廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

カツオドリがカモメに見える不思議

2020年08月12日 | ECM

Chick Corea / Return To Forever  ( 西独 ECM 1022 )


盛夏がやってきて、空が青くて気持ちがいい。そういう空の色を眺めていると、短絡的だが、このアルバムを思い出す。ECMの一般的なイメージに反して、
このアルバムは夏になると聴きたくなる。「いまさら盤」の代表のようなアルバムだが、この時期を逃すと掲載する気も失せてしまうので、書いてみよう。

冷静に考えると、これは不思議な音楽だ。よく聴くと、如何にも70年代のジャズらしく、かなり混濁した音楽が展開されている。エレピのフレーズは
お世辞にも美しいとは言えず、時代の垢に塗れている。ベースも無軌道な早弾きをまき散らす。フルートの音は痩せていて弱々しく、あってもなくても
どちらでもいいような感じだ。ヴォーカルに至ってはおばさんのカラオケの域を出ていない。個々の要素を客観的に見れば、そういう感じだ。

にもかかわらず、それらが総体として集まった結果、不思議な爽快感へと昇華されているのだ。個々の弱点みたいなものが良い方へと裏返って、
なぜかさほど目立たない。これが不思議なのだ。

全編がエレピで統一されていることが直接の要因ではある。この音の輪郭の曖昧な楽器が、濁って混迷した泥臭さをうまくコーティングしているし、
フルートの音色や女性の声質が柔らかく優しい雰囲気で全体を中和していることもある。この音楽の核になっている70年代的蒸し暑苦しさと、
それらとは真逆の芳香を放つ優美さを対峙させることで、何かそれまでにはなかった新しい独特のものが奇跡的に出来上がっている。

チックがどこまで意識的に仕掛けたことなのかはよくわからないけれど、この音楽の中核に隠れている泥臭さが何より重要なのは間違いない。
これがなければ、ただの表層的な娯楽的音楽で終わっていただろう。

録音はニューヨークのスタジオで、通常のECMの冷たく澄んだ音質とは異なる。薄霞がほんのりとかかったようなところがあり、そのサウンドは
ちょっと独特な質感がある。こういうところもECMの他のアルバムとは距離を置いたユニークさがある。

チックはキース同様、美しいメロディーを書く人だが、彼の美メロはいつもその全容が披露されず、フレーズの大波に揉まれる中でチラリとしか
その姿の一部を見せないもどかしさがある。そういうところはモーツァルトなんかとよく似ていて、それが聴き手の興味をより掻き立てることにも
繋がっているけれど、このアルバムでもそういうところがとても顕著だ。

そういう様々な要素が重なり合って、このアルバムは出来上がっている。そして、ただの爽やかな音楽ではないなと意識の水面下ではぼんやりと
感じさせながらも、そういう実際の複雑さを聴き手に必要以上に考えさせないように聴かせるところに、このアルバムが大ヒット作となった所以が
あるのだろう。無軌道に崩壊したジャズ界に突如現れた、という時代背景だけでこのアルバムの魅力を語るのは不十分。ジャケット写真に映った
カツオドリがなぜカモメに見えるのか、を考えるのは重要なことに思える。


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結局、みんなこれが好き

2020年07月24日 | ECM

Keith Jarrett / My Song  ( 独 ECM 1115 )


このアルバムをオスロのスタジオで録音した頃は、並行して "Byablue" や "Bop-Be" をニューヨークで録音していて、叙情派の側面が作品に色濃く
出始めた時期だった。特に、ECMの方はガルバレクという傑出したサックス奏者のおかげで、そういう要素が前面に表出して、1つの完成形に至っている。

キースのソロ演奏、特に観客を前にしたソロ・コンサートを聴いていると、フレーズの随所に美メロの断片が出てきて、あれがストック・フレーズなのか、
それともその場で天から降って来たメロディーだったのかはよくわからないにせよ、これだけメロディーに溢れた音楽をやる人なら、このアルバムのような
作品が生まれてくるのは当然だろうと思う。1つの断片、例えばここでは表題曲のメロディー、を核にそれを増幅して1枚のアルバムにしたような印象がある。

ここまで可憐なメロディーをいい歳した大人が真面目にやるなんて、と気恥しい気分を覚えながらも、頭の中でリフレインするんだからこればかりは仕方ない。
2006年に出したカーネギー・ホールでのコンサートでアンコールにこの曲をやった際の観客の反応でもわかるように、結局、みんなから愛されているのだ。
これはそういうアルバムだ。

