廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

ペッパーバードって?

2016年05月29日 | ECM

Jan Garbarek / Afric Pepperbird  ( 西独 ECM 1007 )


ECMの栄光のナンバー7を背負った作品として、その筋のファンには親しまれている。 レーベルを立ち上げてまだ間もないこの時期、アイヒャーは音楽の
内容には何も口出ししなかった。 この作品に関してはすべてガルバレクのコンセプトで音楽が形成され、メンバーたちはオスロの美術館を借り切って
録音したがったが、外部からのノイズが入ってくるのを嫌ったアイヒャーが唯一ダメ出しして、スタジオで録音させている。 

砂漠やサバンナや密林、そこで営まれる生を想起させる民族音楽的な内容で、これを無理にECMやジャズと絡めて解釈するのは無意味だし、フリージャズ
という言葉を持ち出す必要すらない。 自分たちの音楽を模索するにあたり、1度音楽の原始の姿に立ち返ろうという発想だったのではないだろうか。
当時、オスロにはドン・チェリーやジョージ・ラッセルが一時的に住んでいて、このガルバレクの若いバンドメンバーたちは多大な影響を受けた訳だけど、
だからと言って彼らがリディアン・クロマティック・コンセプトをどこまで理解したのかはよくわからないし、ここで聴かれる楽曲がファソラシドレミファが
基調になっているのかどうかなんてこともよくわからない(少なくとも私には)。

知的レベルの高い有能な若者がそういうカウンターセオリーに惹かれるのは当然のことだし、無批判に世の中に迎合するその他大勢から受け入れられない
のも仕方がないことかもしれない。 でも、そういう多様性の受容と新しい価値の創造を目指したECMとこの若者たちの出会いは「邂逅」と言うべきこと
だったんだろうし、ECMというレーベルやガルバレクという稀代の音楽家に好意を持てる人なら、ここで聴かれる内容が、例えそれが一過性のものでしか
なかったのだとしても、その時期の彼らには必要不可欠なものだったのだという暖かい眼差しで見つめることは可能だろうと思う。

生々しいベースの重い音が不気味な基音となって進む中、ギターの常道から外れた破音とテナーの制御されたフラジオが予期せぬ効果を上げている。
音楽的には明らかにサイケデリック・プログレ・ロックという印象で、ジャズという入り口から入ると迷子になるけど、ロックの側から入っていくと意外に
すんなりと納まるところに納まるような感じである。 そういう意味でも、若者たちが創った若者らしい音楽だと思う。



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予想を大きく裏切る仕上がり

2016年05月28日 | Jazz LP (Riverside)

Elvin Jones / Elvin !  ( Riverside RLP 409 )


こんなレコード、一体誰が買うんだよ、と昔は思っていた。 ドラマーのリーダー作には元々懐疑的だったし、ジャケットデザインにうんざりさせられた。
でも、あれから随分と時間が経ち、ジャズの何たるかも少しはわかるようになってくると、こういうレコードに魅力を感じるようになってくる。

コルトレーンのバンドに参加して少し経った頃の録音で、ジョーンズ3兄弟が勢揃いしている。 サド・ジョーンズが実質的な音楽監督をしており、彼の一連の
デトロイトものに非常によく似た雰囲気を持った内容で、これは嬉しい誤算だった。 ハンク・ジョーンズのピアノの抑制がよく効いていて、全体を知的な
印象にまとめ上げている。 それは、まるで "Somethin' Else" のような感じだ。 最後に配されたバラードの "You Are Too Beautiful" ではオープン
トランペットの音色が郷愁を誘い、何とも言えない深い余韻を残す。 エルヴィンのドラムがよく目立つような建付けにもちろんなっているが、耳障りな
ところもなく、全体的に予想外の出来だと感心してしまった。

偉大なドラマーであることには異論などないし、この人以外には考えられないと思えるくらい素晴らしい演奏をしているアルバムもあるけれど、基本的に
あまり好きなタイプではないのでさほど熱心には聴いてこなかった。 ただ、当たり前のことだが、共演者がうまくハマればいい作品が出来上がるんだなあ、
と改めて思った。 内容がいいと、昔は嫌いだったこのジャケットも淡い紫色が中々上品じゃないか、などと手の平を返したような感想へと転じてしまう。

