マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

第4回復興の街・神戸リレーマラソン2014  そして  『三日目に復活する』

2014-08-31 15:21:23 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。
東日本大震災の発生は、2011年3月11日(金)
     改めて、心よりお見舞い申し上げます。
その5ヵ月後。
第1回復興の街・神戸リレーマラソン』 2011年8月18日(土)
     東日本大震災への応援の意味を込めて始まりました。

そして
昨日。8月30日(土)
今年も恒例の開催です。  『第4回復興の街・神戸リレーマラソン2014』

参加料の一部を日本ユネスコ協会子供支援募金に募金します。

    友人が、当大会で、マラソンデビューです。
                   応援に駆けつけました。

午後4時。    『スタート』

神戸の街中の公園を、フルマラソン距離をリレーで、グルグル回って競います。
             復興の街・神戸から、災害を蒙られた皆様へ、笑顔の発信です。
   東日本の皆様!
神戸からの応援の気持をお受け取り下さり、お元気でいらして下さい!
                        

そして。    
今日は、8月最後の主日。8月31日。
            『今日の御言葉』
『イエスは、御自分が必ず、
多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、
        と弟子たちに打ち明け始められた。
それから、弟子たちに言われた。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」』
                          マタイ福音書 16章21&26節

イエスは、
『今日の御言葉』で、『キリスト教の真髄』=『神の計画』 を述べます。
弟子たちは、
イエスから、初めて 『神の計画』 を打ち明けられ、理解できなくて、戸惑います。

そこで。
      『今日の御言葉』は続きます。
弟子たちのリーダーのペテロは、
『キリストの打ち明け言葉』を聞いて、イエスをいさめ始めます。
  『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』と。
     すると・・・
イエスのペテロへの答は、驚く内容です。
  『サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者。
     神のことを思わず、人間のことを思っている。』 と。
                          マタイ福音書 16章22&23節

  そんな 『今日の御言葉』 を、ご一緒に考えてみましょう。
      よろしくお願いいたします

まず。
皆様!                   
     想像してみて下さい。 考えてみて下さい。
友人が、突然に、あなた様に打ち明けるのです。
 『僕ね~。 多くの苦しみを受けて殺されちゃうの。 でも、3日後には復活するよ。』 と。
あなた様も、きっと、友人に、ペテロと同じ『言葉』を言いますよね。
   『友よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』 と。
     そんな時に・・・
友人は、答えるのです。
   『サタン)、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者。
     神のことを思わず、人間のことを思っている。』 と。
『友の答』 を聞いてたら、誰でも、戸惑いますよね。 当然ですよね。 理解できないですよね。
 (ちなみに。サタン。カトリック教会では、神の計画に反対する諸々の動きや心の傾向を、こう呼ぶことがあります。)

では。
『多くの苦しみ』とは何を意味するのでしょう? 『殺される』とは? 『三日目に復活する』とは?     
     そして
『全世界を手に入れる』 以上に得のある 『自分の命』 は何を意味するのでしょう?    
     その意味を・・・
クリスチャン(西方教会)が信じる『使徒信条』 の中に見出します。

    『使徒信条』 の 『二ケアコンスタンチノープル信条』     
  『わたしは信じます。
唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
  わたしは信じます。
唯一の主イエス・キリストを
主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。すべては主によって造られました。
主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、
人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、
聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
その国は終わることがありません。
  わたしは信じます。
主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会信じます
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望みます
                                  アーメン。』

      『二ケアコンスタンチノープル信条』によれば・・・    

『多くの苦しみ』 と 『殺される』 とは?
 『ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、』 ることです。
イエスは、
『御父と離れてこの世に住むようになった人類』 の原因となった 『人類の原罪の贖罪』 となることを決意したのです。
      『神の計画』 を納得して・・・『贖罪』となることを受け入れたのです。
   御自分の命を、神と人類との和解のために、『十字架上の苦しみの死』 に使いました。 
         その結果・・・『葬られました』。

次に。
『葬られ』とは?
   『陰府』 に降ることです。
『陰府』 とは、
『地獄』でも 『煉獄』 でもありません。 旧約の時代には、『死者全員が行く所』 でした。