如何にも北欧を想わせる冷たく澄みきった空気感という印象でコーティングされているけれど、ECMは基本的には難解な部類のジャズをやっている
レーベルで、本来ならごく限られた人だけが聴くような作品群だったはずだけど、このアルバムに代表される真逆の音楽がヒットすることで幅広く
支持されるようになったのはこのレーベルにとっても、ジャズ界にとっても幸運だったわけで、それはひとえにキース・ジャレットのおかげだろう。
この人がいなければ、ジャズという音楽はマーケット的にはもう少しニッチな音楽になっていたかもしれない。


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短信 ECM 1

2018年11月07日 | ECM

Keith Jarrett / Facing you  ( 独 ECM 1017 ST )



現在も忘れかけた頃に新譜 (新作、ではない) がリリースされるけれど、どうも手に取る気になれず、どれも聴かず仕舞いのまま。

ガッカリするのが嫌なのかもしれない。 もう終わったんだ、という事実を再確認するのはやっぱり辛いから。

元気のないキースは聴きたくない。 だから、これを聴く。

はっきり言って、出来は良くない。 ECMの完オリにもかかわらず、音も冴えない。 まあ、50年近く前の録音だ、しかたない。

でも、それでも、どうせ聴くんだったらこちらを聴く。 

ここには元気なキースがいるから。 今はそれが他の何にも代え難い。


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バッハへの想い

2018年07月28日 | ECM

Keith Jarrett / Paris Concert  ( 独 ECM Records 1401 )


結局のところ、私が一番好きなキースのソロ・ピアノはこれのようだ。 代名詞であるケルンはやっぱり全然聴かなくなっている。 あれはもういい。

収録時間の半分以上を占める冒頭の "October 17, 1988" はその場の即興というよりは、事前に準備されたモチーフだったのではないだろうか。
これはどこからどう聴いても、バッハの架空のクラヴィーアのための近代的変奏曲だ。 この後、バッハの平均律やゴールドベルグ、フランス組曲などを
録音しているので、当時は四六時中バッハのことを考えていたのだろう。 肝心のバッハの録音の方はつまらない演奏だったが、このアルバムの
疑似バッハは筆舌に尽くし難い圧巻の出来だ。 演奏が終わった後の観客の熱狂の様子はヤバい感じで、誰か失神者が出ていてもおかしくない。
人間、よほどのことがない限り、こんなに激しく拍手することはないだろうから。 祈りのような音楽に人々が感動している様子が生々しい。

一筆書きのような "The Wind" も素晴らしい名曲で、タイトルが示す通りのアメリカの広大な自然の匂いが立ち昇る様子に、パリの聴衆は我を忘れて
聴き入り、演奏後は絶叫するかのような感激ぶりだ。 その気持ちはよくわかる。

そして、それらの熱狂を冷ますかのように最後に置かれた短い即興のブルースで締め括られる。 これで聴衆たちは酔いから覚めて、無事帰宅できただろう。
構成もよく出来ている。

若い頃の力で聴く者をねじ伏せるようなところは後退し、純粋に音楽を聴かせようというこの顕著な変化はスタンダーズの経験から来るものだろう。
そういう意味ではキースと観客の関係はケルンやブレーメンの頃とは大きく異なっている。 そして、そういう変化が音楽そのものをも変えていったように思う。
今となっては、心身ともに元気で、尚且つ音楽的に成熟した80年代がこの人のピーク期だったんだなあと切ない気持ちで振り返るしかないのは残念だ。


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いつの間にか最後の難関に

2017年01月04日 | ECM

Ralph Towner / Diary  ( 西独 ECM 1032 ST )


意外に難しかったぞ、ダイアリー。 一番手こずったなあ。 いつの間にか最後の難関と化していたけれど、ようやく初版にぶつかった。
探し出して1年半くらい経っている。 その間にセカンド・プレスは2~3度見かけたけれど、1000番台前半は初版とそれ以降では音が違うからなあ。
毎年12月は安レコがどかっ、と出てくるのだが、その中に混ざっていた。 

ECMのラルフ・タウナーはほとんど聴くことができた。 私にとってのタウナーの元々のイメージは "Solo Concert" や "Anthem" のような
変則アコースティックギター1本で音楽を奏でる人という単純なものだったけれど、こうしてきちんと聴いてみるともっと大きく拡がった世界だったんだ、
ということを知ることになった。 マルチ奏者だったなんて知らなかったし、ピアノの演奏もなかなか聴かせる。

この作品はECM参加後の第2作目ということで、後の完成された様式へ至る過程にある内容なんだなあということがよくわかる。 タウナーが敬愛する
エヴァンスの例になぞらえると、"Everybody Digs" のような感じと言えるかもしれない。 今までの自分とこれからの自分がちょうど出会い、
混在しているようなところがある。 もちろん、それはその後の彼の作品を知っている私が流れを遡って聴いているから感じることではあるけれど、
当時のECMに出入りしていたアーティストたちが未知の領域への模索をしていた姿を十分に意識しながらも、自身のルーツ・ミュージックを振り切れずに
いるアンビバレンツな状況がしっかりと記録されていると思う。 ただ表面的に綺麗なだけの音楽ではないことは確かだ。 誰かに敷いてもらったレールの
上を走るのではなく、自身で手探りしながら進もうとしているのがこれを聴くととてもよくわかる。

