他宗教でも有りそうな御利益程度なら、何も日蓮正宗に居続けることはない。
別に高い境地に行こうとか、そういうことではない。
その宗教にいることで得られる安心感が欲しいのだ。
あいにくと顕正会も法華講も、それに応えられているとは思えない。
「求める信心」であっても、「引っ張る信心」であってもだ。
とあるキリスト教の一宗派(新興宗教ではない)に入信した人の話によると、そこでは入信が決まると、神父だか牧師だかが、
「これでもう何があっても大丈夫です。何も心配要りませんよ!」
と、自信たっぷりに言ってくれて、物凄く安心するらしい。
顕正会でも一時期、浅井会長がそんなことを言っていて、私もその場にいたから分かるのだが、それで多くの会員が安心したことと思う。
もちろん、実際はただの思いつきだったのだろうが、それでも私は上層部の人がそう言ってくれることに安心感を覚えたものである。
対して宗門はどうか。
謗法団体からにせよ、無宗教からにせよ、新規入信者に対し、最初から罪障消滅ありきで接していないか。
宗教に新たに入ろうとしている者は、修行がしたくて来るのではない。
救われたいから、抱えている悩みを解消したいから来るのだ。
神仏に守られることによって得られる安心感が欲しいのだ。
それを私は功徳という言葉に置き換えていただけだ。
つまり、今は安心感が無い。
唱題をしても登山をしても、安心感が得られないのは何故だ?
答えは簡単だ。
まず、御本尊は喋らない。
当たり前だ。
創価学会のとある偉い人の言葉を借りれば、「ただのモノ」なんだから。
しかし代わって喋ってくれるお坊さんは、
「この仏法をやっていれば絶対安心です」
とは言ってくれない。
その言葉が聞きたくて、前は布教講演に参加したりもしていたのだが、出てくるのは誓願の話ばっかりである。
あとは創価学会への批判。
はっきり言って創価畑を歩いたことの無い人間には、そんな話はどうだっていい。
折伏誓願に気を取られて、末端信徒が置き去りにされている感が拭いきれないのである。
目の前の不安を取り去ることのできない宗教に用は無い。
今すぐ解決しろというわけではない。
いずれは円満に解決できるという安心感が欲しいだけなのだ。
御本尊に、いつになったら功徳が出るんだと文句を言ったのも、そういった不安からである。
現時点において、いずれはこの宗派から、自ら望んで出ていく確率の方が高いかもしれない。
別に高い境地に行こうとか、そういうことではない。
その宗教にいることで得られる安心感が欲しいのだ。
あいにくと顕正会も法華講も、それに応えられているとは思えない。
「求める信心」であっても、「引っ張る信心」であってもだ。
とあるキリスト教の一宗派(新興宗教ではない)に入信した人の話によると、そこでは入信が決まると、神父だか牧師だかが、
「これでもう何があっても大丈夫です。何も心配要りませんよ!」
と、自信たっぷりに言ってくれて、物凄く安心するらしい。
顕正会でも一時期、浅井会長がそんなことを言っていて、私もその場にいたから分かるのだが、それで多くの会員が安心したことと思う。
もちろん、実際はただの思いつきだったのだろうが、それでも私は上層部の人がそう言ってくれることに安心感を覚えたものである。
対して宗門はどうか。
謗法団体からにせよ、無宗教からにせよ、新規入信者に対し、最初から罪障消滅ありきで接していないか。
宗教に新たに入ろうとしている者は、修行がしたくて来るのではない。
救われたいから、抱えている悩みを解消したいから来るのだ。
神仏に守られることによって得られる安心感が欲しいのだ。
それを私は功徳という言葉に置き換えていただけだ。
つまり、今は安心感が無い。
唱題をしても登山をしても、安心感が得られないのは何故だ?
答えは簡単だ。
まず、御本尊は喋らない。
当たり前だ。
創価学会のとある偉い人の言葉を借りれば、「ただのモノ」なんだから。
しかし代わって喋ってくれるお坊さんは、
「この仏法をやっていれば絶対安心です」
とは言ってくれない。
その言葉が聞きたくて、前は布教講演に参加したりもしていたのだが、出てくるのは誓願の話ばっかりである。
あとは創価学会への批判。
はっきり言って創価畑を歩いたことの無い人間には、そんな話はどうだっていい。
折伏誓願に気を取られて、末端信徒が置き去りにされている感が拭いきれないのである。
目の前の不安を取り去ることのできない宗教に用は無い。
今すぐ解決しろというわけではない。
いずれは円満に解決できるという安心感が欲しいだけなのだ。
御本尊に、いつになったら功徳が出るんだと文句を言ったのも、そういった不安からである。
現時点において、いずれはこの宗派から、自ら望んで出ていく確率の方が高いかもしれない。