いので、その中では大人しく聴こえるだけなのかもしれませんが、ドラムというのはリズムを刻まないと楽器としての
本来の持ち味が大きく損なわれてしまうものなのかもしれません。

サニー・マレイは数多くのフリーの現場に立ち会っているせいか、ここでの音楽にはかなりの貫録が漂います。 きっと誰よりも(音楽プロデューサーよりも)
耳は肥えていたはずで、無名の管楽器奏者らをうまくコントロールしていると思います。






■ Milford Graves / Percussion Ensemble with Sunny Morgan  ( ESP 1015 / Venus Records TKCZ-79132 )

ミルフォード・グレイヴスとサニー・モーガンの2人のドラマーによるデュオ録音。 ドラマー2人だけの録音ですよ、しかもそのドラムがリズムを拒否した
ドラム、というんだから、もはや言葉を失ってしまいます。 たぶん、フリージャズとしてはある意味究極の内容かもしれません。

フリージャズが既存のジャズのすべてを否定する音楽なのだとしたら、ここでは調(キー)を否定し、メロディーを否定し、和音を否定することで管楽器
やピアノやベースを否定し、自らもリズムを否定することを徹底しており、「4分33秒」の一歩手前まで近づいたと言えるかもしれません。
だからこそ、フリージャズ信奉者は彼を神棚に祀り上げるのかもしれない。 (これを「人類の至宝」だ、とまで言う人もいる)

が、正直な話、ここまでくると私には滑稽に思えます。 「子供が太鼓を好き勝手に叩いている」とまでは言わないにしても、あまりに毒気の抜けた
雰囲気に拍子抜けしてしまいます。 もっと呪術的でおどろおどろしいのかと思ったら、ドレッシングをかけずに食べるパサパサの野菜サラダのような
味気無さです。 そこにどれだけ芸術上の意味があったとしても、感動できなければ意味ないじゃないか、と思うのです。


■ Paul Bley Trio / Closer  ( ESP 1021 / Venus Records TKCZ-79128 )

1曲目の "Ida Lupino (アイダ・ルピノ)" はその名前は知らなくても、たぶん誰もがこのメロディーは知っているでしょう。 カーラ・ブレイが作曲した
名曲です。 ESPの音盤を聴いているはずなのに、と誰もが面喰う瞬間で、まるでキースの "マイ・バック・ページ" を聴いているかのようです。
この優美なメロディーを一筆書きのようにさらっと撫でて、2曲目からはゴツゴツとした無調の曲が始まります。

ただ、どれもおとなしい曲調で、聴きやすいものばかり。 ESPの中では一服の清涼剤のような印象があります。 どの曲も短いし、ポール・ブレイ自身は
素っ気ないほど淡泊にピアノを弾いています。 ベースのスティーヴ・スワローが対照的に熱心に弾いていて、トリオを補強しています。
甘美な美メロのピアノトリオに食傷気味の時に聴くと、すっきりとしていいかもしれません。

しかし、どうも全体的に音がよくありません。 ヴィーナスが復刻したこのESPのCDは全般的に音質は良好なのですが、このポール・ブレイや他のピアノの
音がくすんでいてザラザラとした感じでよくない。 レコードだとそんなことはないんでしょうか? 



ESPに録音されたこれらの作品は、その大半が演奏家のデビュー作、ないしはそれに近い時期の作品です。 そういう時期的なものもあるのかもしれませんが、
全体に共通して感じるのは、どれも「かなり急ごしらえで作られた音楽」だということです。 テイラー、オーネット、アイラーという3人の音楽が
アメリカに生まれて、それに感銘を受けた若い音楽家たちがそれらを熱心に研究し、自分たちもそれらを模倣することから始めたばかりのまだ柔らかい
状態のものを、たまたまタイミングが合ったので録音してみた、という感じがします。 もちろん、別にそれが悪いと言っているのではありません。
ただ、そういう印象を受ける、ということです。

ここになにかしらの「間章的」解釈を施すことは可能だと思いますが、そんなことよりもこの後彼らとその音楽がどうなっていったのかを見ていくこと
のほうが重要な気がします。 ミルフォード・グレイヴスは当時のフリージャズのことについて、それは「黒人差別をなくせ」「人権を保障しろ」という
公民権運動そのものだった、と言っていますが、それは実現したのでしょうか。 私はそれが知りたい。

ESPはアメリカのフリージャズの代名詞(古いですが)であることは今も変わりませんが、これを聴いたくらいで一端のフリージャズマニアだと思うのは
勘違いも甚だしい。 現在もフリーをやっている若者はたくさんいるわけで、50年前のこれらの音楽が現代にどう繋がってくるのかが知りたい。 

彼らはこの報われない音楽にその一生を捧げることを決意した人々です。 我々のような傍観者とは訳が違う。 愛好家として我々にできるのは、
彼らのことを忘れず、その作品を聴いていくことしかありません。 そして、彼らがやろうとしたことを少しでも理解しようと努めるしかないのです。

