萌えてばかりもいられない!

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「火天の城」の城跡を訪ねて。。。(安土城跡)

2011-08-16 04:11:04 | お出かけの記録
8月14日はホテルに泊まったので、15日の朝は二度寝するなど遅い出発となった。

目的地は鼓川温泉で一旦決めた最終目的地の「安土城跡」。最近読んだ火天の城の舞台である。
元々滋賀県を訪れたことがなく(通過することは数多くあれど)、少し前の日経新聞の土曜日版の「行ってみたい史跡ランキング」で1位だったのが、安土城跡だったからだ。
恵林寺は8位くらいに入っていた。

そう、この恵林寺と安土城の2つを結びつけ、途中それ以前の居城であった岐阜から安土を目指すルートを引いたのが、一番初めの旅の計画だった。
恵林寺までを一般道で行くことができたので、出来れば「全て一般道を使い、当時の距離感を感じながら」安土を訪ねてみようと思いついた。それが鼓川温泉で思いついた、もうひとつの旅のルール。
「上高地から奥飛騨に向かうところで綺麗なトンネルを通ったら有料だった」ところ以外、安土までは一般道で来れている。

岐阜から安土に向かった昨日は、殊の外疲れていたようで、途中彦根TS(トラックステーションの略だそうです)で仮眠を取ろうと立ち寄った。入浴も食事もできると書いてあったのだが、やっていなかった。続々と入場してくるトラックも事情を知っているようでトイレに立ち寄っては自分のトラックに戻って皆さん仮眠を取られていた。自分もエアコンをかけたまま1時間くらい目を瞑る。

で、岐阜からこっち国道1号線辺りから気づいたこと。

それは、、、岐阜以西、まぁ山から下りてきたのが岐阜だったからこれより東が違うとも言い切れないんですけど、

こっちの地域は右折車の右折タイミングが異常に早いこと!!
車間距離を少しでも開けていると、直進車にブレーキを踏ませるタイミングでもでてくるので非常に怖い!

私はしっかり車間を開けるので、(はっきり云って)飛び込みじゃないか!と思われる一歩手前くらいのタイミングで右折したり、進路進入してきたりするので、運転はかなり慎重になりました。

安土城址、着くと大変な混雑って程でもなく、それこそ色々な地域の車のナンバーを見かけることになりましたが、駐車場も満ぱんってことでもなかったです。かなり埋まってはいましたが。。。

城跡は昭和に入って放置されていたところを発掘調査したものだそうです。

階段はかなり急で本丸跡まで登り詰めるのには、水分が必要です。杖が貸し出されていますので、借りたほうがいいです。
途中の日陰がとてもいい休憩場所になります。
本丸からの眺めはこれより上にあったであろう城を想像しても稲葉山より高いことはないと思います。
ただ、最近の調査の結果、安土城はかなり複雑な構造を持っていたようで、どうも二の丸と本丸が建築物で覆われていたのではないかということらしいです。
本丸にいくまでは建物の中の回廊を上っていく地下からの階段を上っていくので本丸そのものの高さと相まって幾層の城なのだと錯覚してしまう造りになっていたらしいです。



火天の城を拝読された皆さんは、蛇石のことを覚えていられるかと思います。巨大な石を懸命に頂上まで運び、運搬中に事故が起きてしまうというあの石。二の丸より上の本丸辺りの石垣がかなり大きく組み上げられていましたが、蛇石そのものは見当たりません。「信長公記」やフロイスの書いた「日本史」にも出てくるようですからあったことはあったのでしょう。。。。埋まっているのか、破壊されてしまったのか。。。想像すると面白いです。

帰りは総見寺の方を回って降りていきます。

その後、安土城考古博物館と信長の館に寄りました。
そこで自分へのお土産として、「天下布武」Tシャツと「天下布武」印鑑を購入してきました。(笑)
誰も買っていないので、逆にレア?とか思いながら。。。


さぁその後です。

次の目的地は恵林寺の時に薄っすらあって、安土に来て鮮明に思い描けました。(最終目的地変更です、すいません)

源義経元服の里といわれている、道の駅滋賀県竜王町かがみの里で夕飯を取りながら、行程を考えました。
普通に訪ねるのではなく、その道を辿りながら行くのです。
大文字焼きの京都に15日に入ることはかなり危険を伴うことから少し行程を考え直した次第です。そう最後は京都です!


恵林寺から安土まで来て、思いました。織田勢が僧侶を山門に閉じ込めて焼き払ったことを。
この道程(みちのり)は余りにも長いのです。武田を破り、織田勢が敵将(六角氏)が匿われているであろう寺をも包囲することは容易に考えられます。その苛立ちは最高潮に達していたことでしょう。
信長を初め織田勢は宗教や権威を怖れません。畏れないと書いたほうが正確かも知れません。快川紹喜(かいせんじょうき)和尚の名言「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し(火も自ずから涼しの説もあり)」は、その武を持って律を立てる畏怖政治(ある意味独裁)に対して傲然屹立した態度で迎え撃ちます。

ただ、当時の寿命、距離感覚、時間感覚、国土統一という目標、総合して自分達の余命、周辺環境への配慮。。。。それらを勘案して考えるとお互いの立場に思いが募らざるを得ません。



自分の幼少の頃に、信長といえば桶狭間という記憶だけと少し前に書きましたが、もう一つ覚えていたことを思い出しました。
それは父信秀の葬儀の時、信長は位牌に向かって抹香を投げつけるという蛮行を演じています。(怖い・・・)


そして信長ほど謀叛を招いた殿様もいないでしょう。


今私は京都府亀岡市に居ます。京都の街を一旦通過してきました。丹波亀山城のある場所です。
今この記事はその近くのネットカフェで書いています。


私の家の家紋は「丸に桔梗」です。土岐氏の系列?
坂本龍馬も桔梗文だったようです。
もうお分かりですね?


少し眠ってから出発します。
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