おまけに、この盤は音がとてもいい。 ムラのあるリヴァーサイド録音の中で、これは当たりの1枚だ。 全てがいい方向へと予想を裏切られた。
誰も褒めてくれないレコードのようなので、じゃあ、私が、ということで。



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時代に抵抗する音楽

2016年05月22日 | Jazz LP

Gerry Mulligan / Night Lights  ( 蘭 Philips 652 037 BL )


マリガンのバリトン・サックスは不思議な音だな、とこのアルバムを聴くたびに思う。 木管楽器丸出しのそのくすんだ音色はお世辞にも美音とは言い難いし、
特にこういうスローな楽曲ではまるでクラリネットの演奏を聴いているような気分にさせられる。 でも、あの恐竜の背骨のようなごつい楽器でこういうソフトな
音色を出すのは難しいことなのかもしれない。 ポール・デズモンドのアルトやスタン・ゲッツのテナーなど、白人の管楽器奏者は自分だけの音色を作ることに
殊更こだわった人が多かった。

このアルバムはマリガンと同系色のくすんだ音を出す管楽器奏者で固めたところに音楽的な成功要因があるわけだが、それ以上に重要なのはジム・ホールと
デイヴ・ベイリーだと思う。 特にベイリーのブラシが奏でる音が音楽の重要な背景を構成している。 「夜の静寂」と判で押したように形容されるのには
うんざりさせられるけど、そういうことを連想させる薄い霧がうっすらと漂って流れていくような様はこのベイリーのブラシ音が創り出している。

こういう情景論のようなものでしか語りようがないのは、このアルバムが明らかに軽音楽を志向しているからだ。 決定的名盤であるにも関わらず、一様に
ジャズ愛好家がこのアルバムを語るのを恥ずかしがるのは、これがジャズの本道から離れた軽音楽を志向しているからだ。 軽音楽は主義主張を排した
音楽であり、語るべき内容を元々持たない音楽だから、それ以上何も語りようがないのだ。 これが "ナイトライツ" というタイトルではなく、ジャケット
デザインもまったく違うものだったら、人々はこの作品を語るのにさぞかし困ったことだろう。 名盤と言われることすらなかったかもしれない。

この企画がフィリップス社側からのオファーだったのか、それともマリガン自身の意向だったのかはわからないけれど、1963年の秋と言えばフリージャズの
台頭著しい時期であり、そういう風潮に眉をひそめていた人たちが大多数だったのは間違いない。 でも時代の空気は明らかに変わっていたし、それはもう
誰にも止められないということも自明のことだった。 そういう無力感のようなものがこの作品を暗く覆っている。 どれだけ執拗に軽音楽を志向してみても
どうにも軽音楽にはなりきれす、諦観したような退廃感からは逃れられない。 明るく振舞えば振舞うほど、哀しみも増していく。 それでもこの作品を
世に問うたのは、そういうの時代の空気に対するせめてもの静かな抵抗だったのだろう。 禁酒法時代に地下に潜って製造された密造酒を隠れて飲んで
いたように、当時の人々はこっそりとこのアルバムを聴いていたのではないだろうか。 そういうどこか後ろ暗い、独特の雰囲気に覆われた作品である。


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金曜日の夕刻の過ごし方

2016年05月21日 | Jazz LP (Verve)

Stan Getz / Cool Sounds  ( Verve MGV-8200 )


飲みの予定のない金曜日は仕事なんて早めに切り上げて、特に目的もなくDUへ立ち寄ってレコードをパタパタと眺める。
浮いた予算(と言っても、それはわずかな額だけど)の範囲で買えそうなものは何かあるかな、と考えながらのんびりと見ていく。
なんとも穏やかな夕刻のひと時に、時間を気にすることもなく、たくさんの見慣れたレコードジャケットを順番にめくっていくのだ。

そういう時は、普段は目に留まらないようなレコードのところで手が止まったりする。 別に探していたわけではないけれど、何となく聴くこともなく
これまでは通り過ぎていたレコードたち。 そういう気分の時じゃなきゃ買わないタイプのレコードというのが、確かに存在するものだ。