ESPが残してくれたこれらの音盤は、そう教えてくれます。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ESP が残してくれたもの (2)

2015年08月16日 | Free Jazz


■ Burton Greene Quartet  ( ESP-1024 / Venus Records TKCZ-79110 )

何となくグレン・グールドを思わせる風貌のバートン・グリーンはシカゴ出身のピアニストで、50年代はシカゴ周辺のローカルミュージシャンとして
アイラ・サリヴァンらと共演しながら過ごし、60年代に入るとニューヨークに出て、63年にアラン・シルヴァと "Free From Improvisation Ensemble"
という完全即興専門のグループを組み、65年にいきなりこのアルバムで表舞台に出てきました。

不協和音のブロックコードを壁に打ち付けるかのように鳴らし続けて行く演奏で、そこにマリオン・ブラウンやフランク・スミスらサックス陣が覆い被せて
いきます。 子供の頃にクラシックの専門教育をみっちり受けた人らしく演奏の中に楽理の匂いがしますが、当時のフリージャズ擁護派の評論家たちは
その破壊衝動の強さを褒める意見と黒人奏者たちの表現衝動との質的相違に嫌悪を示す意見に分かれたそうです。 私もどちらかと言えば頭でっかちな所が
あるなあという印象で、そういうところにカチンとくる人が出てくるのはわかるような気がします。 ただ、ESPに吹き込んだ黒人奏者らに共通するある種の
艶めかしさとは完全に異質な、硬派でスピード感のあるこの演奏にはそれなりにオリジナリティがあって素晴らしいとも思います。

1969年になるとバートンは完全に仕事が無くなったそうで、生活ができなくなったため欧州に渡り、それ以降アメリカには戻りませんでした。
渡欧してからのこの人の音楽は少し内容が変わったそうで、どんな音楽なのか聴いてみたいと思っています。 割と最近まで新作を出していたようですが、
まだご健在なのかどうかはわかりません。 ニューヨーク時代は白人ジャズマンということで色々と嫌な思いをしたようです。 フリージャズのような
特殊で狭い世界ではさぞや生き辛かったことでしょう。


■ Frank Wright Trio  ( ESP-1023 / Venus Records TKCZ-79133 )

クリーヴランドでR&Bバンドのエレクトリックベースを弾いていたのに、アイラーに出会ったおかげでベースを捨てて、テナーサックスでこうして
フリーをやるようになった、というんだから、アイラーが当時どういう感じだったかがよくわかります。

1965年のデビュー作がこれになりますが、アイラーをお手本にここまで来たのがよくわかる内容です。 ピアノレスのトリオが作りだす音楽は
意外にも落ち着いた風情があり、デビュー作の割には大人びているなあという好印象があります。 サックスの音が太くてそれでいてクセのあまりない
テナーらしい音で、楽器から出てくる音が良さが音楽にもいい影響を及ぼすという当たり前のことを実感させられます。

アイラーを踏まえながらもそのコピーにはならず、音楽の中にこの人独自の何かが明確にあり、なぜかスマートなところがあります。 これはこの人が
持って生まれたセンスなのかもしれません。 もちろん典型的なESPらしいフリージャズですが、他の演奏家の音盤には感じられない良さがあります。
これはなかなかいいと思いました。

この後も90年に亡くなるまでに数多くのビッグネームたちと共演を果たし、作品もコンスタントに出し続けたようなので、テナーに持ち替えたのは
この人にとっては良かったのかもしれません。 





■ Charles Tyler Ensemble  ( ESP-1029 / Venus Records TKCZ-79123 )

アイラーのエピゴーネンとしてこれ以上のアルバムは他にはないだろうと思える内容です。 レコーディングデビューがアイラーの "Bells" だった
ことからもわかるように、アイラーの取り巻きの一人だったことは間違いない。 もう出だしからアイラーがアルトを吹いているのかと錯覚するような
演奏で、楽曲もアイラーの曲を下敷きにしたようなものばかりで、ここまでアイラーに心酔した様子を録音したものは他にないんじゃないでしょうか。

チェロやヴィブラフォンを加えているので全体のサウンドはESPにしてはカラフルで厚みがあって工夫の跡が見られるし、演奏はしっかりしているので
よくできたフリージャズの作品に聴こえるんでしょうが、精神的にはアイラーから自立できていないようなところがあって、そこが引っかかります。

まあ、フリージャズ演奏家としてデビュー間もない時期なのでここは大目に見るべきで、この後の作品を聴いていくべきなんだろうと思います。
この人もこの後も作品を出し続けた人なので、そちらに本懐があるのかもしれません。


■ Gato Barbieri / In Seach Of The Mystery  ( ESP-1049 / Venus Records TKCZ-79114 )

