先週末は、日本最古の道と呼ばれる奈良の山の辺の道を歩いてきた。周囲を小高い山に囲まれた奈良盆地。古代、その東に連なる美しい青垣の山裾を縫うように、三輪山の麓から石上布留を通り、奈良へと通じる道があった。「日本書紀」にその名が残るのが「山の辺の道」だ。山の辺の道沿いには、今も「記紀・万葉集」ゆかりの地名や伝説が残り、数多くの史跡に出遭え、訪れる人を「古代ロマンの世界」へと誘ってくれる。
1日目は、北コースと呼ばれる奈良から天理までの区間だ。一般的に「山の辺の道」とされているのは、景行天皇陵・箸墓古墳・大神神社などを経由しながら天理市内~桜井市内を結ぶ南側のルートであり、天理市街地より北側、奈良市内からのルートについてはそれほど知られた存在ではない。だが、風景自体は奈良盆地を望む眺めや、盆地の東端部の農村風景・里山の風景をじっくりと味わいながら歩き、「ありのままの奈良」を楽しめるコースだ。
まずは、近鉄奈良駅に集合する。あいにく朝から雨となり、駅前でカッパを着て歩き出す。
奈良公園近くに来ると、やはり鹿の群れに出迎えられる。
奈良国立博物館のなら仏像館。
氷室神社まで来ると、もう桜が満開だ。
そのまままっすぐ進み春日大社に入ると、二の鳥居近くの「祓戸神社」のすぐそばにある春日大社伏鹿手水所(ふせしかのてみずしょ)に出る。
この手水所は、奈良を象徴する存在であり、かつ「神の使い」として大切にされてきた「鹿」をモチーフにした珍しいものだ。巻物をくわえた鹿の口の部分から水が流れ出るようになっており、ひしゃくでその水を受けた上で両手を清める。
参道を進み、春日大社に参拝していく。
春日大社を抜けると、人出も少なくなり、静かな道となってくる。
山の辺の道の案内標柱が出てきた・
田舎道に入ると、鹿よけの柵が所々に出てくる。
八坂神社まで来た。この辺りまで来る観光客はほとんどいない。
ため池の前には、万葉の句碑が建っている。
崇道天皇陵(すどうてんのうりょう)に立ち寄る。
崇道天皇は生前の名を「早良親王」と言い、光仁天皇の皇子として生まれたが、最終的に藤原種継暗殺の謗りを受け、無罪を立証するために淡路の地へ配流の途中絶食し息絶えたとされる悲劇の皇子だ。その祟りを鎮めるために死後崇道天皇と追称され、大和に改葬されたことが崇道天皇陵の由来と言われている。すなわち、早良親王は歴代天皇には数えられていないにも関わらず祟りを恐れ「天皇」と呼ばれる特異な存在となったという。
崇道天皇陵の前池の横に立つ歌碑。八嶋国(ヤシマクニ) 妻(ツマ)枕(マ)きかねて 春日(ハルヒ)の 春日(カスガ)の国に 麗(クハ)し女(メ)を 有りと聞きて・・・・・。勾大兄皇子(マガリノオオエノミコ=安閑天皇、継体天皇第1皇子)の春日皇女(カスガノヒメミコ)への求婚歌だという。
静かな山道を進むと、円照寺の山門が見えてきた。
円照寺は、山の辺の道からは少し外れており、非公開となっていたが、ちょっといい雰囲気なので庭園だけ覗いていく。
ここにも大きなため池があった。
小さい時計台の前を曲がる。
弘仁寺。山の辺の道沿いにある弘法大師ゆかりの山寺だ。
田園地帯ののどかな農道の中を歩く。
天理市内に入ってくると、天理教の施設が目立ってくる。ここは、静岡県の信者用の施設なのか?
