廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

最高傑作に成り切れなかった理由

2016年03月27日 | Jazz LP (EmArcy / Mercury)

Clifford Brown With Strings  ( 米 Emercy MG 36005 )


バックの弦楽団のサウンドがまずくて、アルバムトータルとして足を引っ張ってしまっているのがとても残念だ。 ヴァイオリンが6人、ヴィオラが2人、
チェロが1人、という意味のあまりよくわからない構成がとにかくまずい。 この高音域帯に偏った弦楽アンサンブルとトランペットという高音域楽器の
サウンドが完全に被っていて、トランペットの演奏がまったく映えないことになってしまっている。 これは完全にアルバムプロデューサーの失敗だ。

よくパーカーのウィズ・ストリングスのバックの演奏がダサい、と言われるけれど、私はそうは思わない。 あちらは弦楽器の各帯域のバランスが良く、
オーボエやハープが幻想的な効果を割と上手く出していて、背景音楽としてはよく出来ていると思う。 ところがこのブラウニーの方はニール・ヘフティの
ポップでわかりやすいアレンジが全然表現できておらず、軸が壊れて曲がってしまったスツールに腰かけているような座り心地の悪さがどうにもまずい。
チェロをもっと増やすか、コントラバスを入れるかして、低音域に厚みと深みを持たせて欲しかった。

更に、エマーシー独特の奥行き感の希薄で二次元的な音場感が、弦楽のアンサンブルとトランペットの音の分離の悪さを助長している。 トランペットの
音自体は生々しく音圧高く録れているのに、音場の中でバックの弦楽隊との距離感を作れていないので、どの楽器の音も同じように前に飛び出してきて、
ブラウニーの演奏の凄みがうまく体感できないのだ。

そのブラウニーは、この時24歳。 それが信じられないような楽器コントロールと歌心を発揮している。 とにかく弱音箇所でも音が100%出切っていて、
ロングトーンも不安定な音の揺らぎは一切なく、上品なヴィヴラートとのバランスもよく、こんな演奏をできた人は後にも先にいない。 音色も金属的な
響きはまったくなく、本当に人が歌っている声を聴いているようなところも、この人だけのものだ。 "Embraceable You" や "Portrait Of Jenny" での
メロディーの歌わせ方は特に素晴らしくて、1度聴いたら忘れられなくなる。 どの曲もアドリブラインが一切なくメロディーを吹き流しているだけなので、
ジャズとしての面白味は皆無でそういう意味では退屈な内容だけど、これはアルバム制作上のコンセプトの問題だからそこを突いても仕方がない。
だから、殊の外、構成や音作りへの不満が強く残るのだ。 ジャズだからトランペットの演奏さえよければそれでいいじゃない、とはならない。

大学できちんと教育を受けたインテリらしく、どちらかと言えば制御系のトランペッターだったから、この後の展開がどうなっていくかをみんなが愉しみに
していたのに、道半ばで途絶えてしまったのは残念だ。 トランペットがサックスの後塵を拝してきたのは、この人を失ったからかもしれない。



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未発表録音の予行演習

2016年03月26日 | Jazz LP (Verve)

Bill Evans / California Here I Come  ( 米 Verve VE2-2545 )


来月上旬にエヴァンスの未発表音源が発売される。 巨匠の未発表音源と言えばライヴもので、録音状態もイマイチで、演奏も散漫で、というのが普通。
ただ、今回はスタジオ録音で、レーベルもMPS。 最初の2つの懸案はクリアされている。 問題は最後の1つだが、こればかりは聴いてみなければわからない。
ということで、DUが大袈裟に宣伝し出す前に予約した。 こんなことは滅多にしないことだけれど、たまにはいいか、という感じだ。

未発表だったのにはそれなりの理由があるんだし、レア盤になったのもそれなりの理由があるんだから、これもあまり期待するべきじゃないぞ、と頭の中で
たしなめる声がするけれど、そうは言っても気にはなる。 だから、予行演習を兼ねて、エヴァンスの未発表音源だったこのレコードを買って聴いてみた。 
ちょっと大人げないかと思いながらも、ちょうどこれは聴いたことがなかったし、値段の安さにも後押しされて。