一応これはガトー・バルビエリの公式デビュー作ということになりますが、これまでの他のミュージシャンとは違って、ここに来るまでのプロとしての
演奏歴の長さとその充実度は別格です。 だからここで聴かれる音楽は完全にこの人だけのオリジナリティで固められた素晴らしさがあります。

この人はフリー寄りの人という印象が一般的にはあるのかもしれませんが、私の印象は少し違います。 表面的には確かに攻撃的で激しい演奏ですが、
そのフレーズにはかなり濃厚な歌謡性があり、一般的なフリーがやる無調感とはこの部分において決定的な違いがあります。 そして、その歌謡性というのが
明らかに南米の音楽独特のそれであり、アルゼンチンタンゴなどと強烈に共有される雰囲気がこの人の音楽すべてを覆っている。

だから、この作品も全編に渡って激しく鋭いサックスが鳴り続けますが非常に聴きやすく、他のESPの音盤たちとは大きく距離を置いた毛色の違う、
そういう意味ではかなり異色の作品です。 また、そのサックスはとにかく上手くて、タイプは違うものの、エヴァン・パーカーやブランフォード・マルサリスを
聴いた時に感じる上手さと共通した上手さを感じます。 楽器のコントロール力の凄さが他の人とは違います。

だから、私はこの作品がとても好きです。 70年代の日本のジャズ喫茶的世界を席巻したおかげでコルトレーン、ガトーとその名前を聴くだけで拒否反応が
起きる人もいるのでしょうが、そういう体験をしていない私はこの人は天賦の才を持った素晴らしい音楽家だと思います。

これはレコードで買い直してもいいと思う1枚です。 ジャケットもかっこいいですしね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ESP が残してくれたもの (1)

2015年08月15日 | Free Jazz
ESP は1964年にブルックリンで弁護士だったバーナード・ストールマンによって設立されています。 ストールマンが1960年ごろに世界共通語である
エスペラント語をもっと普及させようという活動に携わっていたことがあり、その時の経験からレーベル名を Esperanto-Disk を略した "ESP-Disk"
という名前にしました。 

レコードのプロデュースや録音は1976年に物価の上昇に耐えきれずに終了しましたが、レーベル自体は今も存続していて、CDによる当時の音源の発売を
続けています。 ジャズ愛好家にはフリージャズ専門レーベルと思われているかもしれませんが、実際は少し違って、普通のレコード会社には相手にして
もらえないようなアンダーグラウンドな音楽全般を取り扱うレーベルです。 だからカタログの中にはロックやフォークなんかも当然ある。

音楽に限らず、こういうアンダーグラウンドなものというものはいつの時代にも常に存在していて、一定の支持を集めるものです。 つまり、それは誰の
内面にもどこかに必ずある、ある種の無意識の現れなんだろうと思います。 メジャーなものとマイナーなものは人の中では必ず混在して、その中のマイナーな
ものがある時何かの拍子に形となって目の前に現れる。 だから、人はなぜかはわからないけどそれらに惹かれるのです。 だから、こういうレーベルは
人々が音楽を創り、それを聴き続けて行く限り、もしかしたら永遠に無くならないのかもしれない。 

このレーベルに残された初期の作品群を聴いていると、ここにあるのはフリージャズにすらなれなかった未成熟でまだ柔らかく幼い意識の痕跡だったんだな、
ということがわかります。 この音楽の前では、フリージャズはもはや陽の当たるところに眩しくそびえ立つ高層ビルのようです。 
この数ヶ月、DUで意識的にESPのディスクを拾っていって、こうしてある程度まとめて聴いてみると、一般的に"フリージャズ"の一言で語られるこれらの
音楽への印象は、自分の中で大きく変わっていくのがわかりました。




■ Marion Brown Quartet  ( ESP-1022 / Venus Records TKCZ-79106 )

1曲目の "カプリコーン・ムーン" を聴けばわかるように、これはフリージャズではなく、ハードバップ末期にニュー・ジャズという言葉で呼ばれた
普通のジャズで、プレスティッジの New Jazz シリーズで録音されていてもおかしくない内容です。 マリオン・ブラウンのアルトもドルフィーのように
柔軟性の高い音。 カリプソ音楽を取り入れた、楽曲としてもいい作品です。 ただ、全体のアンサンブルは独自の新しい響きを志向していて、
ニュー・ジャズプラスαとなっているのは見事です。 ベースのソロを上手く使っており、ダークな雰囲気も漂い、音楽的にとても優れたアルバムに
なっています。

ピアノレスなので楽曲に余計な色がついておらず、聴き手によっていろんな感想がありえるところがいいと思います。 トランペットで参加している
Alan Shorterはウェイン・ショーターのお兄さんですが、マリオンをうまくサポートしています。 ESPからではなく他のレーベルから出ていれば、
もっと多くの人に聴いてもらえただろうに、勿体ないところです。 もう少しこの人のディスクを聴いてみたいと思います。


