マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

過越の三日間・・・『聖木曜日』・・・仕える者となって・・・『洗足式』・・・『イエスは、弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。』

2021-04-01 19:00:00 | 待降節。クリスマス。降誕節。四旬節。聖週間。復活節。
4月1日。木曜日。快晴。

        今日から 『主の過越の聖なる三日間』 です。
         今日は、 『主の過越の聖なる三日間』の初日、 『聖木曜日』 です。

    『神の国』 の訪れを言葉と行動をもって現されたイエス・キリストは、
   

         受難と死を通して、復活の栄光に移られました。
            これが 『主の過越』 です。
       『主の過越』を記念する祭りが、年に一度、祝われます。
            これが 『復活祭』 です。


            4世紀末のエルサレムの人々は、
       キリストの受難の出来事を、伝えられているとおり、
            できるだけ忠実に記念しようとし、
     その日、その場所に集まり、その時の出来事を朗読して祈りました。
 その印象的な典礼を、 実際に体験した巡礼者たちが、 各地に伝えたこともあって、
        『聖週間』の典礼は次第に全教会で祝われるようになりました。


 
 2019年4月18日。聖木曜日。  フランシスコ教皇『主の晩餐ミサ』   ヴェッレトリ刑務所


    聖木曜日のミサでは、イエスが最後の晩さんの前に、愛と奉仕の模範として、
       自ら弟子たちの足を洗ったことにちなんで、『洗足式』が行なわれます。

 2019年『聖木曜日』の午後、教皇フランシスコは、ローマ近郊ヴェッレトリの刑務所を訪問。
           所内のホールで、『主の晩餐の夕べのミサ』 を司式され、
       その『洗足式』で、 12人の受刑者の足を洗い口づけをされたのです。


そして。

今日は4月1日。聖木曜日。

          『主の晩餐の夕べのミサ』

     聖木曜日の夕刻に行われるこのミサでは、
   キリストが『聖体』を設定し、自らの記念としてこれを行うように命じた
      『最後の晩餐』 を直接に記念します。

   共同体全体が一つに集まって、 同じ一つのパンを分かち合うことによって、
  
                                 『我が教会での聖体拝領』
         キリストとの一致を深く味わいます。

      4世紀末のエルサレムでは、 
   聖木曜日の夕方にミサが行われ、 信者は全員『聖体』を受けました。
         ミサが終わると一同は、 家に戻って食事をした後、
      夜7時にオリーブ山 に集まり、 聖書朗読と詩編による祈りを行いました。
 
           『ゲツセマネの園(オリーブ山)で祈るイエス』        ゴーギャン作品
        ゲツセマネの祈りは、イエス・キリストがオリーブ山の麓にあるゲツセマネの園で
            十字架刑に処せられる前夜・聖木曜日に祈った祈りです。
  
  
    そして真夜中を過ぎた頃に、 今度はキリストが捕らえられた場所に集まって、 
         その出来事を聖書から朗読し、キリストの受難を思い起こして
               涙を流したことが伝えられています。

   

  
『今日の入祭唱』

 『このわたしたちには、
  わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、
       誇るものが決してあってはなりません。
  キリストのうちにわたしたちの命と復活があり、
       キリストによって私たちは救われた。』

         ガラテアの信徒への手紙 6章14節 参照


『今日の福音 イエスの御言葉』

          『過越祭の前のことである。
 
            『最後の晩餐』     ダ・ヴィンチ作品

      イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、
        世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。


夕食のときであった。
    既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

        イエスは、 父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、
     また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、

     食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
         それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、
           腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。


            シモン・ペトロのところに来ると、
 
   ペトロは、
        「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」 と言った。
  イエスは答えて、
         「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、
             後で、分かるようになる」
  と言われた。
   ペトロが
          「わたしの足など、決して洗わないでください」  と言うと、
   イエスは、
    「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」
                                    と答えられた。
  そこでシモン・ペトロが言った。
            「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
   イエスは言われた。
          「既に体を洗った者は、 全身清いのだから、 足だけ洗えばよい。
             あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

      イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。
          それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。
         「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
     あなたがたは、 わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。 そのように言うのは正しい。
              わたしはそうである。

     ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、
        あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。

  わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」』
              ヨハネ福音書 13章1-15節


         『最後の晩餐』:『聖木曜日』 の夕方
      イエス様は、明日の『受難と死』を知っておられました。
        そこで、
   受難を前にして、イエスは、弟子たちと『最後の晩餐』を共にされたのです。
     イエス様は、弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたのです。
       そして、
     弟子たちに、 『遺言』のように、 最後の教えを語りました。


    弟子たちが食事につく前に、
     イエスは、弟子たちの足元にかがみ込んで、
         彼らの足を洗ってくださいました。
  
    我が教会での司祭による・・・   『洗足式』     数年前です


      こうして、イエス様は、ほこりにまみれの弟子たちの足を洗って、
        弟子たちを、『最後の晩餐』に招いてくださいました。

  こうして、イエス様は、ご自分のなさった『洗足』の意味が分からない弟子たちに、
      ご自分の『受難』 が何のためであるかをお示しになられたのです。

     イエス様は、
     十字架の死にあずかる『洗礼』 によって 『洗い清められる』私たちにも、
         このようにして 『模範』 を示されたのです。

      『互いに足を洗い合う』ようにして、『仕える者』となる『道』
              を示してくださったのです。


私たちも、
お人に仕えることによって、
キリストに倣い、
キリストに出会うことができるといいですね。
祈りましょう。


『今日の祈願』


   『全能の神よ、
 教会が、キリストの死と復活の記念を行うとき、
     救いの力が私たちのうちに働きます。
  この神秘に、いつもふさわしい心であずかることができますように。』


皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
春は、花々も木々も、すべてのものが復活する季節です。
私たちも、素晴しい『過越の三日間』で、新しく、再生いたしましょう!
祈りの三日間にいたしましょう!