廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

真の傑作

2016年06月26日 | Free Jazz

Michael Mantler / The Jazz Composer's Orchestra  ( 西独 JCOA LP1001/2 )


1968年に制作されたこの作品は、その当時の心あるジャズミュージシャン達の英知のすべてが結集して出来上がった1つの究極の成果となっている。
統制と解放、安定と不安、秩序と混乱、集合と離散、そういうありとあらゆる矛盾と背反のすべてを目の前で次々に片っ端から飲み込んでいく。
オーケストラは知的に譜面上に定義され制御されているにもかかわらず熱狂的で、ソリストとして指定された者たちは用意された限られた小節の中で
すべてを吐き出す。 

この作品を聴けば、セシル・テイラーというピアニストの本当の恐ろしさがわかるだろう。 2枚組のアルバムの2枚目の両面がテイラーの受け持つパートだが、
如何にラリー・コリエルが素晴らしい演奏をしていても、1枚目の演奏群はこの2枚目の単なる序曲に過ぎない。 セシル・テイラーの音楽が破壊と脱構の
音楽ではなく、創造と再構築の音楽であることがここまでわかりやすく理解できるケースはちょっと珍しいのではないだろうか。 
セシル・テイラー / アンドリュー・シリルの演奏があまりに凄すぎて、オーケストラが演奏を止めて、全員が食い入るようにその様子を見つめている様が
何とも生々しい。 テイラーのピアノそのものはいつもの様子と大きくは変わらないが、マントラーのコンセプトを的確に把握した上での音楽展開をして
いるので、楽曲としての仕上がりの良さはテイラー自己名義の作品群を遥かに上回る。

マントラーの頭の中には当然コルトレーンの "アセンション" やシュリッペンバッハの"グロ-ブ・ユニティー" のことがあっただろうが、幸いなことに
そういう先行事例とはまったく色合いの異なる至高の作品に仕上げることができた。 おそらくそれらを十分に聴き込んで、そこに足りなかったものを
きっちりと対策して臨んだ結果が功を奏したのだろう。 

長年CD→iPodという形で音量Maxの爆音で聴いてきたが、これはオリジナルのレコードでも持つ価値があると思い直して西独盤を探して買い求めた。 
見開きカヴァーを開くと多数の写真や譜面、解説などが閉じられた手の込んだ作りになっており、気合いの入り方の違いがよくわかる。

真の傑作、という言葉で締め括るしかない。








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消え去ってしまう前に

2016年06月25日 | Jazz LP (Vocal)

Al Hibbler / Sings Love Sings  ( 米 Verve MGV-4000 )


ヴァーヴのレコードには時々こういう女性の姿をあしらったデザインのジャケットがある。 ジャズを聴くのは男性のほうが圧倒的に多いから、
こういうジャケットはそれなりに販売に寄与したんだろう。 3大レーベルなんかは硬派だったからこういう戦略は取らなかったが、商売人だった
ノーマン・グランツはそんなことにはお構いなしで、おそらくその影響で他のマイナーレーベルも時々真似するようになったんじゃないだろうか。

アル・ヒブラーはハーブ・ジェフリーズの後任としてエリントン楽団に入った人で、50年代にソロで作ったレコードにはその人脈でエリントン楽団の
メンバー達が参加しているものが多い。 このアルバムではカウント・ベイシー楽団やルロイ・ロベット楽団など複数のビッグバンドを背景に歌って
いるが、その中には当然ジョニー・ホッジスの楽団もいる。 そういうオールドビッグバンドのリッチなサウンドをバックに快調に歌っていく。
ハーブ・ジェフリーズの名唱で知られる "Flamingo" も表敬としてちゃんとやっている。

商業的にはR&Bシンガーとしての認知度が高いのかもしれないが、やはりこの人の本懐はジャズの作品のほうじゃないだろうか。 特に美声という訳では
ないし、深いバリトンというほどでもないけれど、情感豊かに表現するし、意外にさっぱりとした後味が残る。 不思議と心に残る歌い方をする人で、
やはりそこは何かを持っているんだと思う。 