クレフレーベルにたくさん録音してアルバム制作時に選から漏れてしまった残骸を寄せ集めしたこのレコードも、そういう気分の時くらいしか買えない。
でも、家に帰って聴いてみたらこれがなかなかいい演奏だということがわかり、なんだかずいぶん得をした気分になった。 

ミュージシャンのオリジナル曲が多くて知らない曲のオンパレードだけれど、どれも平易な聴きやすい曲ばかりだし、ゲッツやルー・レヴィーの力みのない
余裕のプレイが心地いい。 それに、多くの曲でトニー・フラッセラのトランペットが聴けるのが何といっても珍しい。 これは当たりだったよな、と思う。

音楽を聴く時、毎回最高の演奏ばかりを聴きたいわけじゃないし、最先鋭の演奏を聴きたいわけでもない。 特にどうということもない、半分聴いて後の
半分は聴き流すような音楽をかけたい気分の時だってある。 そういう時にはこれはもってこいの1枚じゃないだろうか。


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二重のメロディー

2016年05月15日 | Free Jazz

Alexander Von Schlippenbach / Piano Solo  ( 西独 FMP 0430 )


何の予備知識もなく白紙の状態で聴くと、これはフリージャズというよりも単にピアノソロによる即興という語り方のほうがよりしっくりとくるなあと思う。

一般的にフリージャズと言われる音楽には、それがどのような種類のものであれ、その水面下にある種の共同幻想的な核のようなものが横たわっていて、
それは「混乱」や「喧噪」という形を借りながらかなり遠回しに表現されるものだけれど、このピアノソロを聴いていると、ここにあるのはそういうものとは
全く異質のものなんじゃないかと思えてくる。 

この人の頭の中では実はちゃんと調性に沿って作曲されたオリジナルのメロディーがあって、それを意図的に無調性に翻訳しながらピアノを演奏しているような
フシがどうも感じられてしまう。 現にラグタイム風の小節が途中で出てきたりするし、手が滑って上手く翻訳し損なった和製英語の言葉のような箇所も
たくさん出てくる。 人知れず積み重ねられた練習や研鑽で武装しながらも、フリーに徹しきれていない綻びのようなものが見えてしまうところがあるし、
何よりもどんなにメカニカルな無調フレーズを弾いていても、なぜかその裏では別の有調の旋律が並走しているのが聴こえてしまうような気がするのだ。
だから、そういう意味において、これは一般に言うところのフリージャズとはうまく重ならない。

西洋音楽理論の権化のような楽器であるピアノで完全無欠のフリーミュージックを演奏するのは困難を極める作業に違いないと思うけれど、何事においても
困難であればあるほどそれに憑りつかれてしまう人が世の中にはいる。 シュリッペンバッハも元々そういう傾向を持った人だったのではないだろうか。
普通にピアノを上手く弾けるし、普通に作曲もできるけど、そういう既にできることなんかには興味がなく、進んで困難な道に踏み込んだのだろう。

エヴァン・パーカーとのトリオの時やグローブ・ユニティーのような大編成時には感じられなかったのに、ピアノソロという素肌をさらす場面になった途端に
個性や素の部分が見えてくる、というのは人間味があってとてもいいことだと思う。 彼らだって、別に得体の知れない怪物というわけではないのだ。



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ブートレグの存在意味

2016年05月14日 | Jazz CD

Miles Davis / Live in Europe 1967, The Bootleg Series Vol.1  ( Sony Music Entertainment 88697 94053 )


今年は少しマイルスのブートレグを聴いてみよう、と思っている。 ジャズに限らず、どんなジャンルでもこれまでは基本的にブートレグには興味がなかった。

そもそも、正規発売のものだって全て聴いているわけでもないのに、それらを差し置いてブートを聴くなんてことは普通はしないだろうし、やはり音質の
悪さと演奏の出来の不揃いさに失望することがほとんどだから、というのがその理由だったのだが、これを聴いてすっかり考え方が変わってしまった。