今度リリースされる音源は1968年のものだが、このレコードはその1年前のヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴ。 ベースは同じエディ・ゴメス、ドラムは
フィリー・ジョー・ジョーンズ。 フィリー・ジョーと言えば、リヴァーサイドの "あなたと夜と音楽と" もそうだったなあ、と感慨深い。 そう言えばあれも
未発表のスタジオ録音だった。 あれがTVのCMで流れた時は驚いたっけ。 あの頃、ジャズというのは大人のための音楽だったな。



演奏会場がミュージシャンの演奏に何かしらの影響を与える、というようなことはあるのだろうか。 もしくは、演奏された音楽やサウンドを会場自体が
一旦呑み込んで、その会場固有の雰囲気や色合いに染め上げて吐き出されて、それから聴く側の耳に届く、というようなことが。

針を落とした瞬間、私の耳に飛び込んできたのは1961年のこの場所で、賑やかにざわつく観客の中から聴こえてきた、あの懐かしい音楽だった。
エヴァンスのピアノの音の質感、耳が感じ取る演者と聴き手の距離感、エヴァンスのピアノの弾き方やプレーズ、そのどれもが61年の演奏の時のまんま
だった。 1番良かったと誰もが言う、あのヴァンガード・ライヴの時のエヴァンス・トリオが今私の目の前にいる。 そして、観客の拍手の音。 
これもあの時の拍手の音そっくりだ。 まるで、あの時にレコードに収録しきれなかった演奏を聴かされているような錯覚を覚える。

演奏だけではなく、観客の拍手までもが演奏小屋の音に染まっている。 どんな高名なエンジニアの腕を以ってしてもこればかりは上書き更新できない
ものなのかもしれない。 フィリー・ジョーのドラムの音は、ロリンズのライヴで叩いていたピート・ラ・ロッカの音みたいだ。 エディ・ゴメスのベースも
スタジオ録音で聴かれるような線の細いものではなく、太く暖かい音色で、スコット・ラファロのような耳障りな饒舌さもなく、とてもいい。

そして、エヴァンスの演奏はリヴァーサイド時代と何一つ変わっていない。 自在に操る独特の拍子の取り方、単音フレーズと和音の組み合わせ方、
フレーズの上昇のさせ方、曲のクローズのさせ方。 "Alfie" "Emily"でみせる卓越した抒情性。
マニアは所有レコードをレーベル別に並べるのが普通だろうけど、このレコードは "Waltz For Debby" の横に並べたくなる。 



このレコードを聴く限りでは、未発表音源であるということは何のハンデにもならないんじゃないかと思える。 1983年の発売当時、ビルボードの
ジャズ・チャートで最高12位にまで昇ったそうだが、それだけ多くの人が待ち望んでいた音源だったのだろう。
今度発売される音源も、粗探しするよりも、大好きなエヴァンスの新しい演奏としてまずは愉しみたい。


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曲は地味でも

2016年03月21日 | Jazz LP (Prestige)

Red Garland / Can't See For Lookin'  ( 米 Prestige PR 7276 )


完璧な演奏が聴けるのに、曲目が地味なせいか、まったく陽の当たることがない作品。 ガーランド、チェンバース、テイラーの3人の一体感の凄さは、
長いピアノトリオの歴史の中でも間違いなく筆頭の1つだろうと思う。 演奏力という観点で見れば、この作品は彼のディスコグラフィーの中でも上位に
喰い込んで来てもおかしくない。 ピアノの指の動きはとても良く、この1958年のセッションはとても調子がよかったようだ。

ガーランドがプレスティッジに自己名義で録音をしたのは1956年から60年にかけてで、最初は誰もが知っている有名な曲ばかりを順番に録音していたが、
レコーディング数が多かったために、後半は地味な楽曲も積極的に取り上げるようになった。 同じ曲を何度も頻繁に演奏するミュージシャンが多い中、
1つもダブることなく、よくもまあ、ここまでたくさんの曲を録音したなあと思うけれど、それはきっとガーランドの音楽家としての矜持だったのだろうと思う。 