昔はエサ箱でよく見かけたこの人のレコードも、今では見かけることはまずない。 もう誰も聴かないんだろうし、きっとこのまま忘れ去られてしまう
んだろうなと思う。 "Unchained Melody" だって、日本ではこの人が歌ったオリジナルヴァージョンを知っている人はあまりいないんだろう。 
残念なことだがアルバムとしての有名作がないと、こういう末路を辿るのはある意味やむを得ないことなのかもしれない。


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クロージング・テーマ

2016年06月19日 | Jazz LP (Prestige)

Charles McPherson / Bebop Revisited !  ( 米 Prestige PR 7359 )


13歳の時に近所のキャンディ・ストアに置いてあったジュークボックスから流れてきたパーカーの "Tico Tico" を聴いて床に伸びてしまって以来、
パーカー直系の道を歩いてきたマクファーソンの初リーダー作。 1964年にタッド・ダメロン、ファッツ・ナヴァロ、バド・パウエルらの曲をパーカー&
ガレスピー・スタイルで正面きってやってしまうんだから恐れ入る。 究極の時代錯誤なのか、それとも本気でビ・バップの復興を目論んだのか。

生まれはミズーリ州だが9歳の時にデトロイトに移り、そこで育った彼は、地元のジャズクラブでハウスミュージシャンだったバリー・ハリスのもとで
ジャズを学んだ。 だから、このデビュー作はバリー・ハリスが手を貸している。 60年代にビ・バップをやったら、という内容だが、やはりそこには
ハード・バップのスタイルも混ざっていて、単なるビ・バップの焼き直し以上の内容になっている。

マクファーソンのアルトはまだ初々しく、とても素直に吹いている。 後年になると個性を出そうとしてちょっとひねり過ぎでは?と思うようなところも
出てくるけれど、ここでは非常に清々しい吹き方でとても感じがいい。 カーメル・ジョーンズとの技巧的なバランスもうまく釣り合っており、うまい人選
になっていると思う。 "Hot House" にしても "Wail" にしても、パワーとスピードが十分あって見事な演奏になっている。

出来ることならずっとこういう演奏をやっていきたかったんだろうなあ、と思う。 でも、もうこういう音楽が求められる時代ではなかった。 あと10年
早く生まれていれば大スターになっていただろうけど、こればかりはどうしようもないことで、気の毒なことだったとしか言いようがない。 時代の潮流に
合わせることを嫌い、地道に主流派のジャズをやり続けて、まだ現役のミュージシャンとして今もサン・ディエゴに住みながら元気に活動しているのは
喜ばしいことだと思う。 

パーカーに捧げたのであろう、"Embraceable You" ではワンホーンで究極のバラードを聴かせる。 これはこの曲の最高の演奏の1つだろう。
まるでパーカーが完全には出来なかった録音の仇を自分がとるのだと言わんばかりの演奏で、深い哀感の表現が素晴らしい。 その素晴らしい演奏を
RVGが見事な録音で捉えており、風前の灯だったバップ期最後の名盤と言える内容だ。 良い悪いは別にして、これ以降、こういう主流派ど真ん中の
名盤と言える演奏はほとんど見当たらなくなる。 歴史を俯瞰する目線でこのアルバムを眺めると、まるでバップという音楽のクロージング・テーマ
として生まれてきたかのように見えて、なかなか切ない気持ちにさせられる。



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コロンビア時代の傑作

2016年06月18日 | Jazz LP (Columbia)

Thelonious Monk / Monk's Dream  ( 米 Columbia CL 1965 )


コロンビア時代のモンクの評価は総じて低い。 というか、そもそもまともに相手にすらしてもらえないような感じだ。

ブルーノートによって見い出され、プレスティッジで飼い殺しの憂き目にあっていたところをリヴァーサイドによって救い出されて芸術性が花開き、
やがてコロンビアの時代に退化していく、というのが一般的な総括のされ方になっている。 まあ、そう言われればそうなのかもしれない。
でも、それならこのアルバムに詰め込まれた素晴らしい音楽をどう説明すればいいのだろう。 