第二期ゴールデン5の最後の演奏ツアーの様子を収めたものだが、これが演奏が素晴らし過ぎて、更には音質も良くて、すっかり夢中にさせられた。
元々ブートマニアにはよく知られた音源だそうだし、これが正規発売になった時にはかなり大きな話題になっていたのは憶えているが、まさかここまで
内容がいいとは思いもしなかった。 これまで聴いてこなかったことが悔やまれる。

プラグド・ニッケルの2年後の演奏なので一体どんな演奏になっているんだろうと興味津々だったが、演奏スタイルはそれよりもずっと纏まったものになっていて、
予想外の驚きだった。 ハービーはしっかりとピアノを弾いているし、ショーターもよりまろやかでブリリアントな音色へと成熟しているし、トニーの
ドラミングも激しさだけでは終わらない佇まいがあって、いい意味で大人っぽくなっている。 そして何より、マイルスのトランペットの音の輝きが
素晴らしい。 珍しく音数もいつもより多く吹いていて、調子が良かったのがよくわかる。

ミュージシャンというのは、その生活の大半がライヴ活動だ。 我々のような変態オタクはついレコードやCDだけが音楽家の全てだと思い込みがちだが、
実際はまったく違う。 だから、ミュージシャンという仕事を長く続けられるかどうかは、基本的に各地を飛び回りながらライヴ活動ができる気力と
体力があるかどうかにかかっているといってもいい。 そういう生活に耐えられない人は、音楽を生業にはできない。

私はマイルスの正規発売された作品は全て聴いているけれど、それだけではマイルスの実像を把握するには遠く及ばないのだということを最近強く感じる
ようになってきていて、十分繋がり切れていないミッシングリンクの箇所を補うのがこれらのブートなのだと認識を新たにするようになった。

ブートレグは本質的には音楽鑑賞のためにあるのではない。 だから、音質がどうのこうのというのはまったく意味がない。 この1967年のライヴ盤は
例外的に音がいいだけであって、他のものはまったくダメなのは承知の上で少しずつ聴いていこうと思う。 まずは一番好きな第二期クインテットの時代の
ものから手をつけたい。 このバンドの演奏ならどんな音源だろうと、すべて聴く価値がある。



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晩年の到達点

2016年05月08日 | Free Jazz

Cecil Taylor / The Willisau Concert  ( スイス Intakt CD 072 / 2002 )


セシル・テイラーの晩年のCDがゆっくりとだが増え続けている。 見かけるたびにぽつりぽつりと買っていると、いつの間にか20枚近くまで増えている。
同一アーティストの架蔵CD枚数としては、ついにこの人がトップに躍り出た。 どの演奏も示唆に富んでおり、聴き飽きることがない。

最近のお気に入りはこの演奏。 スイスのヴィリザウで毎年夏に行われるジャズ・フェスティヴァルに2000年に出演した模様を収録したもの。
とても音質が良く、テイラー独特の強くコクのあるタッチが愉しめる。 エヴァンスやパウエルも長生きして、こういう音質で作品を残してくれていたら
どんなによかったか、と考えずにはいられない。

全体的に流れるようなフレーズを紡ぐことに集中していて、滴り落ちるようなピアニズムの雫を浴びることができる。 ピアノという楽器の音や演奏を
こんなにも堪能できるということが何よりも素晴らしいことだと思う。 このピアノの確かな手応えは、完全にクラシック音楽のピアノと同一のものだ。
ジャズという音楽の範疇はとうに超えている。

長い1曲目の後半、ふと、"Ghost Of A Chance" のフレーズの断片のようなものが現れる箇所がある。 それはあまりに唐突に現れて、瞬く間に消えて
しまうけれど、その後しばらくはテイラーの脳内ではこの唄が流れているのではないかというこちらの想像上のメロディーと実際に鳴っているピアノの
フレーズが2重で聴こえているような錯覚に陥る時間を体験することができる。 普段ジャズを聴いていて、こんなトリップ感覚を経験できることはないだろう。

どことなく、これまでのソロ演奏のものよりも叙情的な印象がある。 純粋にピアノを弾くことを愉しんでいるような気配すらある。 フォルテッシモと
ピアニッシモとの対比のバランスも絶妙だし、あまりに自然過ぎる無調感が部屋の中の透明度を深めるかのようで、これが本来のあり方なのではないか
という気にすらさせる。 晩年のテイラーの音楽は、間違いなく到達点に達していると思う。 でなければ、こんな感銘を受けるわけがない。



