管理基準の文化の相違が何をもたらすか:
先ほどミズノの管理基準と管理能力を、私にしてはヤンワリと批判した。これらを綜合すれば、「その国の企業社会における文化」の相違の問題であると言えると考えている。その辺りを経験に基づいて採り上げていく。
大雑把なのか立派なのか:
1980年代だったと記憶する。「W社製の紙のある物性値が、余りにもバラツキが激しい」と有力得意先の北欧の日本法人から苦情の申し入れがあって、購買部長さんがワシントン州の工場にまで製造の立ち会いに来られた時のこと。
現場に入られて抄紙機に設置された計測器の数値をその場で打ち出して、我が国で言えば現場の係長が「立派に我々のスペック内に入っている数値だ」と胸を張った。購買部長さんは「その数値の範囲は誰が決めたのか。そしてその範囲を知りたい」と尋ねられた。
係長は「プラス・マイナス5%で、このデータが示すように立派に基準内に収まっている」と答えた。しかし、購買部長さんは驚きで危うく倒れそうになってしまった。というのは「±5%とは、合計で10%ととは日本の感覚では考えられない大雑把な管理基準で、それを需用者側と打ち合わせすることなく設定しているアメリカ式生産者側の乱暴な感覚だ」という批判だった。
ところが、同じ日本の得意先でも製紙会社の紙加工事業部門でブラジルの現場にも出向の経験がある若手エンジニア-は、「それは違う。あれだけの重量がある厚い加工用原紙のあの数値を、W社は立派に我が社の許容範囲に適応するように管理して製造していると考えている。紙加工専業者と我々の間にはそれほどの感覚の相違がある」と、寧ろW社の技術を褒められてしまった。
全てが最終工程の責任になるようにする:
1995年にドイツの著名な印刷機製造会社の工場を、紙以外にも色々な業種の方が集まったツアーで見学したことがあった。その工場では現場で機械を操作している人たちは「マイスター」の資格を持っていると説明された。その動きと作業振りを見た鉄工所の社長さんが「全く無駄がない。流石だ。これだから世界に通じる印刷機が出来るのだろう」と感心された。だが、現職の頃には営業担当だった私にはサッパリ解らなかった。
すると、その日の夕食会で製紙業界の大手の社員でグループ内の印刷会社の経営に携わった方が「実はとんでもないことがある。印刷機のメーカーは印刷会社から苦情が来ないように厳しい管理基準で機械を作っているのは解る。だが、彼等は木材繊維を使って作られている紙の物性値の管理が何処まで出来るのか、どれほどバラツクのかなどには全く考慮しない。そして、何か問題が生じると全て紙が悪いという一方的な結論を導き出す。私はこの会社の印刷機には苦労させられた」と反論した。
鉄工会社の社長さんは「それは我々の立場からすれば当然の自己防衛策だ。鉄工所としては自分たちに責任が来ないよう作ることを考えている。紙の物理的限界などに十分に配慮はしない。製紙業界が我々に合わせてくるのが当然だくらいに考えている」と言ってのけられた。非常に相互にとって考えさせられる内容の討論になったが、各業種が自分たちの都合を優先していることは良く解るだろう。
この場合は最終的に紙が印刷・加工される時点で、それまでに関連してきた業界の自己防衛策が厳しく顕れて「紙に完璧であれ」と要求いてくるものだと解った。しかも、各業種は次の加工ないしは製造段階が如何なる基準で動いているかなどには、ほとんど配慮していないのだとあらためて認識した。
話をミズノに戻せば、夜間に加湿器を止めると如何なる結果を生じるかに対する配慮に欠けた面があるというか、自分たちの管理基準で動いた結果で、マスコミを賑わす問題を提供してしまったのではないかと思う。私は加湿器のタンクに夜間に給水できない理屈が良く解らないのだが。
先ほどミズノの管理基準と管理能力を、私にしてはヤンワリと批判した。これらを綜合すれば、「その国の企業社会における文化」の相違の問題であると言えると考えている。その辺りを経験に基づいて採り上げていく。
大雑把なのか立派なのか:
1980年代だったと記憶する。「W社製の紙のある物性値が、余りにもバラツキが激しい」と有力得意先の北欧の日本法人から苦情の申し入れがあって、購買部長さんがワシントン州の工場にまで製造の立ち会いに来られた時のこと。
現場に入られて抄紙機に設置された計測器の数値をその場で打ち出して、我が国で言えば現場の係長が「立派に我々のスペック内に入っている数値だ」と胸を張った。購買部長さんは「その数値の範囲は誰が決めたのか。そしてその範囲を知りたい」と尋ねられた。
係長は「プラス・マイナス5%で、このデータが示すように立派に基準内に収まっている」と答えた。しかし、購買部長さんは驚きで危うく倒れそうになってしまった。というのは「±5%とは、合計で10%ととは日本の感覚では考えられない大雑把な管理基準で、それを需用者側と打ち合わせすることなく設定しているアメリカ式生産者側の乱暴な感覚だ」という批判だった。
ところが、同じ日本の得意先でも製紙会社の紙加工事業部門でブラジルの現場にも出向の経験がある若手エンジニア-は、「それは違う。あれだけの重量がある厚い加工用原紙のあの数値を、W社は立派に我が社の許容範囲に適応するように管理して製造していると考えている。紙加工専業者と我々の間にはそれほどの感覚の相違がある」と、寧ろW社の技術を褒められてしまった。
全てが最終工程の責任になるようにする:
1995年にドイツの著名な印刷機製造会社の工場を、紙以外にも色々な業種の方が集まったツアーで見学したことがあった。その工場では現場で機械を操作している人たちは「マイスター」の資格を持っていると説明された。その動きと作業振りを見た鉄工所の社長さんが「全く無駄がない。流石だ。これだから世界に通じる印刷機が出来るのだろう」と感心された。だが、現職の頃には営業担当だった私にはサッパリ解らなかった。
すると、その日の夕食会で製紙業界の大手の社員でグループ内の印刷会社の経営に携わった方が「実はとんでもないことがある。印刷機のメーカーは印刷会社から苦情が来ないように厳しい管理基準で機械を作っているのは解る。だが、彼等は木材繊維を使って作られている紙の物性値の管理が何処まで出来るのか、どれほどバラツクのかなどには全く考慮しない。そして、何か問題が生じると全て紙が悪いという一方的な結論を導き出す。私はこの会社の印刷機には苦労させられた」と反論した。
鉄工会社の社長さんは「それは我々の立場からすれば当然の自己防衛策だ。鉄工所としては自分たちに責任が来ないよう作ることを考えている。紙の物理的限界などに十分に配慮はしない。製紙業界が我々に合わせてくるのが当然だくらいに考えている」と言ってのけられた。非常に相互にとって考えさせられる内容の討論になったが、各業種が自分たちの都合を優先していることは良く解るだろう。
この場合は最終的に紙が印刷・加工される時点で、それまでに関連してきた業界の自己防衛策が厳しく顕れて「紙に完璧であれ」と要求いてくるものだと解った。しかも、各業種は次の加工ないしは製造段階が如何なる基準で動いているかなどには、ほとんど配慮していないのだとあらためて認識した。
話をミズノに戻せば、夜間に加湿器を止めると如何なる結果を生じるかに対する配慮に欠けた面があるというか、自分たちの管理基準で動いた結果で、マスコミを賑わす問題を提供してしまったのではないかと思う。私は加湿器のタンクに夜間に給水できない理屈が良く解らないのだが。