このアルバムは、とにかくチャーリー・ラウズの演奏の見事さが全面に押し出されている。 まるで自分が作曲した曲であるかのようになめらかに吹いて
いく。 過去のリード奏者たちがモンクの音楽へ自分を同化させようとしたアプローチをしていたのとは逆に、ラウズはモンクの音楽を自分のほうへと
手繰り寄せるような手綱さばきをしている。 だからフレーズの組み立て方にも特に苦労をしていないし、かと言ってミスマッチな印象などなく、
これ以上ない親和力を見せている。 チャーリー・ラウズという人の音楽家としての本当の凄さは、この作品を聴いて初めてわかるのだ。

モンクのピアノも粒立ちの際立ったキレのあるタッチで、円熟の極みを見せる。 運指もなめらかでスピード感もあり、素晴らしい演奏だ。 "ブライト・
ミシシッピ" や "ボリヴァー・ブルース" などの楽曲の良さもあり、このアルバムの完成度の高さにはため息がでる。 それでいて堅苦しさのようなものは
微塵もなく、親しみやすく穏やかで明るい表情で弾むようなリズム感にこちらの表情も思わずほころんでしまう。 

マイナーレーベル時代は一晩のセッションですべての曲を録音せざるを得なかったが、コロンビアと契約後は1日に2曲程度録音するというサイクルに
なった。 そういう環境の変化もいいほうへと作用したのかもしれない。 バンドとしての纏まりで作り上げた素晴らしい音楽になっていると思う。



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ドミチルの熱い夜

2016年06月12日 | Jazz LP (Europe)

Dusko Goykovich / As Simple As It Is  ( 独 MPS/BASF CRF851 )


私がダスコのことを初めて知ったのは1980年代の終わり頃だった。 ウィスキーか煙草かオーディオか、もうよく憶えていないが何かの広告だった。
そこにはEnja盤 "After Hours" の裏ジャケットの "Remenber Those Days" の手書きの五線譜の写真と "あのドミチルの熱い夜・・・" というようなコピーが
載っていて、それがとても印象的だった。 そこで新宿のDUの地下に行くと、壁に備え付けられたレコードラックの中にはちゃんと "Dusko Goykovich" の
仕切り板があって、そこには何枚かの新品の輸入盤が並んでいた。 "ドミチル"、"Remember Those Days" という2つのキーワードでレコードを探してみた
けれどそれらしきものは見つからず、仕方なくその時は "スインギン・マケドニア" のEnja盤の新品を買って帰った。 そういう時代だった。

私が廃盤蒐集をやめていた18年ほどの間に起こった欧州盤バブルの時期にはダスコの作品のすべてが陽の当たるところに引きずり出されて軒並み価格が
高騰したんだそうだが、私はその狂騒の様を全く知らないので、今でもこの人に対するイメージは大学生だったある冬の寒い日に新宿で出会ったダスコの
イメージのままだ。 凍えて白い息を吐きながら新品のきれいなレコードを抱えて帰った、懐かしく親密な記憶がゆっくりと蘇る。

東側から西側を眺める視線で演奏される彼の音楽は私のそういう懐かしい記憶群と相性がよく、折に触れてよく聴くのだが、それらの中で最も好きな作品が
このドミチルでのライヴだ。 これは彼の作品の中では最もアメリカのハードバップに近寄った音楽になっており、特にオランダの隠れた名手である
フェルディナンド・ポヴェルのテナーが最高の出来でそれに応える素晴らしい演奏になっている。 リズム隊のサポートも見事で、5人がまるで常設のバンド
であるかのような纏まりと適度なスピード感で疾走する様に聴き惚れてしまう。 隅々まで行き渡る繊細さと程良いマイナー感が堪らない。

あのドミチルの熱い夜、という広告コピーでまだ知らない大人の世界があることを知り、まるでそれに手繰り寄せられるのようにこのレコードに出会ったのが
90年代の半ば頃でその時にも聴いて感激したけれど、今聴いても同じ感動を覚える私には稀有なレコード。 ダスコの作品ではなぜか唯一これだけがCD化
されていない。 絶対に再発するべきだと思う。



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コルトレーン 最後の1カ月

2016年06月11日 | Jazz LP (復刻盤)

Miles Davis / Live in Stockholm 1960  ( 日 DIW 25006/25007 )