でも、この作品から43年が経った現在、来月になると最新作がリリースされるそうだ。 彼はきちんと自分の力でここまで来ることができたということで、
その新しい作品をリアルタイムで聴くことができるということに感動させられる。 楽しみに待ちたい。



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静かなモーニング・ソング

2017年01月02日 | ECM

Carla Bley / Andando el Tiempo  ( 独 ECM 2487 478 4863 )


新年の静かな朝に何度も何度も繰り返し聴いている。 この休暇のモーニング・ソングになっている。

カーラのこの新作のことはずっと気になっていたんだけれど、アンディー・シェパードという人に昔からあまりいい印象を持っていなかったせいで、しばらく
買うのを躊躇していた。 何枚か聴いたリーダー作が退屈極まりない内容だったからだが、それはかなり前のことであれからは随分と時間が経っているし、
これはカーラの作品だから大丈夫なんじゃないかと半ば自分に言い聞かせるようにして入手してみた。

結論から言うと、心配は杞憂に終わった。 サックスはカーラの音楽を邪魔することなくうまく調和している。 テナーの音はテナーらしく、ソプラノの音は
ソプラノらしく魅力的に鳴っていて、重要な役回りを上手にこなしている。 ECMという特別な音響空間の中で、控えめにではあるが確かに存在している。

両面聴き終えて、しばらく目を閉じて余韻に浸っていると、頭の中にじんわりと響きが残っているのはスティ-ヴ・スワローのエレベの音であることに気が付く。
昔からベースをリード楽器のように弾いてきた人だけど、ここではエレベの最大の美点である音色操作によって非常にマイルドでくすんだ柔らかい音色を
作っていて、これが非常に心地好い。 上手い音を作ったものだ。 

スワローのそういうベースの音を通奏低音としてカーラのピアノが瞑想するように流れている。 2人の揺蕩うような旋律の戯れでどこかに流されそうに
なるのをシェパードのサックスが海中に降ろされた錨のように船体を留めて、ゆらゆらと揺れる船上から陽光を反射しながら穏やかに波打っている海面を
いつまでも眺めているような、そういう気持ちになってくる。

カーラも既に80歳。 手持ちの残り時間が多いとは言えなくなった今、限られた時間をどこまでも引き延ばそうとするかのように、旋律で音楽を語るのではなく、
意識の流れで音楽を進めていく。 傑作とか駄作とか、そういう切り口では語ることはもはやできないものとしてそこにある。

アナログの柔らかな音場が素晴らしい。 前作もアナログ・プレスしてくれないものだろうか。 淡い期待をしながら待つことにしよう。


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我慢した甲斐があった、という話

2016年12月03日 | ECM

Jakob Bro / Streams  ( 独 ECM 2499 5717024 )


DUのCD館で新譜として並んでいたのを見て、聴きたいなあ、とCDを手に取りしげしげと眺めながらも、もしかしてレコードも出るかもしれないしなあ、
どうしようかなあ、とボケっと突っ立って逡巡していたのが8月の夏休みのさ中だった。 傍目にはさぞかし間抜けな姿だったことだろう。 でも、
こうして180g Vinyl を聴いていると、あの時我慢して良かったよなと思う。 

前作同様ギター・トリオ形式による演奏だが、前作はオランジュリーに展示されているモネの「睡蓮」のように、複数のピースがまるで一幅の大きな印象派の
絵画のような仕上がりだったのに比べて、今作は1曲ごとに楽曲が独立してる感じが強く、各々の曲調にも違いがある。 ギターも軽いディストーションを
かけてみたり、と前回の終始漂うような感じと比べると少しソリッドなアプローチが目立つ。

抽象性イコール現代性、という通俗的な等価関係に終わらせず、それらをしっかりと音楽の側に引き込むところにECM本来の価値があるのだが、どの作品もが
成功しているとは必ずしも言えない中で、これらのヤコブ・ブロの作品は最良の成果を出していることは間違いない。 テレキャスターを使うことで、
従来のギター・トリオの定型的イメージからは完全に隔絶した、言わばまったく新しい音楽形式であることをすんなりと納得させる。