■ Sonny Simmons / Staying On The Watch  ( ESP-1030 / Venus Records TKCZ-79117 )

かなり音のしっかりと鳴るアルト奏者で、聴いているとすぐにオーネットやアイラーをお手本にしてここまで来たんだなということがわかります。
そういう意味では判りやすい演奏家です。 聴いていて何が出てくるかわからないということがない分、安心して聴いていられます。

この人の奥さんが吹くトランペットやジョン・ヒックスのピアノを加えたクインテットですが、このジョン・ヒックスがモードが抜けきらないピアノを
弾いているし、楽曲自体も最初にテーマ部があって2管が揃って演奏するなど、各楽器の演奏はかなり気合いの入ったフリースタイルにも関わらず、
形式的にはまだハードバップを引きずっているところがあり、全体的にはちぐはぐな感じがします。 

バーバラ・ドナルドのトランペットが非常にエッジの立った音で空間を切り裂くような演奏をしているのに驚かされます。 私は常々トランペットで
フリージャズをやるのは難しいじゃないかと思っているのですが、そんなこちらの杞憂を振り払うかのような鋭い演奏です。 ただ、全体的には
結束力の強い演奏で、どの楽器も大きな音を出しているので、聴いている間はかなり圧倒されます。 とにかく力強い演奏です。





■ Noah Howard Quartet  ( ESP-1031 / Venus Records TKCZ-79131 )

ピアノレスによるアルト、トランペットの2管カルテットで、ノア・ハワードのデビュー作です。 13歳のころから当時のアヴァンギャルトの先鋒たちの
中で揉まれて育ったそうで、そういうやんちゃ坊主の面影がまだ残る23歳の時の演奏です。 基本的にはこの時期にフリー系の人なら誰もがやるような
音楽をやっていて、特にこの人にだけ見られるような際立った個性はまだ見られません。

そもそも、ここでの演奏にはかなり未熟なところがあります。 サックスの演奏自体もそうだし、演っている音楽自体もかなり稚拙です。
私にはそういうところが結構耳について、あまり音楽に集中できないところがあります。 フリーというのは一見でたらめな演奏をしているようでいて、
実はそうではないのだということがこういうのを聴くとよくわかるわけです。 まあ、まだまだ若造だったんですね。

この人はこのESP録音以降も長く演奏や録音を続けることができた珍しい人で、70年代にはフランスへ渡り、数多くの現地の演奏家と共演も果たして
います。 そういう壮年期の演奏はまだ聴いたことがないので、いづれは聴いてみようと思います。 この元気な坊やがどういう姿になっているのか、
興味深いところです。


■ The Byron Allen Trio  ( ESP-1005 / Venus Records TKCZ-79115 )

今回のESP猟盤の中で私が最も感心した演奏がこれでした。 ESPを立ち上げたばかりの頃、オーネット・コールマンがストールマンのところに連れてきた
無名の若者が、このバイロン・アレンというアルト奏者だったそうです。 アルト、パーカッション、ベースのトリオ編成で録音されています。

チャーリー・パーカーの影響がまだくっきりと残っている若々しくきれいな音でアルトが鳴っているのがまず耳につきますが、そのうちにこの演奏が
とても強い知性でコントロールされているのがわかってきます。 その知性はこのESPの中の他のミュージシャンには見られないようなタイプのものです。

また、本人のアルトも必要最小限なだけを吹いて、あとはベースやドラムへ大きくスペースを割いて、彼らに自由に演奏させているのです。 上記の3枚
などは、どれも管楽器が我が我がという風にとにかく吹きまくっているのですが、そういうのとはまったく対照的な内容に驚きます。 かといって、
小さくまとまったところはなく、十分に尖っていて、且つそれまでにはなかったような斬新な響きを持っています。 これは、ちょっとした傑作です。

ただ残念なことに、この人はこの1作だけを残し、姿を消してしまいます。 理由はよくわかりません。 レコードを作らなかっただけで、
演奏はしばらくやっていたのかもしれませんが、そういう一切の情報がわからないのです。 こういうのはフリージャズのミュージシャンには珍しくない
ことではありますが、この作品の出来の良さを思うとこれは残念でなりません。

聴き終った後に残る余韻の中で、私はなぜか自然とポール・デズモンドを思い出していました。 音楽的には似ても似つかぬもの同士ですが、その中には
何か共通するものが感じられるのです。 これはレコードで買い直してもいいかな、と思っています。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅の途中

2015年08月13日 | Jazz LP (Verve)

Stan Getz with Guest Artist Laurindo Almeida  ( Verve V-8665 )