自分のスタイルを持っていたからどんな曲でも演奏できる自信があったんだろうし、実際に録音されたものはどれも素晴らしいクォリティーだった。
どの演奏も皆同じじゃないかという話もあるだろうけど、スタイルが完成した直後の4年間という限られた期間に演奏そのものがそんなに大きく変化する
ことは普通ないだろうし、体調やメンタル面の影響もなくピーク時の高い質を維持し続けたというのは、常に強い外圧にさらされて競争の激しかった
ハードバップという最前線のフィールドにいた高名なピアニストたちの中ではあまり例がないことだと思う。 アート・テイタムやオスカー・ピーターソン
らとはそもそもの立ち位置が違うのだ。 かつてボクサーとしてシュガー・レイ・ロビンソンとも対戦したこともあるという逸話に相応しい勇ましい姿だと思う。

ガーランドの名盤と言われるものは56~57年に録音されたものに集中していて、それは結局のところ、演奏の出来よりも有名曲が入っているかどうかで
決められてしまっていると思う。 演奏のクォリティーが同じなら、誰だって好きな曲が入っているアルバムのほうがいいに決まっているだろうが、
ガーランドのような優れた演奏家の場合はもっと広い範囲を聴く価値が十分にある。 コレクターだけのものにしておくのはもったいない。




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洗練され過ぎた代償

2016年03月20日 | Jazz LP (Vocal)

Mel Torme / Swings Shubert Alley  ( 米 Verve MG V-2132 )


"シューベルト・アレー"(ジャズの世界では"シューバート・アレイ"と表記される)はニューヨークのブロードウェイにあるシューベルト劇場の前にある
50m程の小さな通りの名前で、現在は様々な催し物が賑やかに行われる観光名所として有名な場所。 1959年にここを舞台にしたミュージカルがラジオや
TVで放送され、その中で使われたスタンダードナンバーを集めた企画物のレコードがこれだが、西海岸のミュージシャンを配してマーティー・ペイチが書いた
スコアが如何にもウェストコーストの明るい夜の雰囲気で、企画の本質とは根本的なところでズレているような気がする。 

ただ、そこを不問にすれば闊達な演奏と最盛期のメル・トーメの上質な歌が楽しめる。 ベツレヘムの作品のほうが切れるような勢いがあって音楽的には
優れていると思うけれど、その延長上にあるこちらはさすがに歌も演奏ももっとまろやかに成熟していて、一般的な商品価値はこちらのほうが高いのかも
しれない。 

不思議なことに、ブロードウェイのヒット曲、西海岸の有名演奏家、M.ペイチのアレンジ、というような表面的なデータだけでは語りきれない、どこか微妙な
苦味が聴き終えた後に残っていることに気が付くが、これはおそらくこのレコードをプロデュースしているのがラッセル・ガルシアだからなんだろう。
単純なヒット狙いの企画もののレコード、という話だけでは済まないところがあって、そこに微かな手応えというか、引っかかって心に残るところがある。
これが代表作の1つと言われるのは、軽快な歌と演奏が楽しめるからと言うよりは、そういう所を無意識のうちに聴き手が感じとるからじゃないだろうか。




Mel Torme with The Meltones / Back In Town  ( 米 Verve MG V-2120 )


メル・トーメのレコードだと思って聴くと、裏切られた、と感じるレコード。 品名詐称スレスレ、ではないだろうか。

主役は "メルトーンズ" と名付けられた4声コーラスの歌で、最初から最後までこのコーラス隊が歌い続けて、メル・トーメやアート・ペッパーらがそれに
ほんのりとオブリガートをつけるような感じでさらりと登場して、さっと去っていく。 メル・トーメは完全に楽器としての位置づけになっている。

マーティー・ペイチのスコア自体は元々がいつも可もなく不可もなく、という感じで特に何の感慨も覚えないけれど、ここではそういう没個性的な
ところを4声コーラスが上手く彩を添えるという補完の役割を果たしていて、心地いい音楽に化けているところは見事だ。 そこにメル・トーメのさすがに
上手いボーカルがすっと横切っていくところなんかは、なるほどなあ、と感心してしまう。


