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萌えてばかりもいられない!

そんなに色々なことにやたらと深い造詣などいだけないから適当に綴っていこうかしらん

THE COVE というフィルムについて

2010-07-17 11:06:53 | 日々の疑問
(長いこと執筆を重ねてきた記事で、しかもとても長文な記事です。読んで不快な思いをされるかもしれませんので、読み飛ばしていただいて構いません。)

The cove、映画を観ずにこれ書いてます。埼玉で上映するなら見に行きますけど、ちょっとわざわざ見にいくこともないかもと思っています。批判なら甘んじて受けます。
その「まず観てから話しましょう」みたいなことがHPに書いてあるけど、もし主張している内容に反対なので、観覧料から収益分はこの監督に渡らないようにして欲しいとか、不愉快だから金返してとか無理でしょ?

だからまず与しない立場からいかせていただきます。

※アカデミー賞受賞の頃から、日本での上映までの間で色々とサイトなどの情報を調べさせていただいて書いています。内容が違うなどのご指摘がある場合はなんなりと受ける所存です。


アカデミー賞を取ったドキュメンタリー作品、舞台は日本、イルカ猟と聞いた時から。所詮民族間は分かり合えないというか認め合えないのだろうなという覚悟はしています。ただ一方的な主張と意見の押し付けはいいものではないと言わざるを得ないといった心境です。。。要するに他の食文化に間違いや正解などはないというのが私のこの記事の主題です。

私はイルカ(逆に小型のクジラかも)の肉を食べることがありますよ。そんなに頻繁ではないですけど、お鍋にして頂きます。

でも猟とか漁とかまぁ屠畜()と呼ばれるものが愉快なわけがあるはずもなく、従って、自分では食物連鎖の頂点に立って、「食する」ということの全ての人間の業の深さについては認識していますが、よその国(自国内の他地方含む)の食習慣を否定するような気持ちはまったくありません。「信じられないものを食べるのね、アメージング!」ならありうるかもしれないけど、「その食事は間違っています、獲るのを止めなさい」とか、「その動物は有能ですから、食べるなんて止めるべきです」(この発言自体が動物差別)と言ったり、言われたりということをとても辛く思うのです。何かを一方的に正当とする偏った意見とその基準から他民族や他宗教への提言のような糾弾するという行為には反対なのです。それも文化や暮らし様についてですよ。

人間が生きていくのって確かに残酷な犠牲(他の命)の上に立っているのは重々承知しています。
私は他国や他の民族が何を食べようと、たまに嫌悪感を抱くことがあるとしても、その食習慣や風習を否定などできないという考え方でいます。それが人間なんだもの。突き詰めればエネルギー、ビタミン、蛋白、カルシウム、その他もろもろの栄養素をどうやって摂取するかという手段の違いでしかない。しかもその上には嗜好や親から子へ引き継がれていく習慣のようなものも含まれているのです。(まぁこれを伝統というかもしれませんが。。。)

刺身(生で魚 といった方がいいかな)を食べるのが「信じられない」と言われてもいいですよ(笑)、逆に犬を食べる韓国の人や平和の象徴とか思っている鳩を食べるフランスの人がいると聞いても、水槽から蛇を取り出して捌いてつくるお粥や、市場では生きたカエルの頭をその場で切り落として新鮮さをアピールする光景を見た香港でも私の感想も「信じられない」という域を出ません。それを「止めなよ」という権利もないと自覚しているからこそ、逆に私も「止しなさい」と言われる筋合いのものでもないと思うのです。

好き嫌いとは別ですよ。それは感情ですから当然色々な気持ちになるでしょう。
だからといって、香港の市場でカエルを捌いている人に「もう止めて!カエルが可哀相だよ!」とか「止めなよ、そんなの食うなんておかしいよ」なんて言わないのです。それはお互い様だからです。「よく食べられるね」とか「俺も食ったことあるけどそんなに美味しい?」止まりの意見交換に留めるべきです。お互い様なんだから。

自分達が何でもないと思っていることが他の人からみれば不快だと思われていることも理解しています。
生で魚を食べることが衛生的ではないとたぶん思われていることも、牛を神格化しているヒンズー教の人々の代表料理のカレーに、他の国(他の宗教or無信仰心)の我々はその牛のお肉を加えてビーフカレーとかを考えちゃったりもすることも、成体の羊(マトン)よりも子羊(ラム)の方がやわらかくて美味しいとかいう好みそのものも振り返って考えてみれば、残酷だし、申し訳ない部分もあるけど文化が違えば仕方がないことなんじゃない?ということです。