スタン・ゲッツのサンバ/ボサノヴァシリーズの中では、これがダントツで好きです。 月並みですが、不思議と夏によく似合う音楽であることは間違いなく、
この時期には頻繁に聴きます。 私はジョアン・ジルベルトが大嫌いなので(気持ちが悪い)、例のイパネマのほうはまったく聴きません。
ジルベルトもジョビンもアルメイダも、ゲッツがボサノヴァのことがまったくわかっていないと貶していたようですが、別にゲッツはボサノヴァのレコードが
作りたかった訳じゃないんだ、何言ってやがる、と思います。

このアルバムに収録された曲はどれも非常にカッコよくて、他のアルバムとは明らかに雰囲気が違います。 1曲目の "Menina Moca" のスマートさと
メロディーの素晴らしさは特に群を抜いていて、このアルバムが他の同系列ものとはちょっと違うぞ、というのがすぐにわかります。 そして、あとは
もう最後まで圧倒されっぱなしで聴き終えてしまうのです。

アメリカという国のラテン諸国と隣接しているという地理的特徴は否が応でもこの国のあらゆる所に深く影を落としていて、音楽にもそれは顕著でした。
ローリンド・アルメイダも早くからパシフィック・ジャズに録音をしていますが、それらはどれもあまり冴えない内容で、もしこれだけで終わっていたら
その名前はとうに忘れられていたかもしれません。 でも、このアルバムでの輝き方はまるで別人で、それはスタン・ゲッツの作りだした音楽の雄大さの
おかげであることは間違いない。

ゲッツがこの時期にボサノヴァに近づいたのは偶然でも何でもなくて、行き詰ってしまった当時のジャズに何とかして風穴を開けようとした彼なりの模索の
一つでした。 フリージャズにではなく、南米の音楽の中にその可能性がないかを探ったのです。 でも、コマーシャルな成功を得ただけでそれ以上のものが
何もないのがわかると、さっさと次の段階へと移ってしまいます。 そういう何かを探して旅するこの時期のゲッツの足跡を追っていくのは、とても重要な
ことに思えます。 みんなが同じことをやっていた50年代とは違い、60年代はこうして誰もが何かを探していろんなことをやりながら旅をしていた。
だから、60年代のジャズを聴くというのは音楽家のそういう姿を見るということなのであって、ただ単に耳あたりの良さだけを求めて終わるのだとしたら、
それは如何にこの音楽から遠い所にいただけだったのか、ということになってしまいます。

実際に共演したことがある人によると、スタン・ゲッツのサックスの音はピアニッシモからフォルテッシモに至るまでものすごく大きくて、他のサックス
奏者とはそのスケールの大きさが桁違いだったそうです。 ゲッツのそういう実像を本当の意味でリアルに録音できたのはクリード・テイラーが初めて
でした。 それまでのゲッツのレコードはサックスの繊細さや溢れる歌心は録れていたけど、そういうすべてを飲み込むようなビッグトーンをきちんと
録ったのはクリード・テイラーの時代からです。 だから、この時代のレコードにはそれまでの時代のレコード以上の価値が本当はあるのだと思います。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

慎ましい生き方

2015年08月09日 | Jazz LP (Trend / Kapp)

Matt Dennis / Plays And Sings  ( Trend TL-1500 )


アメリカの音楽界ではとてもいい曲をたくさん作っているうちに有名アーティストの目に留まって取り上げられるようになって、やがては自身も
歌手として表舞台に立つようになるタイプの人がいます。 例えばスティーヴン・ビショップやカーラ・ボノフなんかがそれに該当しますが、
ジャズの世界でのこのマット・デニスこそがそういうタイプの先駆けだったのかもしれません。豊かな音楽の才能があるにも関わらず表現者
としての欲はあまりなくて、愛情込めて創った作品を控えめに発表できればそれで十分、という慎ましい生き方です。

1940年代にトミー・ドーシー楽団にアレンジャー兼作曲家として雇われますが、その時のこの楽団の専属歌手がフランク・シナトラで、
2人はここで仲良くなります。 この楽団のために書いた "Everything Happens To Me" をシナトラが歌って大ヒットし、それ以来、シナトラは
マット・デニスの曲たちを生涯に渡って愛唱するようになります。 そのおかげで、マット・デニスの名前は有名になりました。 
SP時代に単発でレコードはぼちぼち作られていましたが、1953年にTRENDレーベルから自身名義の初のアルバムを出したのがこのレコードです。

このトレンドというレーベルは1953年にロスで設立されて、音楽監督にはデイヴ・ペルが就任しました。その影響もあって、このレーベルは
デイヴ・ペルをはじめ、ジェリー・フィールディング、クロード・ソーンヒル、ジョン・グラースやボーカルではベティ・ベネット、
ルーシー・アン・ポーク、ハイ・ローズなどの白人ミュージシャンによる趣味の良い音楽が録音されて、当時から通には評判がよかったのですが
ヒット作に恵まれず、1955年の春にあっけなく倒産してしまいます。 ただ、録音資産が優良だったため、1956年2月に KAPP Records が
これを買取り、そのカタログは KAPPレーベルとして再度プレスされて発売されました。 でも、このレーベルも1957年12月に活動停止して
しまいます。