ただ、"シューバート・アレイ" も含めて、どちらも明らかに経済的に少し余裕のある白人中産階級をターゲットにしているという所に少しあざとさを感じる。
全体的にあまりに清潔で洗練され過ぎていて、これがアメリカのすべての階層に快く受け入れられていたのかどうかはちょっと怪しい。 
ロシア系ユダヤ人の移民だった両親の下で4歳の時に初舞台を踏んだという早熟の天才に変なレッテルが貼られはしなかったのか、と余計な心配をしてしまう。 
だから、コーラルやベツレヘム時代のもっと直球ど真ん中のシンプルなジャズをやっていたアルバムのほうがいいな、と思ってしまうだろう。



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アーネスティン・アンダーソンを偲んで

2016年03月19日 | Jazz LP (Vocal)

Ernestine Anderson / It's Time For Ernestine  ( スウェーデン Metronome MLP 15015 )


今月の10日、アーネスティン・アンダーソンが亡くなった。 87歳だったそうだ。 とても好きな人だったので、本当に残念だと思う。

音楽好きの両親が所有していたSPレコードを聴いて育ち、地元のバプティスト派の教会でゴスペルを歌い始めた。 高校時代にシアトルのローカル
バンドのリーダーにスカウトされて、舞台に立つようになった。 そのバンドでは若きクインシー・ジョーンズがトランペットを吹き、これまた若き
レイ・チャールズがピアノを弾いていた。

その後、順調にキャリアを重ねて良質なアルバムをコンスタントに発表したが、60年代後半のアメリカではロックに圧されてジャズの仕事は全く
無くなってしまい、止む無くロンドンに一時的に住まなければいけない時期もあった。 でも70年代後半にはまたアメリカに戻り、コンコード・
レーベルから作品を出せるようになり、穏やかで充実した晩年を送ることができたようだ。 素晴らしい歌手として、人生を最後まで過ごせたのは
よかったと思う。

彼女の名前が世界的に知られるようになったこのデビュー作は素晴らしい出来で、私にとっては大事なアルバムだ。 スウェーデンのジャズ・
ジャーナリストのClaus Dahlgrenの計らいでデューク・ジョーダンらクィンテットと共に渡欧し、ジョーダンらををバックにした録音と地元の
ハリー・アーノルドのビッグバンドとの録音の2つが収められている。

リンダ・ロンシュタットがネルソン・リドルと作った3部作の中で歌った "Little Girl Blue" がこのレコードで聴かれるアーネスティンの歌い方や
アレンジと全く同じで、きっとリンダもこのレコードを愛聴していて、録音に際してはお手本にしたんだろう。 そう思うと、私も嬉しくなる。

でも、このアルバムで最も素晴らしいのは、コール・ポーターの "Experimennt" だ。 1932年にロンドンで行われたミュージカル "Nymph Errant" の
中で歌われた曲で、化学の先生が教え子に恋に臆病にならずに何でも冒険して経験するように説いた歌。 コール・ポーターはハーヴァードに通った
インテリで、作った歌はどれも捻りが効いたハイブラウなものが多いけれど、この曲は夢見るような美しいメロデイーを誇る。 ただこじんまりと
した曲なので、インストの演奏には向かないせいか誰も取り上げないし、歌手でこれをレコードに残したのはメイベル・マーサ、
シルヴィア・シムズ、ジョー・ウィリアムスという日本人があまり聴かない人たちばかりなので、残念ながら日本ではまったくと言っていいほど
知られていない。

アーネスティンは美しいメロディーラインを崩すことなく、下から上へと押し上げるように歌っていく。 だから柔らかくしなやかで弾力性の高い
歌に仕上がっている。 濁りのない、まっすぐできれいな声も素晴らしい。 この歌唱は永遠に忘れられない。

Ernestine Anderson, Rest in peace. 私はあなたの歌をこれからも聴き続ける。 素晴らしい音楽を本当にありがとう。


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何か意味のあるピアノ

2016年03月13日 | jazz LP (Fantasy)

Duke Ellington / The Pianist  ( 米 Fantasy F-9462 )