そして。
『三日目に復活する』とは?     
   サタンに邪魔されることなく・・・
『神の計画』 が実行されたことです。 『計画』は無事に成就しました。
イエスは、死の三日後に、『陰府』から復活し、『天に昇り』、全人類に 『救いの道』 を開いたのです。

更に。
『自分の命』とは?
神と先人達と共に永遠に居ること。 二度と 『死』 に出会うことのない 『永遠の命』 です。
   『救われる道』 が 『キリストの十字架の上の死によって成就』 したのです。
『人類の原罪』 ゆえに 『御父と離れてこの世に住むようになった人類』が・・・
     『キリストの十字架上の死による贖罪』 のお蔭様で、
  『御父の元に帰り、永遠に、御父や先人達と共に住む』 ことになったのです。
キリストを信じることによって、死後に、『天に引き上げられる』 ようになったのです。

   人は、
 この世での数数の苦しみに後に・・・『永遠の命』を得る。
    キリストは、身をもって、その道:『救いの道の門』 を開いて下さったのです。

   以上。
主日の今日。私が、ミサ前に『今日の御言葉』を読み、考えたことの一部でした。
             長々と。お粗末様でございました ありがとうございました

  ここからは・・・
今日のミサでの 『お説教』 です。
  『今日の御言葉の真髄』 を理解させて頂いた 『説教』 です。 
     ご一緒に、御拝聴下さい! 

『神学生の頃に、生まれつき体が不自由な50代の男性の食事などの介助をするボランティアをしていたことがあります。
週に2度ご自宅を訪問していました。
その方はクリスチャンではなかったのですが、ある日の食事の時に、
  「十字架の意味を知っているか」と尋ねてこられたことがありました。
私は神学生になりたてで、間違ったら恥ずかしいという思いがあって、言葉を濁していたら、
  その方が「十字架の意味はね」と話し始められました。
そして「最後まであきらめずにがんばれば必ず願いは適うということだ」と教えて下さいました。
  この男性が実際に背負ってきて、見出した十字架の意味のように思えて、
   心に残っていたんですが、今日の福音を読んでふと思い出しました。

今日の福音の中で、
イエス様は、ご自身がこれから十字架の道を歩むだろうことと、その後の復活を、
              弟子達に予告しています。
   この予告は、
十字架と復活が表裏一体であるということを表しています。
   そしてそれは、
復活に至る為には十字架の道を歩まなければならないということでもあります。

私たち人間は誰しもそれぞれの十字架を背負って生きているものです。
たとえば自分自身の性格や身体的なこと、家族や仕事、病や人間関係などが挙げられると思います。
  それらを十字架として背負いなさいとイエス様がおっしゃるのは、
その十字架のうちにこそ、既に後の復活の栄光、喜びの糧があるからです。

では、私たちが今それぞれ背負っている十字架のうちにある喜びとは一体何でしょうか。
    そのうちの一つは、他者への共感があると思います。
共感とは他者とつながるということです。互いに一人じゃないことを知ることです。
    苦しむ他者への共感は、
自分自身が十字架を背負って、その重みを体験することで初めてできることです。   
    イエス様が十字架を担われた理由は、
私達ひとりひとりと繋がって、共に十字架を担おうとされたからではなかったでしょうか。

    他の喜びの種は、
置かれた状況の中で、たとえそれが絶望的であったとしても、光を放つ喜びではないでしょうか。
    先日、分かち合いの中で、
入院されたある信者さんが命も病も神様に委ねていますと言って、平然としておられたという話を伺いました。

  つくづく人間とは誰しも素晴らしい存在だなと思います。
    なぜなら神の似姿として作られた人間は、
十字架を担い、救いの光を放ったキリストの姿に、わずかにでも似て、輝くことができるからです。

    今、私たちそれぞれが担っている十字架。
その十字架のうちに復活の希望、喜びの種を見出すことができますように。 祈ってまいりましょう。」

   以上。
 助祭様の『説教』でした。  拝聴できたことを感謝した次第です
   素晴らしい説教で…説教のメモをお借りして…ほぼそのままに書きました。
      皆様のお心にも、深く染み入ったことと存じ上げます。
  苦しみと悲しみの日々。相手の心を完全に共感できることはないとしても、
         寄り添いあって励ましあって、最後には『自分の命』に到達しましょう!

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
自分の十字架を担って・・・十字架のうちに『喜びの種』を見出して、日々輝いていましょう!