レコードから再生される音の質感もこれ以上ない極上さを見せる。 3つの楽器のブレンド感は絶妙で、ドラムを叩いた時に鳴るボディ-の共鳴音の生々しい
ところや、ベースの音の透明度の高さや鮮やかな色合い、空間への放出される時の響き方の自然さなど、アコースティック楽器の美質とそれを聴く愉楽の
心地よい一体感を味わえる。 ギターも控えめなオーヴァー・ダブを施されて、ゆらゆらと揺れ動きながら移動する淡いオーロラのようだ。 たぶん、CDだと
もっと精緻で張りの強い音なんだろうけど、このギター・トリオにはレコードの質感のほうがよりフィットするのではないか、と今は勝手な想像をしながらも、
いずれ機会があればCDも聴いてみたい。



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波紋が拡がっていく

2016年10月01日 | ECM

Jakob Bro / Gefion  ( 独 ECM 2381 )


水面に雫が落ちて、そこを中心にして波紋がゆっくりと拡がっていく光景を何度も繰り返し見つめているような感じ、と言えば一番近いだろうか。

そういうこの地上で無限に繰り返されるであろう、永久運動にも似た所為を暗喩しているようなところがある。 人知の及ばぬ遥か遠いどこかで、
我々には解読できない言語で美しく設計された、修正することも消去することもできない律の存在のようなものを感じる。

一応、音楽としてスタートはするものの、やがてそれは森の中で風が通る時の音だったり、深夜の街頭に降り積もる雪の音だったり、断片的な記憶を
思い出す時に聴こえる音だったり、というふうに何か違うところへと我々を誘い、音楽と情景と記憶のようなものの境目が無くなってしまう。

他のECMのアーティストたちのような時には煩わしい自我の強さのようなものがなくて、立ち上がってくるサウンドスケープに無意識のうちに入って
行ける。 誰かの描く世界ではなく、自分の描く世界として受け入れることができるのだ。 そこが他とは違う。

エレキ・ギターでしか描き得ないサウンドスケープが美しい。 エフェクターの使い方が上手く、録音もECMらしい仕上がりで、とてもいい。
ウッド・ベースの木の肌触りやシンバルの柔らかい金属音も分離よくくっきりと鳴っている。 CDは未聴なので質感の違いはよくわからないけれど、
このレコードで聴いている限りでは他の媒体で聴こうという気は起きない。 最新作も同様のトリオ形式なので、できればアナログで聴いてみたい。


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美しく、そして哀しい

2016年06月05日 | ECM

菊地雅章 / Black Orpheus  ( ECM UCCE-1160 )


発売日に買って以来、折に触れて聴いているが、感想を記すことをずっとためらってきた。 この人を信奉する人は多く、私のような特別な感情を
持たない者が気安く触れてはいけないような雰囲気を感じるからだ。 貶そうものなら、闇討ちにさえ遭いそうな気配すらある。 でも、色々と感じる
ことがある作品なので、どこまで上手く書き切れるかわからないけれど、できるだけ率直に書いてみようと思う。

ピアニストであれば、いつかはこういう作品を残したいと誰もが切望するだろう。 ジャンルやカテゴリーを超えた、ピアニズムの純度100%の音楽。
ただ、そういう演奏を作品としてリリースすることが許される人は限られている。 自己満足に終わらず聴衆を飽きさせない演奏ができる人がそもそも
そんなに多くはいないし、仮にそれができたとしても、作品として世に問うためにはそれに相応しい風格のようのなものが求められるような気がする。
それまでに積み上げてきたキャリアの重みだけが放ちうるオーラのようなものだ。 そういうものがなければ、なぜか説得力に欠けるところがある。
そういう意味では、菊地雅章がこの作品をリリースするのは当然のことだと思える。 それに、もともと優れたソロ作品を残してきた人だ。

ECMらしい怖ろしく透明感の高い、ひんやりと冷たい空気が漂う最高の録音の中、抜群の抑制と感情の発露がきちんとバランスした素晴らしい演奏だ。
厳選された音数だけで最後まで語り切ってしまう感じで、ここまで静かに事が運ぶ音楽は珍しい。 同じようなタイプの演奏でも、欧米人だと途中で
必要とは思えないような高揚感を盛り込んだりしてこちらをシラケさせるものだが、そういう箇所は一切出て来ない。 日本人がこういう音楽に求める
静的要素を全て完璧に満たしてくれる。 難解な個所もなく、典雅なメロディーがうまく配置され、聴き手を置いてきぼりには決してしない。
ピアノの音の美しさだけでも聴かせるし、旋律の良さだけでも聴かせるし、録音の凄さだけでも聴かせる。 でも、当然それらは部分的な聴き方を
するためにあるのではなく、すべてが1つの大きな音楽の構成要素でしかない。 いろんな美点に都度気付かされながらも、音楽そのものに魅せられて、
その中へと入って行き、様々なものを見て、それは音楽が鳴り止むまで続く。 

ただ、でもな、と思う。 程度の違いこそあれ、これはこれまでに色んな人が色んな時に色んなところで繰り返し行ってきた音楽だよな、と思う。
一つの典型であり、一つの類型であり、一つの既成である。 すべてがどこかで見た光景なのだ。 それは限界という名の壁で四方を塞がれている。
そのことが私を哀しくさせる。 創造よりは独白を旨としていることはわかってはいるけれど、それはどこまでも美しく、どこまでもありふれていて、
だから聴けば聴くほど哀しくなるのだ。


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ペッパーバードって?