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ヴェローナの怪人

2016年05月07日 | Jazz LP (Europe)

Bruno Marini / Love Me Or Leave Me  ( 伊 プライベート LMJ 3338 )


ブルーノ・マリーニは1958年生まれのイタリアはヴェローナのバリトンサックス、オルガン奏者である。 以上、終了。

これ以上書くことがない、それくらいよくわからない演奏家。 欧州盤ブームを仕掛けたマニア本の中で初めて紹介されたことで、一部のコレクターに
珍重されるようになったが、情報も無ければレコードも出回らず、今でもその素性はよくわからないままらしい。 自己名義の作品も私が知る限りでは、
レコードが4枚、CDが2枚のみ。

本当なのかどうかはわからないが聞いたところによると、お金持ちの家柄でがつがつ働く必要が元々なく、残したレコードも知り合いや仕事の関係者に
配る分だけプレスして終わったらしい。 このレーベルも本人の関係者の私家レーベルらしく、共演して知り合ったルード・ブリンクを誘って1枚レコードを
作らせたりした。 アメリカのベテランとの共演も多いようで、ジャック・マクダフやスティーヴ・レイシーらのレコーディングにも参加しているようだ。

このアルバムはバリトン、ベース、ドラムのピアノレス・トリオで1987年5月18日にヴェローナのCIMスタジオで録音され、1988年にリリースされている。
スタンダードをメインにしたアメリカのジャズを志向した平易な内容で、その選曲はタイトル曲や "Bye Bye Blackbird" などいささか古めかしいが、
演奏は非常に現代的な質感でそのギャップに驚かされる。 私家盤にも関わらず録音がとても良く、深く澄んだエコー処理がオーディオファイルを
喜ばせる音場感になっているし、演奏もスピード感とキレがあり、非常に清潔でスタイリッシュな印象だ。

バリトンサックスの音を乱暴に分類すると、ジェリー・マリガンのような柔らかくソフトな音とペッパー・アダムスのような硬質な音に分けられるが、
ブルーノ・マリーニの音は後者に属する。 ただ、そのフレーズはアダムスのようなドラマツルギーに満ちたそれではなく、スタン・ゲッツのような
なめらかに流れるようなフレーズで、そこにこの人の他にはない個性がある。 そして、録音の良さがそのバリトンの深い音を際立たせている。 

そういう諸々の要素がいい方向に出ていて、第一印象はやたらカッコいい。 でも、何度か聴き返していくうちに今自分が感心しているのは、ジャズを
輸入品として上手く処理して、一番美味しいところだけを手際よく抽出してみせるセンスの良さと器用さに対してなんだな、いうことに気付いてしまう。
こういうところは、奇しくも同じイタリアのバッソ=ヴァルダンブリーニに対して抱く感想とまったく同じだ。 

この作品しか聴いたことがないので他の作品の内容がどうなのかはよくわからないが、おそらくは同じような傾向なのではないだろうか。
ただ、その少ないカタログの中にはフリーに寄った演奏もあるようで、それには興味をそそられる。 そこにはもう少し違う何かがあるのかもしれない。



      

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トリオレコードの真面目さ

2016年05月05日 | Jazz LP

Ted Curson / Fireball  ( 日 Trio Record PAP-9166 )


1979年にトリオレコードがニューヨークまで出向いて作った、どこまでも生真面目なレコード。 テッド・カーソンのトランペットによるピアノレス・トリオ
というから恐れ入る。 目の付け所が違うというか、発想力が違うというか。

ピアノが入らないことで大きく確保された空間の中で、テッド・カーソン、レイ・ドラモンド、ロイ・ヘインズの3人が対等互角な三角形で演奏している。
スパニッシュ・モードな曲やミッドナイト・ブルース風な曲、そして "ラウンド・ミッドナイト"など選曲も良く、惹き込まれる内容だ。
テッド・カーソンって、こんなにトランペットが上手かったっけ?と思わせるくらいよく歌い、音に張りがあり、音程も安定している。 
ドラモンドのベースやヘインズのドラムの音がこの時代の日本のレーベルに特有の腰高で浅い音の録音なのが気に入らないが、それでもカーソンの演奏が
あまりに見事なので、耳はそちらへと自然と集中する。 純粋に、演奏力で心を持って行かれてしまう、王道で主流派の佳作だ。