これはブートレグでなく、北欧DRAGONレーベルが発掘した未発表ライヴで、DIWが日本に輸入した時には大きな話題なったのをよく憶えている。
DUで大々的に新譜として売られていたが、まだジャズを聴き始めたばかりだった私はあまりその意味がよくわかっていなかった。

一通り正規録音物を聴いてしまった後でこういう未発表音源を聴くと、その価値というものが本当によくわかる。 コルトレーンがマイルスの下にいた際の
録音としては 59年の"Kind Of Blue" が最後で、61年の "Someday My Prince will Come" のゲスト録音までに2年間の空白がある。 コルトレーンが独立
したのは60年4月末なので、ちょうどこの空白の前半部分はマイルス・バンドでの最後の1年間として最も成熟した時期であったはずだ。 にも関わらずこの
時期の演奏には正規録音がなく歴史的な欠損箇所になっていたところに60年3月のこの演奏が登場したわけだから、如何にそれが重要な価値があるかが
わかるだろう。 これを聴かない手はない。

マイルスのライヴ演奏はアメリカ本国のものよりも国外に出た時のほうが丁寧な内容になっている傾向があって、このストックホルムでの演奏も例外では
ない。 バンドの纏まりよく、とてもデリケートな演奏に終始している。 そんな中で、コルトレーンはもはやこのバンドの音楽とはうまく噛み合わなく
なってきてしまっているのがよくわかる。 マイルスもバンドのメンバーたちもこれがコルトレーンとの最後の演奏になることを残念に思いながらも、
一方ではもうここは彼のいるべき場所ではないことを十分過ぎるほどわかっていただろう。 特にウィントン・ケリーのピアノは好調で弾むように美音を
まき散らしているけれど、コルトレーンの演奏と並べてみるとまるで遊園地の拡声器から流れてくる音楽のように安っぽく聴こえてしまう。 よくマイルスの
バンドメンバーの善し悪し話でハンク・モブレーやジョージ・コールマンがやり玉に挙げられるけれど、私が一番イマイチだと思うのはウィントン・ケリーだ。

モノラルながら録音状態の良さも嬉しく、ポール・チェンバースのベースの音がクリアで大きく録れており、この時のバンドの演奏の良さを際立たせてくれる。
おそらく当時は契約関係の都合で発売することができなかったのだろうが、こうして陽の目を見ることができたのは素晴らしいことだと思う。 未発表音源の
発掘の最も優れたお手本の一つと言っていい。


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美しく、そして哀しい

2016年06月05日 | ECM

菊地雅章 / Black Orpheus  ( ECM UCCE-1160 )


発売日に買って以来、折に触れて聴いているが、感想を記すことをずっとためらってきた。 この人を信奉する人は多く、私のような特別な感情を
持たない者が気安く触れてはいけないような雰囲気を感じるからだ。 貶そうものなら、闇討ちにさえ遭いそうな気配すらある。 でも、色々と感じる
ことがある作品なので、どこまで上手く書き切れるかわからないけれど、できるだけ率直に書いてみようと思う。

ピアニストであれば、いつかはこういう作品を残したいと誰もが切望するだろう。 ジャンルやカテゴリーを超えた、ピアニズムの純度100%の音楽。
ただ、そういう演奏を作品としてリリースすることが許される人は限られている。 自己満足に終わらず聴衆を飽きさせない演奏ができる人がそもそも
そんなに多くはいないし、仮にそれができたとしても、作品として世に問うためにはそれに相応しい風格のようのなものが求められるような気がする。
それまでに積み上げてきたキャリアの重みだけが放ちうるオーラのようなものだ。 そういうものがなければ、なぜか説得力に欠けるところがある。
そういう意味では、菊地雅章がこの作品をリリースするのは当然のことだと思える。 それに、もともと優れたソロ作品を残してきた人だ。

