理研と小保方女子の件に思う:
deja vuとでも言うのかな。
私は以前からいくら学問や芸術やスポーツ等の分野で、その道で図抜けた実績を残した方々であっても、それが直ちに学会や協会での優れた管理能力か統治能力を表す尺度にはならないと指摘してきた。その良い(悪い?)例は全柔連、スケート協会、相撲協会でイヤというほど見せつけられてきたではないか。
この度の小保方女史のSTAP細胞について(彼女が自分で過ちを申告したと言われる)画像の取り違いに始まって捏造と剽窃の問題の「あれよ、あれよ」という間の進み方を見ていると、遺憾ながらこの案件は何時か何処かで大騒ぎになったと言うか、マスコミが大騒ぎにした、上記の例に酷似している気がしてならない。即ち、後難を怖れずに具体的に言えば、ノーベル賞を受賞されたとか、その分野で有数の研究者ないし権威と言われる方々が管理者として果たして適任であったかという人選の問題である。
何回か言ってきたことだが、私には小保方女史の研究が如何なるものか、正統なものかあるいは理研の権威者が指摘されたような捏造的なものかを判断することな出来る訳がない。だが、マスコミがあれほど褒めそやした研究が彼女が単独で為し得て、誰の検閲も査読もされずに外部(Nature誌)に発表されてしまったものだとすれば、理研そのものの管理能力とは如何なるものなのかと甚だ疑問に感じるのだ。簡単に言えば、世界的なその分野の権威者を管理者に据えたこと自体が適当であったのか、という疑問である。
我々会社の世界でも屡々聞かれた俗説に「優れたセールスマンをその際だった実績を評価して管理職に昇進させたら云々」というのがある。間違っていたら御免だが、この理研対小保方女史の一件がこの説に似ているような気がしてならない。聞くところでは(また、アメリカかと言われそうだが)アメリカのMBAには多くの種類があって、その中には病院経営のMBAもあるそうだ。即ち、お医者様ではない院長がいるということ。文科省もこういうことを考えても良くはないのか。
余談だが、某局では通産を辞めたとか辞めざるを得なかったと言われるコメンテーターの某氏が「理研は新法で割り当てられる研究費を確保するためにそれに相応しい実績を挙げておく必要があり、焦ってSTAP細胞で長打を放とうとしたが、以外にもファウルボールに終わって対策に汲々としているのだ」と穿った見方をしていたのが印象的だった。
deja vuとでも言うのかな。
私は以前からいくら学問や芸術やスポーツ等の分野で、その道で図抜けた実績を残した方々であっても、それが直ちに学会や協会での優れた管理能力か統治能力を表す尺度にはならないと指摘してきた。その良い(悪い?)例は全柔連、スケート協会、相撲協会でイヤというほど見せつけられてきたではないか。
この度の小保方女史のSTAP細胞について(彼女が自分で過ちを申告したと言われる)画像の取り違いに始まって捏造と剽窃の問題の「あれよ、あれよ」という間の進み方を見ていると、遺憾ながらこの案件は何時か何処かで大騒ぎになったと言うか、マスコミが大騒ぎにした、上記の例に酷似している気がしてならない。即ち、後難を怖れずに具体的に言えば、ノーベル賞を受賞されたとか、その分野で有数の研究者ないし権威と言われる方々が管理者として果たして適任であったかという人選の問題である。
何回か言ってきたことだが、私には小保方女史の研究が如何なるものか、正統なものかあるいは理研の権威者が指摘されたような捏造的なものかを判断することな出来る訳がない。だが、マスコミがあれほど褒めそやした研究が彼女が単独で為し得て、誰の検閲も査読もされずに外部(Nature誌)に発表されてしまったものだとすれば、理研そのものの管理能力とは如何なるものなのかと甚だ疑問に感じるのだ。簡単に言えば、世界的なその分野の権威者を管理者に据えたこと自体が適当であったのか、という疑問である。
我々会社の世界でも屡々聞かれた俗説に「優れたセールスマンをその際だった実績を評価して管理職に昇進させたら云々」というのがある。間違っていたら御免だが、この理研対小保方女史の一件がこの説に似ているような気がしてならない。聞くところでは(また、アメリカかと言われそうだが)アメリカのMBAには多くの種類があって、その中には病院経営のMBAもあるそうだ。即ち、お医者様ではない院長がいるということ。文科省もこういうことを考えても良くはないのか。
余談だが、某局では通産を辞めたとか辞めざるを得なかったと言われるコメンテーターの某氏が「理研は新法で割り当てられる研究費を確保するためにそれに相応しい実績を挙げておく必要があり、焦ってSTAP細胞で長打を放とうとしたが、以外にもファウルボールに終わって対策に汲々としているのだ」と穿った見方をしていたのが印象的だった。