1966年と1970年に録音したピアノトリオの演奏を1974年にオリン・キープニューズらがファンタジー社のスタジオでミキシングし直して発売されたレコードで、
エリントンがスモールグループで録音した演奏としてはおそらくは最後に近いものではないだろうか。 とにかくエリントンの音源はあまりに多過ぎて、
正規のもの、ブートレグ、編集物らが入り乱れていて、私なんかにはとても何がなんやらさっぱりわからない。 でも、そんな中でエリントンのピアノが
純粋に愉しめるスモールコンボのレコードは数えるほどしかない。

エリントンのピアノのルーツはラグタイムやストライド・ピアノだから、左手が常にリズムを刻んでいくことで、ピアノ単独でリズム・和音・メロディーが
完結するスタイルだ。 だから、ここにベースやドラムが加わる場合、それらは通常の意味でのリズムセクションとは少し異なる演奏をすることを迫られる。
特にベースはリズムキープだけではなく、少しリード楽器的なアプローチをすることが許されることになるので、レイ・ブラウンやミンガスなんかは相性が
よかった。 そういうメンバーとの演奏の際は、エリントン自身は間を多めにとったピアノをわざと弾いていて、共演者のプレイを楽しんでいるような
ところがあった。

でも、ここではそういう風に対等に渡り合えるようなタイプの共演メンバーではなかったので、エリントンはパブロ盤の時よりも遥かに両手をたくさん
動かして目一杯ピアノを弾いている。 そのお蔭で、他のアルバムよりもエリントンのピアノがたっぷり聴くことができる。

エリントンのピアノを聴いていつも思うのは、それが「何か意味があるピアノ」だということだ。 我々の眼には見えない、どこか知らない場所に存在する
何かとても重要なもの、それを常に暗示しているような気がしてならない。 オカルト趣味は特に持っていないけれど、音楽としてピアノが鳴っている
というのではなく、何かの啓示を聴いているような、その意味を探り当てないと帰ってこれないような、何か意味のあるピアノ。 うまく表現しきれない。

収録された曲はすべてエリントン作曲のもので、あちらこちらにエリントンのストックフレーズが出てくる、どちらかと言えば彼自身の鼻歌のような簡素な
曲ばかりだ。 自宅で指慣らしのために思いつくまま弾いたものを採譜したような、普段着の演奏が聴ける。 にも関わらず、エリントンのピアノの音は
強烈で、何も言葉が出て来ない。 黙ってそこに埋め込まれた意味を探り続けることになる。 いつか、その意味がわかる日は来るだろうか。



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北欧ピアノトリオのレコードにまつわるあれこれ

2016年03月12日 | Jazz LP (Europe)




Knud Jorgensen / Jazz Trio  ( スウェーデン Opus3 8401 )


DU新宿ジャズ館1Fのマンスリー・バイヤーズ・セレクトの1月号に取り上げられているのを見て初めて知ったこの作品、店頭で試聴してみるときらびやかな
音質と軽快な演奏が印象に残った。 1984年の録音というからCDよりもレコードのほうがいいんだろう、と探してみると簡単に見つかったのはいいけれど、
ちょっとした手違いと行き違いがあって、2枚が手許に来るという失敗をしてしまった。 

同じレコードを複数枚持つ趣味はないので、溜め息混じりでどちらを処分しようかと検盤していて、初めてジャケットデザインが違うことに気が付いた。
上のものはメンバー全員の名前が記載されていて、紙質も木目の粗い質感でエンボス加工の紙で白っぽいクリーム色。 下のものは "Jazz Trio" という
タイトル表記で、木目の細かいざらついた質感のエンボスではない紙で色は少し黄味がかったクリーム色。 裏面はまったく同じデザインと表記になっている。
背表紙もまったく同じだ。

盤のほうはどうかというとこれがまったく同じで、材質も重量も形状もスタンパーも何も違わない。 強いて言えば、レーベルの色合いが上のほうは黄味
がかったクリーム色で、下の方は白っぽいクリーム色で、ジャケットの色合いとは逆転しているくらい。 音質もまったく同じだ。