それが人間の多様性であるわけなんです。あさりを生きたまま砂を吐かせ、それが終わったら、生きたまま茹で上げて蓋を開かせるとか、新鮮とか新鮮じゃないとかいう価値観とか。。。。調理行為そのものや調理をされるものを前にした言葉は全て罪深く残忍なものです。イルカの捕獲など見ればおそらく残忍な光景なのでしょう。それは分りますが、あくまでも他のものへの気持ちと同じだと言いたいのです。お互いに全ての食物に感謝の念を持っているという前提であれば、分かってもらえると思います。

まぁ少し前に日本でも子供に子豚を飼育させて、その成長した豚を食べようという授業があったけど、あれも少しずれていると思うんですよね。。。
まず、私は自分の子供を場に連れて行ったり、今回のイルカの猟の映画を見せるかと問われれば、私は絶対見せませんよ。それはですね、まだ好悪がそのまま善悪とすり替わってしまう脆弱な精神年齢の子供の保護者である私は、それ分別できるようになるまでは「命の大切さ」とか「食事の大切さ」とか「感謝の気持ち」をしっかり言葉で伝え、ちゃんと食事の前には「いただきます」と言うことの意味を考えさせるようにしますよ。そして自分でしっかりと「この世の中にはいいこととわるいことの2つしかないわけでもないし、全てが正解か不正解かというわけでもない、自分にとって良いことが他人にとってもいいこととは限らない」ということなども理解をできるようになっているかを考えた上で見せるようにしますよ。食事が出来なくなるようなトラウマをこんな時期の子供に与えるつもりはありませんし、誤った感覚を植えつけてしまうかもしれないことから遠ざけます。
子供の頃、ボーイスカウトで鳥を絞めることを経験した友達が、ひどいトラウマになっていたことを覚えていますから、子供の教育には時期があると考えています。

あとですね、あの子豚を育てさせた授業は「畜産を手伝わせたのか、愛玩させたのか」に少し錯誤があると思うのです。自分自身が名前を付けて飼った動物を食することというのが子供の心にどこまでの深い傷となってしまうかは考えればわかることです。チーズを作ったり飲むための乳を搾るために育てていて、決して食肉用で育てたわけでもないのに飼い主に潰されるとなったのが、ハイジにでてくるユキちゃんでしたね。それはそれで可哀相な状況です。最後はハイジとペーターの努力でお乳がでて大丈夫だったんですが。。。。だから嫌悪感やら可哀相という感情を抱くことはありますよ。でも止めることはしません。この年齢までくればそういう考え方(処し方)もあるのですね。。。。となる程度です。そこでの生活ですから。ハイジの可哀相とする感覚を分かりもするけど、同時に潰すしかないと判断せざるを得ない状況を飼い主にも認めざるを得ないのです。そして子供のハイジにその状況が突きつけられてしまうことは避けるべき内容だと感じ、人間の罪深さを十分に踏まえた上で、飼い主の考えを尊重しないと人間が定義している家畜という概念が成り立たないとも考えるのです。

これが今のありのままの私なので仕方がないのですが、サイボクという場所に行って、囲いにいる子豚を可愛いと思って見た後に、となりのレストランで平気な顔して美味しく豚肉を食べることも、ウインナーを買うことができます。だからイルカのショーを見て可愛いと思うことも当然ありますし、イルカを食べて美味しいと思う自分もいるわけです。こういうことを信じられないと思われることがあることは十分理解しているつもりです。こういう私にあなたが嫌悪感を持たれることがあっても仕方がないことです。でも私は逆に例えあなたの中に特異な食習慣があったとしても、同じようにそういう部分はたとえ嫌いではあっても人間の多様性の一部とという部分では受け入れるつもりです。だから自分自身を含めた人間というものの業の深さ全てを認識するという立場に立とうとしています。「お互い罪深いね」ということであれば受け入れられる内容ですし、当たり前なので映画などの作品として作ることは無意味だと思っています。