2016年05月29日 | ECM

Jan Garbarek / Afric Pepperbird  ( 西独 ECM 1007 )


ECMの栄光のナンバー7を背負った作品として、その筋のファンには親しまれている。 レーベルを立ち上げてまだ間もないこの時期、アイヒャーは音楽の
内容には何も口出ししなかった。 この作品に関してはすべてガルバレクのコンセプトで音楽が形成され、メンバーたちはオスロの美術館を借り切って
録音したがったが、外部からのノイズが入ってくるのを嫌ったアイヒャーが唯一ダメ出しして、スタジオで録音させている。 

砂漠やサバンナや密林、そこで営まれる生を想起させる民族音楽的な内容で、これを無理にECMやジャズと絡めて解釈するのは無意味だし、フリージャズ
という言葉を持ち出す必要すらない。 自分たちの音楽を模索するにあたり、1度音楽の原始の姿に立ち返ろうという発想だったのではないだろうか。
当時、オスロにはドン・チェリーやジョージ・ラッセルが一時的に住んでいて、このガルバレクの若いバンドメンバーたちは多大な影響を受けた訳だけど、
だからと言って彼らがリディアン・クロマティック・コンセプトをどこまで理解したのかはよくわからないし、ここで聴かれる楽曲がファソラシドレミファが
基調になっているのかどうかなんてこともよくわからない(少なくとも私には)。

知的レベルの高い有能な若者がそういうカウンターセオリーに惹かれるのは当然のことだし、無批判に世の中に迎合するその他大勢から受け入れられない
のも仕方がないことかもしれない。 でも、そういう多様性の受容と新しい価値の創造を目指したECMとこの若者たちの出会いは「邂逅」と言うべきこと
だったんだろうし、ECMというレーベルやガルバレクという稀代の音楽家に好意を持てる人なら、ここで聴かれる内容が、例えそれが一過性のものでしか
なかったのだとしても、その時期の彼らには必要不可欠なものだったのだという暖かい眼差しで見つめることは可能だろうと思う。

生々しいベースの重い音が不気味な基音となって進む中、ギターの常道から外れた破音とテナーの制御されたフラジオが予期せぬ効果を上げている。
音楽的には明らかにサイケデリック・プログレ・ロックという印象で、ジャズという入り口から入ると迷子になるけど、ロックの側から入っていくと意外に
すんなりと納まるところに納まるような感じである。 そういう意味でも、若者たちが創った若者らしい音楽だと思う。



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憧れのソロ・ギター

2016年02月27日 | ECM

Ralph Towner / Solo Concert  ( 西独 ECM 1173 )


すべてのギター小僧にとって、ソロ・ギターというのは永遠の憧れであり、最終目標地点だ。 1つの楽器でリズム・和音・メロディーを簡単に鳴らすことが
できるのはピアノとギターくらいしかないけど、ピアノは正規の教育をきちんと受けないと上達が難しいが、ギターはそういうものが必須というわけでは
ないし、楽器の大きさもコンパクトで持ち運びが楽だから、数ある楽器の中でもギター人口はダントツで多い。

でも、楽器というのは訓練・練習がすべてで、それ以外に上達の道はない。 だからある程度のところで大半の人は挫折する。 バンドを組んで、その中の
パートの1つとしてなら参加できても、ジェフ・ベックやラリー・カールトンのようにソロ・ギタリストとして人前に立てるなんて人はごく一握りだ。 

だから、ギター小僧はソロ・ギターに憧れる。 それが如何に困難な道のりであるかを知っているから、嫉妬することすらない。 そこに自分の夢の姿が
あるかのように、ただ熱い羨望の眼差しを送るのだ、自分もいつかああなれる日を夢見て。

その他大勢のギター小僧の中の1人である私も、だからギター作品には目がない。 アルバム単位でこれは好き/これは嫌い、というのは当然あるけど、
貶すことはない。 それは自分の憧れだからだ。 ピアノは正規の教育を受けたけれど練習が大嫌いで苦労したから愛憎半ばする複雑なところがあって
どうしても厳しい目線で見てしまうけれど、ギターは純粋に趣味として始めたから楽しい想い出しかない。 練習嫌いは同じでただのお遊びでしかないけど。