どちらが初版なんだ?とマニアの端くれとしては気になるけれど、手に持った時の直感的な質感に違いはまったくないので、単にジャケットが違う工場で
作られただけなんだろう、という結論で自分の中では落ち着いた。 でも、これではどちらを処分すればいいのかますますわからなくなってしまう。
盤質もどちらも差がなくて、迷いに更に拍車がかかる。

両方の盤を通して聴いていくうちに、店頭で試聴した時の印象とは違うものが自分の中に残った。 音質は極めていいし、非常に軽妙洒脱な演奏でとても
耳あたりがいい。 でも、このピアノは上面だけで演奏されているように聴こえる。 演奏は3人ともとても上手いし、トリオとしてとても纏まっている。
でも、どれも手先だけで弾いていて、どうもあまり心がこもっていないような気がする。 だから、私の心の奥底にまでは響いてこない。

酒を飲むラウンジなどでかかっていたらきっと心地よいBGMになるだろうし、こういうタイプの音楽はピアノトリオの1つの王道であることは間違いない。
でも、アメリカでこういうレコードを出したら、きっとミュージシャン仲間からは陰で笑われるだろうし、この後は本人にもCMの仕事くらいしか来なくなる
んじゃないだろうか。 北欧という距離感だから許されているようなところがあると思う。




Jan Johansson / Innertrio  ( スウェーデン Megafon MFLP 2 )


Jan Johansson / 8 Bitar  ( スウェーデン Megafon MFLP 1 )


昨年末に安価で手に入れたヤン・ヨハンソンの有名盤、こちらはクヌード・ヨルゲンセンとは対照的にとても上質な音楽で、芸術としての格が全然違う。
スタンダードと民謡採取の成果がうまく配置されてずっしりとした聴き応えがあるし、演奏の質の高さは凡百のピアノトリオとは一線を画している。

クリアで端正なタッチ、終始落ち着いたリズム感、ひんやりと透き通った音場感、楽曲の纏め方の上手さなど、これ以上の完成度はないのでは、と思う。
敢えて粗探しをするとすれば、あまりに知的な音楽なのでそのスノッブさが鼻につくという向きがあるかもしれない、ということくらいか。

"8 Bitar" には中におまけが入っていた。 メガフォン・レーベルのカタログ冊子だ。



なかなか上品なラインナップだなと感心しながら見ていくと、上記の2枚にはステレオプレスがあることがわかった。 私が買ったのはステレオ表記が
ないのでおそらくモノラルプレスなんだろう。 録音時期を考えると元々は当然ステレオ録音だったのだろうから、もしかしたらステレオプレスの方が
音が自然な感じなのかもしれない。 だからこれらのレコードは安かったのかもしれないな、と思うとようやく腑に落ちるところが出てきた。

クヌード・ヨルゲンセンのレコードも、1984年プレスにも関わらずステレオ/モノラルのコンパチとなっている。 北欧の一般家庭のオーディオ環境のことは
よくわからないけれど、どちらのアーティストのレコードも割と遅い時期まで併用対応しているということは、自分ん家のオーディオ機器を永く大事に使い
続けている人が多いということなんだろう。 そういうところは何だかとても好ましいと思う。 



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巨匠らしくない親しみ

2016年03月06日 | jazz LP (Pablo)

Duke Ellington / Duke's Big 4  ( 独 Pablo 2310 703 )


元祖スムーズ・ジャズとはこのことか、と思えるような上質の極みに酔わされる。 知らぬ者はいない巨匠たちの演奏にも関わらず、枯れたところがなく、
こんなにもみずみずしい音楽になっているということは驚異以外の何物でもない。 奇跡なのか、それとも当然のことなのか、よくわからなくなってくる。

4人がまったくの対等な位置関係で、誰1人弾き過ぎず、物足りなさもなく、完璧なバランスを見せている。 エリントンのインディゴ・ブルーを思わせる
深い色合いのピアノ、深くタメの効いたジョー・パスのギター、くっきりとした輪郭で完璧なリズムキープをみせるレイ・ブラウンのベース、かつてのドタバタ
うるさいイメージを裏切る繊細で静かなブラッシュワークが終始冴えるルイ・ベルソンのドラム、それぞれが見事な匙加減で寄り添い合っている。 完璧だ。