あと映画の主張の中に、どうも「イルカ肉は水銀に汚染されていて」ということらしいですが、食物連鎖の頂点にいる人間がそういうものを免れられるとでも思っているんでしょうか?イルカの肉に水銀が溜まるということは捕食しているイワシやアジなどの小魚にも水銀があるということでないと成り立たないのです。それじゃあマグロも食べさせないとか、アジの開きとか海産物はおおよそ全てのものを食べさせないとはならないとおかしい話です。水銀をばら撒いてしまった(ばら撒いている)人間の経済発展の反対側で犠牲になってきた環境汚染への罪深さを批判するならともかく、一方的にイルカの肉を食することが危険などというのは偏った情報は止めるべきだと思います。こういう情報で納得させられたりしているのか!と思うとどんどんきつくなっていきます。それほど頻繁に食卓に上がることもないものをどれほど摂取すると危険なのでしょうか?金目鯛の騒ぎのときから、不思議でならないのです。
☆その海産物を多く摂取する日本人の平均寿命が女性世界1位、男性世界で5位だそうです。医療の発達や、出産の技術の向上、幼児への手厚い医療体制(子供の死亡は平均寿命を下げると考えます)などもあるかもしれませんが、食習慣がおかしいということはないと思います。


ハンティング、もし無駄な殺生というものが存在するというのならば、その最たるものが食に繋がらない趣味の狩猟ですが、これにだって色々な主張、文化的な背景があると思います。猟が男性の威厳となっている文化だって存在していると考えられるからです。スペインの方々が闘牛をされるじゃないですか?私は深くその文化を知りもしないで単純にそれを非難することはできないし、するつもりもないのです。他の文化圏の人達は、”OLE”の掛け声を発する人達が信じられないと思うかもしれないし、観ていて吐いちゃう人もいるのでしょう。これについてはすぐに理解できないことや別の価値観があるということを思うだけです。人間には残忍な素養がないわけではなく、運良くそれと関わらずに生きてこられている人とその環境と価値観の中で生きている人との違いなだけです。色々な視点でお互いを眺めてみてみれば誰もが全てを免れて生きていられるわけでもなく、延長線の上だと思います。私は子供の頃、蟻を踏み潰している弟を注意して、親から逆に注意することを止めるように言われて育ちました。当時、私の価値観を幼い弟に無理に押し付けることはいけないこととして教わりました。


そして、、、、ハンティングの分野で一番手軽なのがフィッシングで、これが何故スポーツとして成立するかというと「魚は悲鳴を上げないからだ」と聞いたことがあります。痛点がないから針は平気とか、いやそれはないってという意見も逆にあったりします。魚にとっては痛い痛くないということよりも生命を脅かされること、そのこと自体なはず。論理は痛い痛くないという次元での話ではありません。自分の中のハンティング的な素養を認めないわけにはいかない行為です。こういうことに対しても、人それぞれ色々な贖罪な方法を取ることでしょう。食べるという業でその命に報いるということとする考え方もあれば、(一方で逆に畜産のものは食べないようにしていた人もいました)、リリースするということを常に行う人もいるでしょう。私は釣り上げた魚、ワカサギは釣ったらありがたく頂きます。上記のような行為をとることも、たとえばそういった行為もせず、かつベジタリアンというスタンスを貫くなどのことも全ては各個人のスタイルに過ぎず、それは文化とは異なり、個人の中に主張はあるにしても、それで人を喝破したり、屈服させたりする論理を構築できるものではありません。境遇についても同じです。それは他の人の境遇も考慮すべきなのです。


「映画を観ないで意見を言うな」というのであれば観ますけど、そうそう考えは変わらないと思います。私は好き嫌いからの意見の押し付け合いは不毛だと思っているだけですから。世界の中で人間という生き物がどれだけ他の命を顧みない冷酷な存在なのかを思い知ること(蚊取り線香やゴキブリホイホイから罠や網、などから始めますか?動物園や家畜、最後は動物実験まで?)をお互いにあげつらっていったら、一晩の上映でも足りないくらいの価値観が「お互いから」飛び出してくるでしょう。人間の食や生活とその犠牲を問題視するということはとても一方的な感情で主張されるものではないと思うのです。だからそれを扱う場合、公平な誠意をもってあたりたいものです。だからそのようなフィルムはつくってほしくはないと心から思っています。

本当に長文を失礼いたしました。
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