私がECMのレコードを少し買うようになったのは、きっかけはキースのレコードの音の良さだったけれど、結局はギター作品に魅せられたからだと思う。
ラルフ・タウナーのこの作品は昔から聴いているけど、やっぱりレコードで聴く音場感は圧倒的に素晴らしい。 ライヴ録音だけど、この人はスタジオも
ライヴも演奏はまったく変わらない。 ホール・トーンの自然な残響感が見事に捉えられていて、音楽の素晴らしさを最高に引き立てている。 

12弦のスティールギターと6弦のガットギターで演奏されていて、12弦ではコードワーク中心、6弦ではシングルトーンを多用している。 プログラムの
目玉はもちろん "Nardis" で、6弦でとても上手く演奏されている。 こんな風に弾けたらどんなにいいだろう、という溜め息しかでてこない。

ラルフ・タウナーのギターはその演奏スタイルもやっている音楽もジャズのフィーリングは希薄で、アメリカのフォーク・ロックを基盤にしている。
アイヒャーがタウナーをたくさん録ったのは、まさにそこが大事だったからだ。 メインストリームのジャズの匂いが少しでもすれば採用されなかった
はずで、そういうところへの感度は異様なほど敏感だった。 ビル・エヴァンスのレパートリーを入れることをよく許可したなあ、と驚いてしまうけど、
アイヒャーの審美観ではこれが許容できるギリギリのところだったのだろう。

素晴らしいソロ・ギターの作品で、ギター小僧にとっては満点の内容だけど、これはそういう楽器経験の有無を不問とする豊かな音楽になっている。
ギターという楽器の素晴らしさ、ギター音楽の素晴らしさをこんなにも赤裸々に提示してみせた作品は少ないと思う。



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時々思い出す音たち

2016年02月13日 | ECM

Alfred Harth / Just Music  ( 西独 ECM 1002 ST )


このレコードがとても気に入っている。 採譜することはきっと不可能な内容にも関わらず、ここから流れてくる断片のような音たちや氷点下の空気の
ような冷たさは自分の中にそのまましっかりと残っていて、街の中にいる時などにもなぜか時々フッと蘇ってくることがある。

例えば人はある風景を前にした時、何かしらの音楽を無意識のうちにそこに重ねてはいないだろうか。 もしくは、いつの間にか自分の中である音楽が
鳴り始めたりするようなことが。 また、音楽を聴いていると何かの光景が目に浮かぶことが。

音楽がもし通常の定義とは別に、ある風景と対になって世界を構成する機能だったり、ある情景を何か意味のあるものとして呼び出す装置として機能する
ものと定義することができるのだとしたら、私の中でこのレコードから流れてくる音たちがそのどちらをも果たす以上、その原則に沿っているのだから
私がこれを音楽として語ることはおそらく可能だと思う。 

音が鳴っている面積と音が鳴っていない面積を比較すると後者のほうがはるかに大きいにも関わらず、またそうであるが故に、断片化された音はその1つ
1つは意味を増し、重みを持っていく。 キーやハーモニーで縛られることのない、紐が解かれた花束のように、音がバラバラと落ちて散っていく様が
素晴らしい録音技術で美しく録られている。 無意味に点在するように置かれた音をその意味を図るように眺めるのは自分の中では悪くない感覚だ。

アイヒャーはプロデュースしていないとは言え、ECMがこれを出したのには音楽に関するとても高い見識を感じる。 それまでの欧州で録られていた
フリージャズが顧みて来なかったなかった美観というか、音楽のみが持つことを許されているある種の美しさがきちんと録られているところに他の
レーベルにはない自覚的な知性を見ることができる。

アルフレッド・ハルトは元々ジャズミュージシャンという括りには収まらないマチルタレントで、それが却ってよかったのかもしれない。 売れない音楽を
生業としている人らしく、作品はたくさん出しているようだ。 彼を擁護する変わり者がこうして1人くらいいても、まあ構わないだろう。



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うまくCD化されないキューンの傑作

2015年12月27日 | ECM

Stev Kuhn, Sheila Jordan / Playground  ( 西独 ECM 1159 )


これを聴いた時は衝撃でした。 そして、これがスティーヴ・キューンの最高傑作だということがすぐにわかった。
そういうのは、理屈抜きに、直感的にわかるものです。

スティーヴ・キューンのトリオにシーラ・ジョーダンが加わったカルテットのスタジオ録音。 非常に雄大でドラマチックな音楽で、全体が大きくうねるように
展開される素晴らしい内容です。 シーラのヴォーカルは目立つことなく、歌を歌っているというよりも大きな曲想を邪魔せずその一部として組み込まれた
感じで、楽器群の中に上手く溶け込んでいます。 そうやって、4人の音楽が一体となってより大きなものになっていく様子が克明に記録されている。