ECMらしい怖ろしく透明感の高い、ひんやりと冷たい空気が漂う最高の録音の中、抜群の抑制と感情の発露がきちんとバランスした素晴らしい演奏だ。
厳選された音数だけで最後まで語り切ってしまう感じで、ここまで静かに事が運ぶ音楽は珍しい。 同じようなタイプの演奏でも、欧米人だと途中で
必要とは思えないような高揚感を盛り込んだりしてこちらをシラケさせるものだが、そういう箇所は一切出て来ない。 日本人がこういう音楽に求める
静的要素を全て完璧に満たしてくれる。 難解な個所もなく、典雅なメロディーがうまく配置され、聴き手を置いてきぼりには決してしない。
ピアノの音の美しさだけでも聴かせるし、旋律の良さだけでも聴かせるし、録音の凄さだけでも聴かせる。 でも、当然それらは部分的な聴き方を
するためにあるのではなく、すべてが1つの大きな音楽の構成要素でしかない。 いろんな美点に都度気付かされながらも、音楽そのものに魅せられて、
その中へと入って行き、様々なものを見て、それは音楽が鳴り止むまで続く。 

ただ、でもな、と思う。 程度の違いこそあれ、これはこれまでに色んな人が色んな時に色んなところで繰り返し行ってきた音楽だよな、と思う。
一つの典型であり、一つの類型であり、一つの既成である。 すべてがどこかで見た光景なのだ。 それは限界という名の壁で四方を塞がれている。
そのことが私を哀しくさせる。 創造よりは独白を旨としていることはわかってはいるけれど、それはどこまでも美しく、どこまでもありふれていて、
だから聴けば聴くほど哀しくなるのだ。


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忘れられたかもしれない1枚

2016年06月04日 | Jazz LP (Verve)

Bill Evans / Conversations with Myself  ( Verve V-8526 )


複数のピアニストがある曲を同時に弾く、というのは特に珍しいことではない。 1台のピアノを2人で並んで座って弾く「連弾」というやり方もあれば、
2人がそれぞれ1台ずつのピアノを同時に弾く「2重奏」というやり方もある。 モーツァルトは連弾のためのソナタを書いたし、以降の歴史に名を残した
作曲家の多くが同じように連弾や4手や8手のためのピアノ曲を書いている。 当時は立派な鑑賞用の音楽として作曲され、音楽を聴くなんてことが許された
一部の特権階級の人たちが聴くことを楽しんだ訳だが、現代ではこういうスタイルは子供たちの手すさびくらいの認識にまで落ちているのが実態だろう。

このピアノの重奏が廃れた理由は、おそらくたくさんのピアノの音がぶつかることで生じるハーモニーの濁りが嫌われるようになったからだと思う。
モーツァルトの時代に使われていたフォルテピアノという楽器はピーク時の音量が維持される時間が短いが、現代のモダンピアノはその維持時間が長い
ために、相性の悪い音同士が重なると途端に濁ったハーモニーとして響いて拡散してしまう。 だから、モダンピアノによる連弾や重奏は観賞用という
よりは、仲睦まじく微笑ましい余興として演奏の現場では片隅に追いやられてしまうようになったのではないだろうか。

そういう根本のところでハンデを持つこのスタイルの音楽を愉しめるかどうかは、聴き手がどこまで各ピアノのラインを聴き分けられるかにかかってくる
のかもしれない。 特にそれがジャズの場合になると、ハーモニーを愉しむという聴き方ではなく、複数のラインが織りなす彩の妙を愉しむという聴き方に
なってくるのだと思う。 だから、普段からピアノを聴く時に音の響きの美しさやハーモニーの心地良さに第一の価値観を置く聴き手にはこのエヴァンスの
アルバムはまったく理解できない、無用の長物となる。 私がジャズを聴き出した数十年前はこのアルバムのことはいろんなところで言及されるのを
見かけたものだが、今ではまったく見かけなくなってしまったのは最近の悪しき風潮を反映しているのかもしれない。

このアルバムは、"アンダーカレント" によく似ている。 リズム楽器がなく、複数のメロディー楽器が複雑に絡み合って進んでいく様は瓜二つだ。
こういう演奏はエヴァンスの中には元々イメージがあったのだろう、特に変わったことをしているという意識はなかったのではないだろうか。
モンクの曲を多く取り上げているのが意外だが、モンクの曲に内在する多重性が演奏コンセプトに合うことを当然理解した上でのことなんだろうし、
徹頭徹尾よく考え抜かれている。 大袈裟なタイトルで敬遠される向きもあるのかもしれないが、もっとカジュアルに愉しめばいい作品だと思う。



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