新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

夢の中で景気の先行きは解らないと語っていた

2014-05-01 07:57:33 | コラム
夢の中で景気の見通しは解らないと語っていた私:

退院して2日目の夜、未だ貧血状態から脱し切れていない中途半端な眠りの中で、何とも妙な夢を見ていた。それは良く知らない二人の方から「景気の先行きは?」と尋ねられて「解りません」と答えた後で、解りもしないのに解説を試みていたのだった。

それは「我が国だけではなくアメリカも芳しくない大統領に国政を二期も続けて任せてしまったために、数字上では我が国よりもいくらかマシなだけに過ぎない。それはあのTPPに対する焦りとしか思えない強硬な姿勢にも表れているではないか。それでなくとも不況に悩んでいるヨーロッパも、ここに至っては恐らく世界最強硬のプーチン大統領率いるロシアに攪乱されているではないか。

我が国では専門家もエコノミストたちも8%の消費税という未だ嘗てな経験したことがなかった高率の税制下で何が起きるのかを、大胆不敵にも予測して見せている。しかも状況次第では1年先には10%にまで行くのである。彼等の立場で「解りません」か「見通せません」とは言えないのだろうが、凄いと思う」とオロオロと語ってのである。

さらに続けて「しかも、我が国は未だに3.11以後の菅直人の大悪政である原発を止めた結果のエネルギーコストの急騰により生じた、真の意味でのというかアベノミクスが目指したインフレではない物価上昇に、罪なき一般の国民の方が悩まされているではないか。安倍政権でも何とか言う奇妙な規制委員会の原発再稼働阻止の姿勢から脱却できていないではないか」と言っていた。

ここまでで、悲観論者は夢から覚めたのだったが、私は上記のような悪条件を抱えて奮闘しておられる安倍内閣を支持する以外に、我が国の景気回復への道はないのではないかと思っている。

先日、畏友YM氏にアメリカと世界を含めての景気の先行きを如何に見るかと尋ねてみた。彼は「最早現実から離れて2年近くも経ってしまった以上『解らない』としか言えない」と答えた。彼は何度も述べてきたように8年間もアメリカ最高のビジネススクール4校で教えてきたので、そういう大学の教授たちと接触する機会が日常的にあっただけではなく、世界から望んで集まってきた実務経験が2~4年以上ある精鋭たちと毎週2回も討論を主体とした授業を続けて来たのである。

敢えて補足すれば、アメリカの大学には長年学問の世界だけで育ってきた教員の他に、実務の世界での経営者から転進してきた者もいれば政界から転身ないしは戻ってきた人たちもいるのだ。YM氏も日米とUKの会社を経験した後での大学教員に転身した経歴の持ち主である。

彼はそういう経験をした上で、私にアメリカ経済の我が国には伝わってきていない実態や著名な学者たちの意見をかみ砕いて解説してくれていたのだった。しかし、彼は最早その世界から離れたので、自信を持って語るべき材料の持ち合わせがないと言ったのだった。彼が2012年までの在職中に繰り返し言ってきたことが「アメリカが本当に回復するまでには最速でも3年、最悪は5年を要する」と予測していた。

結論でも何でもないが、今は2014年であるから最短でも後1年残っているのだ。

余談だが、何故我が国の専門家とエコノミストには製造業の世界で「このコスト以下で売ることは絶対にあり得ない」という崖っぷちに立たされて、命の遣り取りのような例えば国際的な折衝をも長年経験したことがない方が多いのだろう。何故、証券・金融業界や学問の世界一筋の方が多いのだろう。

何故グラウンドで球を蹴ったことがなくて解説者やコーチや監督になってしまうのだろうか。

ファーストネームで語り合うと

2014-05-01 07:06:08 | コラム
本当に打ち解けているのだろうか:

先日「ハーイ、シンゾー」として採り上げたが、名前(first name)乃至はあだ名(nickname)で呼び合うことは、そういう文化(習慣?)がない我々にとっては諸刃の剣的な恐ろしさもあると実感していた。

先ずはそういう異文化に馴れているかいないかの問題以前に、first nameで呼び合うとの了解に達していても、それから先に英語だけで思う存分に語り合わねばならない関門が控えている。"Hi, George!"と格好良く入っていった後で通訳を介していては、余り様にならないかも知れないのではないか。

次は実際に経験した恐ろしさで、我々はその場で初めて知り合った間柄の人と語り合う際に、いきなり敬語も何も排除して馴れ馴れしく語りかけては無礼かも知れない文化の中で育ってきた点がある。何しろ「さん」も「君」も付けずに相手の名前を呼ぶのである。初対面の得意先の役員の方にいきなり敬語を排除して語りかけて受注できるかと訊かれれば「そうはいかないだろう」と答えるだろう。

ところが、first name basisで英語で話していると、初対面であろうとなかろうと、相手の身分や地位や取引関係等の高い壁がいきなり消し飛んで、何気なく同僚か長い付き合いがある仲間か友人と打ち解けて語り合っているかのような気がするものなのだ。実に気楽に敬語的表現を忘れて馴れ馴れしく語りかけてしまうのだった。しかし、内心では「これで良いのか」か「彼(彼女)は無礼者と怒っているのではないか」と気になっていることもある。

1978年にCEOのGeoregeにファーストネームで語りかけたので、如何にも彼と対等のような気さえするのだ。だが、良く考えなくても解ることは彼はCEOであり、自分は東京事務所の一マネージャーであるという身分のとてつもない違いは厳然として残るのだ。

そういう異文化の中に入って見ると、first name basisとは先方との距離を一気に縮めてくれて、百年の知己と語り合っている気分にさせてくれるのである。これは一面非常に良いことだが、裏面では「もしかしてこれは芳しくないのではないか」という怖さも秘めている。現に私は本社の他の事業部の上席副社長の好みを知らずに気楽にfirst nameで一日中呼びかけていた失敗例もあった。

さらに多くのアメリカ人は言うなれば非常に友好的(friendlyとでも言おうか)だし、気さくであるので「俺もこれで立派にアメリカ人の仲間入りできた」などと思い込んでも、それが錯覚かも知れない事態もあり得るのだ。即ち、彼等は社交性が極めて高く社交辞令が巧みで、こちらに打ち解けて付き合っているかの如き快感を味合わせてくれる技術が高いのである。

結論的には「First name basisの付き合いが出来る間柄になるのは誠に結構なことだが、そのためにはそれに向けた心の準備も必要である」とでも言えば良いだろう。