マット・デニスはその後はTops、Jubilee、RCAなどからアルバムを出しますが、内容的にはこのファーストアルバムが自身の代表曲の全てが
詰まっていることもあり、一番この人らしい音楽が聴けます。 ロスの小さなクラブ "Tally-Ho" での弾き語りライヴですが、そのこなれた演奏と
歌には相当な年季を感じます。 マットの歌声は声量はないし、ビブラートをかけているのかただ震えているだけなのかよくわからないし、
とお世辞にも上手い歌い手とはいえませんが、十分なペーソスを感じさせるところがあり、二枚目的な声質のせいもあって、一度聴くと忘れ難い
余韻と記憶が残ります。 

しかし、管楽器のインストものが "Will You Still Be Mine" や "Junior And Julie" を取り上げてこなかったのはなぜなんだろう? 
シナトラがあまり歌わなかったせいなのかもしれませんが、いつも不思議に思います。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週の成果

2015年08月08日 | Jazz CD
もはや人間が暮らす環境じゃなくなってきてるんじゃないか?と思えるような灼熱の中、それでもDUに猟盤に行きました。 好きなことには際限というものが
ないもんです。 ようやく今週はいくつかつまめました。 よかった、よかった。




■ Art Ensemble Of Chicago / People in Sorrow  ( Pathe / 東芝EMI CJ32-5013 )

これは長らく探していたもので、ようやく見つかりました。 CDで欲しかったので、よく見かける初版レコードは全て見送っての邂逅です。

アメリカでの無理解さに耐えられず、家財道具の全てを売り払って旅費を工面し、決死の覚悟でフランスに渡ったメンバーたちの想いが詰まったところが
よくわかる内容です。 のちの精神的に安定した中で生み出された作品には見られない、静かに悲しみを見つめているような目線を感じます。

それは抽象的なものではなく、つまり原罪の悲しみというようなものではなく、状況としての悲しみの中に置かれたものを静かに見つめる視線で、
自分たちのことをも当然そこには重ねているのかもしれません。 奇をてらった仕掛けは何もなく、ただ静かに、言葉少なく音楽として語られています。

普段は奇抜な見かけや恰好で武装している彼らが、実はその底辺に隠しているあまり人には見せない心の震えのようなものだけで出来上がった音楽で、
ヨーロッパの人々はそれをきちんと受け止めてくれたわけです。 芸術を理解するという態度がどれほど大切なことかがよくわかります。
我々も常にこうでありたいです。 

日本での発売当時、「苦悩の人々」と訳されたのは時代を感じるなあと思います。 この音楽から感じるのは少し違うニュアンスです。
それにくどいようですが、これはフリージャズなんかじゃありません。 


■ Globe Unity Special '75 / Rumbling  ( FMP CD 40 )

グローヴ・ユニティが1975年にベルリンで行ったライヴを翌年FMPが2枚のアルバムに分けて発売していたものを1991年に1枚に纏めて発売したCDです。
彼らの古い音源は稀少廃盤になっていて入手が難しい。 これも3,000円と高かったです。

シュリッペンバッハがこのユニットを組んだのが1966年。 そこから10年近く経った時期のものです。 まだこの前後の作品を聴けていないので、
これだけでいろんなことを決めつけるのは拙速なのですが、それでもこの作品を聴くだけでもいろんなことを感じることができます。

シュリッペンバッハがこのユニットでやりたかったのは、既成の音楽を破壊しようというようなことではないのは明らかです。 1966年の時点で
既にそれは壊れていたわけで、シュリッペンバッハがそのことに気付いていなかったはずがない。 集団によるフリーインプロで個人の破壊力の限界を
超えようとしたのではなく、おそらく個々人では難しい再構築への課題を集まることによって解決していこうとしたのではないでしょうか。 
この内容を先入観抜きにして聴いた限りでは、そのように思えます。

ただ、集団になることでいくつかの制約事項も出てくるわけで、大物リード奏者たちが集まることでどことなく窮屈さを彼らが感じているような
ところがあります。 これを聴いていてすぐに思い浮かぶ映像は、狭い湯船の中に大勢の大人の男たちがギュウギュウ詰めになっている様子です。
中には早々にそこから出て行ってしまう人もいるのですが、すぐに別の誰かがやってきて湯船は人で溢れかえってしまう。

このユニットは常設だったわけではないようで、不定期にみんなが集まり、その時点での各々の最新の状況を持ち寄って演奏していたようなので、
できれば順を追って一通り聴いてみたいと思っているのですが、なかなか初期の音盤は入手が難しそうで、少し時間がかかりそうです。
もう少したくさん聴いてみて、感想を深めたいところです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3つの禁句は封印して