誰もがアンサンブルの秘技を知るジャズマスター、この「和」の雰囲気は只事ではない。 どんな批評をも寄せ付けない、彼岸の音楽ともいうべき内容だ。

と、もはや賛辞の言葉しか出て来ない。 デューク・エリントンといえば権威の象徴みたいなイメージがあったりして近寄り難い向きもあるかもしれないが、
これを聴けばそんなことはまったくないのだということがわかると思う。 エリントンはスモールコンボの演奏をいくつか残していて、どれもみな素晴らしい。
このレーベルのものではレイ・ブラウンとのデュオアルバムがオーディオファイルには人気があるみたいだが、どんな楽しみ方でもいい、あまり身近な存在
とは言い難いこの人が残した数々の至高の音楽がもっと聴かれるようになってくれたら、と思う。 これはそれらの中でも群を抜いて出来がいい。


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ボスの哀愁

2016年03月05日 | Jazz LP (Columbia)

Miles Davis / In A Silent Way  ( 米 Columbia CS 9875 )


このアルバムを聴いて、ギル・エヴァンスの音楽を連想できる人が果たしてどれだけいるだろうか。 でも、私にはこの音楽が鳴っている38分間はずっと
ギル・エヴァンスの姿が目の前に浮かんでしまう。 気の弱そうな、人生に疲れたような、それでいて心優しい表情のあの姿を。

マイルスがここでフェンダー・ローズを取り入れたのは、ギル・エヴァンスのヴォイシングをスモール・バンドで出したかったからだ。 そのためには今までの
アコースティック・ピアノでは無理で、もっとたくさんの響きが出せる楽器がどうしても必要だった。 だから2台のエレピ、オルガン、エレキ・ギターという
4つの電化楽器が必要だっただけで、別に奇を衒った訳でも何でもなく、ただ自分の頭の中で鳴り響いている音楽を再現するのに必要な手段をとっただけ。
これはもうほとんどモーツァルトが父親に宛てて書いた手紙の内容と一致している。

このアルバムは1969年に録音されているが、その頃の音楽の世界はどんな感じだったかというと、まずこの年はウッドストックが開かれた。 そして
レッド・ツェッペリンがセカンドアルバムを、ローリング・ストーンズはレット・イット・ブリードを発表。 また、この少し前からジミ・ヘンが表舞台に現れ、
ヴェルヴェットがバナナ、ドアーズがライト・マイ・ファイアーを出していた、そういう時代だ。 そんな時に、10年前のフォー・ビートなんかをやっていたら
ただのバカだ。 ジャケット写真の中で、それまではずっとスーツを着ていたマイルスは "ネフェルティティ" でそれを脱ぎ、このアルバムで初めて
カジュアルな服に着替えた。 オシャレには人一倍気を使い、ドラッグの次に金をつぎ込んでいた高価なスーツを脱いだ、というのは象徴的だ。

でも、よく耳をすませば、マイルスのコアの部分は何も変わっていないことは明瞭にわかる。 私にはこのアルバムは、"カインド・オブ・ブルー"や
"ポーギーとベス" を別の響きがする楽器を使って新しい感覚で別の切り口で演奏しているようにしか聴こえない。 ただ、それはもちろん過去をなぞって
いるという意味ではまったくなく、マイルスはいつだってマイルスの音楽をやっている、という意味だ。 何かと何かの過渡期にあるなんて全然思えないし、
電化がどうのこうの、という話なんて的外れもいいところだと思う。

保守的なロン・カーターはエレキ・ベースを弾くのを嫌がってこのバンドを辞めようとしていたし、成長して自信を付けたハービーとトニーは独立して自分の
バンドを持ちたいと思っていたことをいち早く察したマイルスは快くそれを受け入れ、彼らを送り出そうと裏で準備をしていた。 そんな中で録音された
せいもあって、このアルバムにはとても切ない感情が全体に溢れていると思う。 マイルスのオープン・ホーンの音色もいつもより哀し気な表情がある。
ボスというのはいつだって孤独で切ないのだ。


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