「童子」で募集していた千字評論賞へ応募し、今年1月号に秀作として掲載していただいたものです。今「カミと神ーアニミズムと宇宙の旅(岩田慶治)」という本を読んでいて(古い本です。岩田慶治さん、最近亡くなられました。いや、難しくって10分の1も理解できない……)、自然、アニミズムなどのことを、乏しい頭で考えたり、感じたりしています。するとふと、この「虚子の一足」もまた自然への畏敬、神への畏敬ということを書いたものだったと思いだしたのでした。「童子」以外の方で、このブログにおいでくださっている方でも、興味があったら、読んでみてください。千字といっても、原稿用紙3枚ということだったので、1200字です。(雲海は夏、登高は秋です)
*先日友人にこの評論を読んでいただいたところ、冒頭で、え? という感じだったみたいです。俳句をやっていない方にとっては、いきなり「雲海の本意は」という出だしに戸惑われるかもしれません。申し訳ありません。日頃、「季語の本意」というのをよくよく言われているもので、そこをすっとばして書いています。本意というのは、本来の意味(←そのまんま)、朝寝という春の季語がありますが、ただの寝坊ではなく、艶のある季語、恋を感じるべきものということだそうです。春の季語には、すべて恋の季節というものが根底にあるとか、秋の季語には寂しい、わびしいが本意としてあるとか。そんな感じです。
「虚子の一足」
雲海の本意は、山開き後、山に登って眼下に雲の海を見ること。とすれば、やはり飛行機から見る雲海は、季語の本意からはずれているということでしょうか。先生は、飛行機の窓から見る雲海を季語と見なしますか?
日頃疑問に思っていたこの件を主宰に尋ねる機会を得、主宰からは次のような答えをいただいた。
山開きは、神事である。山神に敬意を表し、山に入るお許しをいただくもの。山開という季語を使うには、そこを踏まえなくてはいけない。ほとんどの季語は、つきつめると神への畏敬、自然への畏敬が根底にある。雲海もしかりで、山から見た雲海であっても山神への敬意のないものは、季語の本意を捉えているとは言い難いし、また逆に飛行機から見た雲海でも、神への敬意を持って作ったものは、季語の本意に即しているといえる。俳句を作るときは、その本意を逆手にとって、ひっくりかえすということもあるが、その場合にしても根底は同じである。
『いちばんわかりやすい俳句歳時記』でも、
「山開」には、「昔の登山は信仰行事で、登拝の解禁を山開と言った」と記してある。『カラー図説日本大歳時記』(講談社)は、「往時わが国の霊山は山岳信仰の徒によって守られ、一般の人は山に入ることができなかった。それが夏期にのみ解放される習慣があり、それがお山開きであり、また山仕舞いの行事があって山は閉じられた」とある。
榊にて外天を祓ふ山開 平畑静塔
他にもわかりやすい例を一つあげたい。
登高。高きの登るは、「重陽の日に高い山や高い処に登って厄災を祓った中国の古俗。赤い袋に薑を入れ、菊酒にひたし、『茱萸の酒』と言って飲んだ」(『わかりやすい俳句歳時記』)。「高い処」が、神に近いからだ。『カラー図説日本大歳時記』では、加えて「日本においては、今はこのようなことは行われていないが、秋晴れの一日、近くの野山に一家団欒のハイキングをこころみたり、グループでの登高が行われたりする。そういう意味からも季語として生かされているのである」と付記している。ここで思い浮かぶのは、
一足の石の高きに登りけり 虚子
という句だ。庭か川原か、沓脱石か、何も言っていない。実にシンプルで、象徴的な句だ。
わざわざ山に登りはしないが、少し高いところに足を運び、俳人は「登高」という季語を使おうかという心持ちになる。そのとき、穢れを祓うという意識を持つことが大事なのだ。
行く道のままに高きに登りけり 富安風生
雲海にもどれば、かつて実際の山から見たその神々しさは、飛行機からのものとは別ものだった。しかしその経験さえ踏まえれば、いずれスカイツリーへの登高の句、スカイツリーからの雲海の句も可能か。しかし虚子の一足に、スカイツリーの高さは及ばないようにも思える。
登高の最後の巖を登りけり 辻 桃子 (句集『津軽』) *今年この句を刻んだ句碑が青森県南津軽郡、岩木山が見える公園に建立されます。(評論の中にこの句をいれるべきでした)