楽曲の根底にはアメリカのフォークソングが見え隠れしますが、それがモードジャズの雰囲気でうまく蒸留されていて、極上のムードが溢れ出ています。
ECMのこれまでの作品は無理に小難しくヨーロピアンに仕立てたようなところがありましたが、この作品はアメリカの音楽に回帰したところがよかった
んじゃないでしょうか。 ニューヨークのコロンビアスタジオでの録音ですが、きちんとECMサウンドとしてミキシングされているので音質は見事で、
流れ出る空気はひんやりとした冷たく、曲想を最大限に活かすような大きく拡がる音場感が非常に心地よい。

有無を言わさないような力がある傑作です。 知名度がないのが本当にもったいない。




Steve Kuhn / Last Years Waltz  ( 西独 ECM 1213 )


プレイグラウンドと同じメンバーで同じコンセプトによる、ファット・チューズデイでのライヴ録音。 先のアルバムとは曲目はまったく違っているし、
ライヴらしくスタンダードもやっているにも関わらず、前作と共通する雰囲気があるのが驚きです。 普通のジャズのライヴアルバムとは明らかに一線を
画した不思議なムードがあります。

当然シーラ・ジョーダンはよりのびのびと歌ってはいますが、それでも音楽全体をきちんと意識しており、雰囲気をぶち壊すようなこともせず、賢い人だなと
思います。 ボブ・モーゼスのブラシも気持ちよく鳴っており、歯切れよく小気味良いリズムとリリカルなピアノが上手く同居する見事な演奏です。
年季の入った愛好家にも褒める人が多い、こちらも傑作です。


ところが、こんなに素晴らしい2作品なのに、CD化がされていません。 正確に言うと、プレイグラウンドは少し前に別の作品とセットになって3枚組の
セット物としてCD化されましたが、他の2作品があまり好きではない私にとっては余計な付属のついたものなんか買いたくない。 独立した形でリリース
して欲しいし、どうせセットにするならこのライヴとのセットが正しいはずなのに、どうもCDに関してECMのやることはよくわかりません。

iPodに入れて通勤の際にも聴きたいと思っているのですが、ラスト・イヤーズ・ワルツのほうはアイヒャー自身がプロデュースしていないので、もしかしたら
今後もCD化はされないのかもしれません。 少しは日本のサラリーマンのことも考えて欲しい。


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残り物には福があった、かも

2015年12月05日 | ECM

Mal Waldron Trio / Free At Last  ( 西独 ECM 1001 )


ECMのレコードを買うようになって自然と自分の中で出来上がったルールがあって、それは高いものには手を出さない、ということ。 具体的には、
「高くても2,000円台まで」という基準を作ってその範囲内でこれまではやってきましたが、今回はその掟を破って Jazz Tokyo の売れ残りに
手を出しました。 ECMファンからはレーベルカラーには全くそぐわないその内容に評価が芳しくなく、逆にECMにこだわりのない人からは「硬派で
カッコいい」と言われることも多く、その賛否の分かれ方にずっと興味を惹かれていたからです。 ECMファンと言えるほど強い愛着がある訳でもなく、
こだわりがないと言うほど無関心ではない今の自分は評価の難しそうなこれをどう感じるだろうか、という好奇心がそのハードルを越えさせました。

結果から言うと、才気ある音楽だとは思えないけれど、なぜかどこか惹かれるところがある、という感じです。

もともとマル・ウォルドロンは特に好きでもないし、感心したこともありません。 ピアノが上手くないのは明らかで、そのせいでスイングしない
硬直した演奏しかできないんだろうと思っていたし、この作品を聴いた今でもその認識は特に変わりません。 というか、その認識はやはり正しいんだな
とさえ思います。 だから、この人にピアニズムの感動を求めてはいけないんだと思います。 そういう聴き方をすると、この人はただ嫌われるだけで
終わってしまう。

ところが、この人が作りだす音楽を細部にこだわらずに大きく丸ごと受け止めてみると、一見ぶっきらぼうな印象なのに、実際はかなりデリケートで
親密さもあって、聴いているこちらへ何かを伝えようとしているのを感じ取ることができる。 自分の殻に閉じこもろうとはせず、不器用ながらも
自分の作り上げた音楽をこちらへ丁寧に聴かせようとしているのを感じます。 それが「どこか惹かれる」と感じる部分なのかもしれません。