石上神宮(いそのかみじんぐう)にお詣りしていく。ここも伊勢神宮と同様に我が国最古の神社のひとつに数えられ、「古事記」、「日本書紀」にも記載されている非常に古い歴史を持つ神社だ。かつての豪族・物部氏の総氏神であり、物部氏滅亡後は大和朝廷の武器保管庫だったと伝えられている。
境内には、色鮮やかな羽根を持つ東天紅(とうてんこう)や小国(しょうこく)などの鶏約40羽が放し飼いにされている。鶏は夜明けに鳴いて時を告げることから、昔の人々は神聖視したとされ、石上神宮でも「神の使い」として敬われているそうだ。
石上神宮の鳥居を抜けると天理教教会本部方面に向かう。
天理教の本部は広大な敷地に巨大な施設が広がっている。天理教において人間創造の聖地とされている「ぢば」を中心に、四方に礼拝場(らいはいじょう)が建てられている。天理教は、日本全国・世界に100万人以上の信者がいると言われているそうだ。雨の中でも、草むしりをしている信者が何人も見受けられた。
本部を抜けると、天理駅まで一直線に屋根のあるアーケードの商店街が1キロも続いている。天理教の法被を着た信者が至る所で見られ、一種異様な雰囲気を感じる商店街を歩き、この日の宿の旅館に着いた。
参考1.1日目の高低図&コースタイム
参考2.1日目のコースマップ
「2022奈良・山の辺の道ウォーク:2日目前半」に続く。
1日目は、北コースと呼ばれる奈良から天理までの区間だ。一般的に「山の辺の道」とされているのは、景行天皇陵・箸墓古墳・大神神社などを経由しながら天理市内~桜井市内を結ぶ南側のルートであり、天理市街地より北側、奈良市内からのルートについてはそれほど知られた存在ではない。だが、風景自体は奈良盆地を望む眺めや、盆地の東端部の農村風景・里山の風景をじっくりと味わいながら歩き、「ありのままの奈良」を楽しめるコースだ。
まずは、近鉄奈良駅に集合する。あいにく朝から雨となり、駅前でカッパを着て歩き出す。
奈良公園近くに来ると、やはり鹿の群れに出迎えられる。
奈良国立博物館のなら仏像館。
氷室神社まで来ると、もう桜が満開だ。
そのまままっすぐ進み春日大社に入ると、二の鳥居近くの「祓戸神社」のすぐそばにある春日大社伏鹿手水所(ふせしかのてみずしょ)に出る。
この手水所は、奈良を象徴する存在であり、かつ「神の使い」として大切にされてきた「鹿」をモチーフにした珍しいものだ。巻物をくわえた鹿の口の部分から水が流れ出るようになっており、ひしゃくでその水を受けた上で両手を清める。
参道を進み、春日大社に参拝していく。
春日大社を抜けると、人出も少なくなり、静かな道となってくる。
山の辺の道の案内標柱が出てきた・
田舎道に入ると、鹿よけの柵が所々に出てくる。
八坂神社まで来た。この辺りまで来る観光客はほとんどいない。
ため池の前には、万葉の句碑が建っている。
崇道天皇陵(すどうてんのうりょう)に立ち寄る。
崇道天皇は生前の名を「早良親王」と言い、光仁天皇の皇子として生まれたが、最終的に藤原種継暗殺の謗りを受け、無罪を立証するために淡路の地へ配流の途中絶食し息絶えたとされる悲劇の皇子だ。その祟りを鎮めるために死後崇道天皇と追称され、大和に改葬されたことが崇道天皇陵の由来と言われている。すなわち、早良親王は歴代天皇には数えられていないにも関わらず祟りを恐れ「天皇」と呼ばれる特異な存在となったという。
崇道天皇陵の前池の横に立つ歌碑。八嶋国(ヤシマクニ) 妻(ツマ)枕(マ)きかねて 春日(ハルヒ)の 春日(カスガ)の国に 麗(クハ)し女(メ)を 有りと聞きて・・・・・。勾大兄皇子(マガリノオオエノミコ=安閑天皇、継体天皇第1皇子)の春日皇女(カスガノヒメミコ)への求婚歌だという。
静かな山道を進むと、円照寺の山門が見えてきた。
円照寺は、山の辺の道からは少し外れており、非公開となっていたが、ちょっといい雰囲気なので庭園だけ覗いていく。
ここにも大きなため池があった。
小さい時計台の前を曲がる。
弘仁寺。山の辺の道沿いにある弘法大師ゆかりの山寺だ。
田園地帯ののどかな農道の中を歩く。
天理市内に入ってくると、天理教の施設が目立ってくる。ここは、静岡県の信者用の施設なのか?
石上神宮(いそのかみじんぐう)にお詣りしていく。ここも伊勢神宮と同様に我が国最古の神社のひとつに数えられ、「古事記」、「日本書紀」にも記載されている非常に古い歴史を持つ神社だ。かつての豪族・物部氏の総氏神であり、物部氏滅亡後は大和朝廷の武器保管庫だったと伝えられている。
境内には、色鮮やかな羽根を持つ東天紅(とうてんこう)や小国(しょうこく)などの鶏約40羽が放し飼いにされている。鶏は夜明けに鳴いて時を告げることから、昔の人々は神聖視したとされ、石上神宮でも「神の使い」として敬われているそうだ。
石上神宮の鳥居を抜けると天理教教会本部方面に向かう。
天理教の本部は広大な敷地に巨大な施設が広がっている。天理教において人間創造の聖地とされている「ぢば」を中心に、四方に礼拝場(らいはいじょう)が建てられている。天理教は、日本全国・世界に100万人以上の信者がいると言われているそうだ。雨の中でも、草むしりをしている信者が何人も見受けられた。
本部を抜けると、天理駅まで一直線に屋根のあるアーケードの商店街が1キロも続いている。天理教の法被を着た信者が至る所で見られ、一種異様な雰囲気を感じる商店街を歩き、この日の宿の旅館に着いた。
参考1.1日目の高低図&コースタイム
参考2.1日目のコースマップ
「2022奈良・山の辺の道ウォーク:2日目前半」に続く。