2015年08月02日 | Jazz LP (Europe)

Rolf Kuhn / Solarius  ( 東独 Amiga 8 50 046 )


このアルバムを語る際に使われる3つの定型キーワードが「コルトレーンを消化したクラリネット」「モードジャズ」「フリー前夜」。
誰が言い出したのかはわかりませんがよほど気に入られたようで、このデッドコピーが出回っていますが、私にはこれは的外れに思えます。
無機質なジャケットデザインの印象がそういうイメージをより補強するだろうし、彼らのその後のキャリアに関する知識がそういう先入観を助長している
のはよくわかりますが、このキーワードはこれをまだ聴いたことがない人をミスリードしてしまうので、封印するほうがいい。

ここでやっている音楽は、完全にブルーノートの4000番台前半のマイナーキーのモダンジャズ。 ただ、ヨーロッパの白人の演奏なので黒人のブルース感が
まったくなく、そこがぴったりとブルーノートに重なることが無いので、そのズレた部分に欧州らしさを感じてアメリカ音楽にはない新しさを覚える。 
だから、これを聴いていいと感じないジャズ愛好家はいないはずです。 殆どの曲がマイナーキーなので強い哀感が漂い、夜の雰囲気が濃厚だから、
ジャズファンが喜ばないわけがない。 なので、私もこのアルバムがとても好きです。 ジャズの一番おいしいところがわかりやすく集約されている。

曲が普通のモダンジャズなのにピアノのヨアヒム・キューンがブルーノート・スケールを殆ど弾かないものだから、そこに普通のジャズにはない雰囲気が
出ていて、これがモードとかフリーという言葉を連想させるんでしょう。 また、ロルフ・キューンのクラリネットにはコルトレーンの影などはなく、
どちらかと言えばエリック・ドルフィーを連想させる吹き方をしています。 従来のクラリネットの吹き方ではなく、サックスのような吹き方をしている。
コルトレーンを連想させるのはロルフではなく、ミヒャエル・ウルバニャクのソプラノ・サックスのほうです。 ロルフ・キューンはアメリカでのジャズ修行で
得たものをそのまま披露しているにすぎず、ここでの実質的な音楽監督はヨアヒム・キューンだったんだろうと思います。


ドイツは他の欧州諸国とは違って植民地経営を殆どしなかった国なので、異文化流入のないまま純血的で閉鎖的な環境が長く続き、文化的には
極めて保守的でした。 それはクラシック音楽にはとてもいい作用を及ぼしていて、バッハの時代から流れるクラシック音楽の神髄のようなものが
まったく汚れることなく現代まで保存されてきた、いわば総本山になっていますが、ジャズやロックのようなポピュラー音楽には大きな逆風でした。
特に東ドイツはゆるい共産主義体制だったとはいえ、個人所有は排除されて多くのものが国有化・公共化されていたため、人々の文化的モチベーションは
総じて低く、60年代初頭でもジャズ・ミュージシャンはダンス音楽を演奏しなければ生きていけない有様でした。 だから、50年代後半から60年代初頭に
かけて多くの若者や文化人がベルリン経由で西側に流出したわけで、その中にロルフ・キューンも混ざっていたのです。

この知識の国外流出が社会問題となり、国内への締め付けが緩和されるようになってロルフはアメリカから戻ってきます。 そして制作したのがこのアルバムです。
もし時の政府がこの緩和を行っていなければこのアルバムは産まれることはなかったでしょうから、たかが一介のポピュラー音楽のこととはいえ、
その背景にはいろんなことの積み重ねがあってのことなんだなと思うと、このアルバムにもそれなりの重みのようなものを感じとることができます。


この Amiga というレーベルは東ドイツの唯一の国営レコード会社であった VEB Deutsche Schallplatten Berlin のポピュラー音楽部門のレーベル名で、
このレコード会社のレーベルのメインはもちろんクラシック部門の Eterna でした。 この "Solarius" は1964年11月の録音なので、オリジナルのマスターは
ステレオ録音だったはずですが、ステレオ盤は見たことがありません。 看板だったエテルナレーベルのほうは早くからステレオ盤を発売していましたが、
脇役のこちらはステレオ盤の発売まではしてくれなかったのかもしれません。 このレコード会社のモノづくりはとても優秀でクオリティーが高く、
エテルナのステレオ盤は総じて音質がとてもいいので、この "Solarius" のステレオプレスが出ていればきっと目の覚めるようないい音が聴けたでしょう。
ただ、このモノラルプレスもダイナミックレンジは狭いながらも十分にいい音で、特にベースの音が大きく綺麗に録れているので、これが夜の雰囲気を
作りだすのに大きく貢献しています。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ECM祭り