モンクの影響があるのかそれともわざと意識しているのかはわかりませんが、そういう音使いやフレーズの脱線をしてみたり、モールス信号的な打鍵を
してみたりするのは技術の拙さをカヴァーしようということなんだろうし、楽曲のテーマ部があるのかないのかわからないようなつくりも当時の流行を
踏襲してのことだろうし、といろいろ工夫していることが見て取れるので、マルとしては手抜きをせずに臨んだ録音だったんでしょう。

まだサウンドポリシーが定まっていなかった時期の録音なので例の心地好い残響感をまとってはいませんが、1969年の録音とは思えないくらいに
さすがに他とは一線を画す際立った録音の良さで、そのクリアさがこの人のそういうわかりにくさを解きほぐす手助けをしてくれています。
私はこの音質は気に入りました。

ピアノのレコードなのにピアノ自体の快楽の無さには目を瞑れ、というのはおかしな話かもしれません。 でも、この人の音楽の良さに気付くには
私の場合はそういう聴き方をしなければいけませんでした。 こういう面倒な作業を自分の中でできるようになるのも、年の功なのかもしれません。






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欧州きれい系家元の悲劇

2015年11月22日 | ECM

Richard Beirach / Hubris  ( 西独 ECM 1104 )


"欧州きれい系" を源流まで遡っていくと、たぶんこの辺りに辿り着くのではないでしょうか。 これは私にとっての「嫌いなもの克服シリーズ」の1枚です。

ECMを聴いていく上で避けて通れないのが、このリッチー・バイラーク。 その作品群は、ECMのレーベルポリシーの最も正しい見本の1つです。
だから、私は昔からこの人が苦手でした。 どこがいいのか、さっぱりわからない。 アルバムの途中でいつも再生を止めてしまい、最後まで聴き通した
ことがありませんでしたが、最近のECM狩りで、DUの在庫の中で自分が買いたいと思うものを一通りさらってしまったので、渋々手を出してみました。
それに、今改めて聴くと以前とは違った印象が芽生えるかもしれない。 値段も800円程度だし、外れてもまあいいや、という感じです。

この作品はファンの間では傑作として通っているようで、好意的なレビューがたくさん見られます。 そこに書かれていることはどれもその通りだなと
思うし、人気が高い理由も実際に聴いてみるとよくわかります。 平易でわかりやすくキャッチーなメロデイー、嫌なクセのない素直なタッチ、それに
レコードで聴けばその真価が実感できる、まるで目の前でグランドピアノが鳴っているかのような素晴らしい録音と再生感。 ジャズという音楽に特別な
こだわりが無ければ、誰だってこれは褒めるに決まっている。 そういうクオリティーを持った音楽です。

ただ、私の心は何も動かされませんでした。 誰も知らない深い山奥を歩いていて、偶然透明度の高い清流を見つけて、その綺麗さに驚いてしばらく
見とれてしまう、それと似た驚きと感銘は受けますが、ただそれだけです。 それ自体は素晴らしいことだと思うし、その美しさはそのまま享受すれば
いいことなんだろうし、ECMはまさにそういう音楽を創りたかったんだからレーベルとしては目的通りで、これは100点満点だったんだろうと思います。

でも、それだけではやはり感動できませんでした。 音質がいいということは音楽を聴く上でとても重要なことで、それは音楽の印象をも左右する。
ただ、それは1番ではない。 どんなに音が良くても、内容そのものに感動が無ければ、音楽を聴く上でそんなものには何の意味もない。
内容が素晴らしいからこそ、音質がいいと一層その音の良さが音楽を引き立てて、有り難く思えるんじゃないでしょうか。

オーディオ愛好家があれこれと苦心の末にセッティングしたオーディオ機器の試聴をする際に音質のいいとされる音盤、例えばコロンビアのSAXとか
EMI-HMVのASDとかデッカのSXLを使うけれど、私ならそういう音盤ではなく、内容が最高なのに音質がイマイチのレコード、例えばウェス・モンゴメリー
のインクレディブル~とかビル・エヴァンスのエクスプロレーションズとかを使うでしょう。 そういう最高の音楽が聴けるレコードが今までより少しでも
いい音で鳴ってくれたら、初めて苦労した/投資した甲斐があったと思える。 音質向上の目的というのは、本来そういうものだと思います。 

最近になって、リッチー・バイラークがこうした一連のECMへの録音が元々不本意なもので、それでもノルマを十分こなしたんだから、後は自分のやりたい
音楽をやらせてくれとアイヒャーに訴えて嫌われたという後日談を知りました。 なるほど、だからこの人のECM作品はつまらないんだな、ということに
納得できたのですが、じゃあ、その後に自身の代表作や傑作が生まれたのかというと、そんなことは特になかったんじゃないかと思います。
案外、アイヒャーの目は間違ってなかったんじゃないでしょうか。 そうだとしたら、何とも皮肉な話です。


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