それにしても、この頃の日本のレコード会社は真面目に仕事をしてたんだなあ、と感心してしまう。 セールスのことを考えたらフレディ・ハバードとかに
なってもおかしくないのに、敢えてこの人を引っ張り出してきたところが、なんというか、マニアックだ。 とても売ることを考えていたとは思えない。
美人ピアニストに水着を着せたり、実力派女性アルト奏者にキテレツな格好をさせて"きゅるぴか~"などと言わせて売り出そうとするレコード会社や
芸能事務所が跋扈する今の日本からは考えられないことだ。

GWは連日暇なので渋谷のHMVへ1年振りくらいに行ってみたが、相変わらずここのジャズのレコードは汚くて高い。 DUに慣れた感覚で掘っていると、
とても買えるレコードはないのだ。 おそらく海外のレコードフェアのようなところで無造作に置かれた安いレコードを仕入れて来ているんだろう。
渋谷の街は人で溢れかえっているのに、ここでレコードを見ていたのは私1人だった。 そんな中で、これは600円でぽつんと転がっていた。



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フリージャズへのマイルスからの回答

2016年05月03日 | Jazz LP (Columbia)

Miles Davis / At Plugged Nickel, Chicago Vol.1  ( 日 CBS/SONY 25AP 1 )


1965年4月、マイルスは長年の持病である股関節の炎症が悪化して、向う脛から削り取った骨を移植する手術を行った。 でもその手術は失敗で、同年8月に
再度入院してプラスティックの人口関節に取り換える大手術を行った。 そのためバンドは活動を停止せざるを得ず、その間に若いメンバー達は普段は
できないソロ活動を始める。 ハービーは "処女航海"を、トニーは "スプリング"を、ショーターは "The All seeing Eye"他2枚を、それぞれブルーノートに
録音した。 本業の合間の余技とは思えない、すごいラインナップだ。 当時のブルーノートのレコーディングの報酬は500ドル+αだったそうだ。

マイルスが現場に復帰したのは11月のヴィレッジ・ヴァンガード(フィラデルフィアの "ショウボート・ラウンジ" という説もある)で、その翌月にシカゴの
"プラグド・ニッケル"で公演を行った。

当時のアメリカはフリージャズの動きが本格化していて、若いメンバーたちは普段からそれが気になって仕方なかった。 マイルスの入院を絶好の機会
としてブルーノートに自分たちが考える "新しいジャズ" を録音することでカタルシスを得ていたが、マイルスが復帰してバンドが再始動するとすぐに
ライヴでお馴染みの曲を演奏することに退屈さを感じ始めた。 そこで、ボスのいない時を見計らってやんちゃなトニーが "プラグド・ニッケル" に行ったら
"反音楽"(予測ができない音楽)をやらないか?と言い出した。 こうして、伝説の "プラグド・ニッケル" 公演は始まったのだ。

そういう背景もあってか、この演奏はマイルスが最もフリーに近寄ったものという向きもあるそうだが、私にはまったくそうは思えない。 取り上げられた
素材はスタンダードで、きちんとテーマ部があり、全部は鳴らされていなくてもコード進行は明確に存在し、どこを取ってもマイルスの考えるジャズだ。

日頃からマイルスが言ってきた「音数が多過ぎる、弾かないことを覚えろ」という指示を極限まで推し進めた姿がここにはある。 ハービーのピアノは
極端に音数が少なく、トニーのドラムはリズムキープを最初から放棄していて、ショーターのテナーは和音を逸脱していて、若手の悪だくみは一見成功
しているように見えるけれど、実のところは結局マイルスの目指す音楽になっている。 マイルスはこの公演での演奏をとても楽しんだそうだが、彼は
内心こう思っていたんじゃないだろうか、"すべては余の思うがままに進んでおる・・・"。 4人はマイルスの手の上で転がされていたのだ。

シカゴに着いて会場に行くと、何とテオ・マセロがステージの上でレコーディングのセッティングをしていて、トニーたちは「ヤバイ・・・」と焦ったそうだ。
この公演が終わって、4人はさすがにやり過ぎたと思ったそうで、コロンビアが発売を見送ったという話を聞いてホッとした。 でも、その後しばらく
時間を置いて日本でこのアルバムが最初に発売され、次にアメリカでも発売されると、当時思っていたよりもずっといい内容だと気が付いた。

私はこの演奏が最高に好きだ。 マイルスのライヴアルバムの中では、"Miles In Berlin" と並んで最もよく聴く。 本当はコンプリートBOXが欲しい
んだけれど、値段の高さにいつも買うのを躊躇してしまって、未だに入手できていない。 だから、普段はこの2枚の国内盤レコードで聴いている。
もちろん、これが正真正銘のオリジナル盤だ。 元がコロンビアの正規録音だから、音質も抜群に良い。

これは、フリージャズが投げかけた問いに対する、マイルスの正式な回答だったんだと思う。 別に音楽を壊さなくても、力のある若い才能を自由に
泳がせることで、主流のジャズだってここまでできるんだぞ、ということをマイルスは言いたかったんだと思う。 
これは、フリージャズから最も遠い所にある音楽だ。

ジャズを死滅させないために、あまり時間を置かずに彼は次の大きな1手を打ち始めるが、そこに行く手前の最後のアコースティック・ジャズの最良の姿が
ここにある。 聴かずに死ねるか、という言葉はまさにこのレコードにこそ相応しい。




Miles Davis / At Plugged Nickel Vol.2  ( 日 CBS/SONY 25AP 291 )



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ベルギー貴族のハーモニカ

2016年05月01日 | Jazz LP (Riverside)

Jean Thielemans / Man Bites Harmonica !  ( 米 Riverside RLP 12-257 )


トゥーツ・シールマンスのことを一番よく知っているのは、おそらくジャズ愛好家だ。 その音楽的キャリアはジャズからスタートしているとはいえ、
ハーモニカ、ギター、口笛、という唯一無二のキラー・スタイルであらゆる音楽分野に招かれて作品を残しているにも関わらず、ジャズ愛好家だけが
この人のことをよく知っているというのは、なんだか不思議な気がする。 彼が作ったジャズのアルバムだって、その内容はジャズの主流とはとても
言えないにもかかわらず。

ベルギーの貴族、という血筋と育ちの良さからか、この人の奏でる音にはちょっと世俗の汚れを寄せ付けないような典雅で無垢なところがあって、
1度聴いたら誰もが魅了される。 ジョン・レノンがトゥーツに憧れてリッケンバッカーとハーモニカを使った、というのは有名な話だけれど、
ジャンルを超えて人々を惹きつけるというのはすごいことだ。

1952年にアメリカに渡って活躍を始めるが、リヴァーサイドに幸運にも作品を残すことができた。 ペッパー・アダムスを入れることで、トゥーツだけでは
軽くなってしまうサウンドに重みを持たせることに成功している。 アダムスはいつも通りの好演を聴かせ、そして何よりケニー・ドリュー以下のトリオが
おそろしく出来がいい。 このアルバムの人選は完璧だと思う。 ブルーノートやプレスティッジでは決して聴くことができない、上質なモダンジャズに
なっている。 リヴァーサイドというレーベルは、こういうところに強みがあった。





Toots Thielemans / Toots' Quartet  ( 仏 DECCA AM 233012 )


遡ればSP期にまで辿り着く彼のディスコグラフィーの中で、おそらくは最も初期の録音の1つ。 ジャケットにもレーベルにも生産国の記載がないが、
おそらくフランス・デッカの10インチで、オルガントリオをバックにした演奏。 ジャズというよりは催事場のBGMなんかで流れているような軽快で罪のない
ポピュラー・ダンス音楽のような内容で、完全に好事家向きのレコード。 彼のルーツがどんなものだったかを知ることができる、というくらいの価値で、
ジャズ愛好家には不要なレコードだと思う。 この頃から、トゥーツのハーモニカは既に完成していたことがわかる。



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