2015年08月01日 | ECM
今週もCDの成果はなし。 予想通りとはいえ、常軌を逸した猛暑の中、足を運んだ身としてはつらいものがありました。 ならばレコードは、と覗いて
みましたが、こちらもものの見事に空振りです。 暑さが引くまで猟盤はやめるか、と思ってしまいます。

先週の記事で頂いたコメントでキースのサンベアの話があったので何気なくヤフオクを見ていたら、西独盤が出ていました。 で、冗談半分で安めに
札入れしたら、あっけなく落ちてしまいました、4,000円で・・・・。 そして、あっという間に郵送されて来てしまいました。
なんだか、ECMのレコードの方から笛や太鼓を鳴らしてうちに一方的に押しかけて来るような威圧感です。 まずいなあ、こういうの。



Keith Jarrett / Sun Bear Concerts  ( 西独 ECM 1100 )

相場感がさっぱりわかりませんが、それでもおそらく出品された方の想定とは全然違う値段だったんじゃないかと思います。 何だか、申し訳ない。
それにこんなにごついレコードというもの想定外で、思わずたじろいてしまいます。

そうは言ってもやって来たわけなので、気を取り直して、手始めに札幌の演奏を聴いてみました。 ことのきっかけは例のレコーディングエンジニア
問題でしたので、音質チェックが最優先事項です。 

結論から言うと、音質は良好です。 まあ、ケルンの音場感には遠く及ばないものの、ECMのブランド価値を毀損することのない、十分な録音です。
セシル・テイラーもせめてこれくらいの録音だったら、と思わずにはいられません。 こうしてみると、やはりエンジニアの手腕よりもレーベルポリシー
の方が上回るということなんだろうと思います。 RVGだって、サヴォイとブルーノートでは音がまったく違います。

ECMとライセンス契約をしていたトリオはECMの新譜を日本で発売する際は、まずテストプレスを作成してECM社へ送り、それをマンフレート・アイヒャーが
実際に聴いて、彼の合格が出るまでは日本での発売が出来なかったと言います。 だから、必要以上に録音技師を神格化することはないんだろうと思います。

この作品は日本での発売のほうが本国よりも早かったし、音質も日本盤のほうが幾分いいらしいので、日本のトリオ盤がオリジナルと言っていいのでは
ないかという話もあるようですが、私はそうは思いません。 発売時期が早かったのは日本でマスターテープが作成されたからだろうし、音のいいほうが
オリジナル、というのは根本的におかしな話です。 

10枚組の大作なので、もうすぐやってくる夏休みにじっくり堪能したいと思います。 内容の感想はそれまでおあずけです。


馴染みの新宿や御茶ノ水が空振りだったのでキースのECM盤が他にないかと調べてみると、高田馬場店に "Staircase" の西独盤があることがわかったので、
行ってみました。 ここに行くのは初めてで、特にジャズに力を入れているわけでもない総合ジャンルのこじんまりとした店舗ですが、中はきれいで
清潔感のあるフロアでした。



Keith Jarrett / Staircase  ( 西独 ECM 1090/91 )

ケルンの翌年(76年)にスタジオ録音されたソロ。 このレコードを聴いて驚かされるのは録音の良さもさることながら、ピアノの音が綺麗なこと。
ここまで録音がいいと各楽器毎の音の個性が手に取るようにわかりますが、ここで使われているピアノが純度の高い怖ろしく高貴な音で鳴っている
のに耳が奪われます。

楽器を弾く演奏者にとって、楽器そのものが出してくれる音の良し悪しというのは最も大事なことです。 だから、演奏者は常により良い楽器を探す
ものですが、ここまで美しいピアノの音を聴くのはレコードでは初めてです。 一体、どんなピアノだったんでしょう、できれば一度弾いてみたい。

あまりに綺麗な音鳴りなので、キースはメロディーを産み出すことよりも音の響きそのものを追いかけることに夢中になっているような気がします。
だからケルンのようなわかりやすいメロディーを弾くのではなく、粉雪がキラキラと舞うかのように美しいピアノの音が舞うように弾いています。

そのせいか、ジャズピアノというよりもクラシック音楽のような質感で、クラウディオ・アラウのフィリップス録音のような音鳴りです。
以前、キースが弾いたバッハの平均律やモーツァルトのコンチェルトをCDで聴いて「これじゃクラシック音楽とはとても言えないな」と思いましたが、
もう一度(レコードがあるなら、できればレコードで)聴き直してみようかな、と思わせるようなところがあります。

この数週間、奇しくもキースのECM盤をやたらとたくさん聴くハメになってしまいました。 私はキースの「自分は創造の神の神託の受け皿だ」とか
言うようなところがどうも好きにはなれないのですが、それでもこの録音の優秀さでその名を轟かすレーベルと稀代の演奏家のレコードは、
ピアノという楽器とその周辺にまつわるいろんなことを久し振りにあれこれ考えさせてくれるものでした。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする