新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月5日 その2 イスラム教シーア派対スンニ派

2016-01-05 16:32:52 | コラム
「アメリカの大統領が弱いので」:

先ほど何気なく聞いていたテレ朝だったと思うが、手嶋龍一がオバマ大統領を掲題のように評していた。当方は既にこの大統領に7年間も政権を任せる選択をしたアメリカの民主党支持者の階層は、世界をここまで混乱させたことを深く反省し恥じ入って貰いたいと述べていた。その大統領の在任中に彼が何ら手を打てなかった中近東でまたもや彼の手に余りそうな困難な事態が発生してしまった。

それもアメリカが手打ちをしたばかりの、シーア派の核保有国イラン対スンニ派のサウジアラビアの国交断絶である。しかもシーア派が多い国の中にはアサド大統領率いるシリアがあり、イラクもあるのだ。オバマ大統領がこの事態にあって言ったことが「両国に自制を求める」だった。こんなことなら言わなくても同じではないか。一方、習近平と同等乃至はそれ以上の強権を発動するプーチン大統領は「仲介する」との意向を示したと報じられている。両大統領の姿勢の違いを世界に明白に示してしまった。

今日これまでオバマ大統領が中近東と言うか対イスラム教圏内の諸国に対する政策と姿勢での実績から推察すれば、かの大統領にこの重大かつ深刻な事態にあって何が出来るかはあまり考えなくても解りそうだ。佐藤優元外務省情報分析官は第三次戦争勃発の危険性すら予想して見せている。我が国の如くに中近東からの原油輸入に依存しているのでは、決して他所事ではないかと、私でも気掛かりである。

何もオバマ大統領を批判すれば事足りる場合ではないと承知いている。だが、例えば彼がプーチン大統領と胸襟を開いて会談し、この難しい事態に如何に対処するかを決定する等は、簡単には予想できない気がしてならない。しかも、アメリカはシリア国内の政府対反政府派の抗争すら対処しきれず、プーチンの介入をもたらしてしまった。そこにはイスラム教国間の根深い対立があれば事は益々複雑化するかと危惧する。

オバマ大統領とアメリカの奮起とプーチン大統領のアメリカの足元を見透かした姿勢が、何時か何処かで可及的速やかに協調点を見出すようなことがあれば良いのかも知れないなどと夢想している事態だ。

名前の付け方:

2016-01-05 14:08:29 | コラム
日本文化と伝統の破壊かそれとも:

昨年末からラグビー、サッカー、フットボールと数多くの試合の中継を見てきた。現在では高校のサッカーとラグビーを見られる。その中で昭和一桁生まれとしてはどうしても素直に受け入れがたい傾向が見えてくるのが悲しいというか憂鬱にさせられるのだ。

それは「キラキラネーム」にも勝るし、劣らない解読か理解不能な漢字を縦横無尽に駆使した「男子専用キラキラネーム」とでも呼びたい名前の横行だった。そこには当て字などはまだ生やしい方で、重箱読み、欧米人のファーストネームをもじったとかしか思えない無国籍な名前があるかと思えば、「翔」が代表的であると思える流行の名前を数多く見受けるのだ。

そこにはその家族と言うかその家系では必ず用いられてきた一文字、出生の順番を示した「一郎」や「一雄」等のような数字が入っている名前、格言に倣った例えば「和貴」(和を以て貴しとなす)のような我が国の伝統的な漢字文化を表すような名前はまずもって見かけなかったのである。

私は50歳から60歳代に入った頃、既に「近頃の若い者には古き(良かった)時代の殻を脱ぎ捨てて、新たな流れを築きだそうというような気風と言うか革新的な傾向」を創造しようと思わせる意気込みを感じていた。それ自体は決して全面的に悪いことではないとは思った。

その歓迎しても良いかと思わせてくれた流れに沿うかのような「次代を団塊の世代に委ねることは到底受け入れられない。彼らを可及的速やかに追い出そう」のような少なくとも建設的と思える主張をする20歳から30歳代にも接してきた。

だが、今日の乱れているとしか思えない命名の仕方は好ましいものではないと思う。新時代を築こうというような気風に発してはいなと思わせる点に疑問を感じざるを得ないのだ。

そこにはある程度の新時代の創成を図る意図も感じさせる点もなくはないが、少なくとも当て字の横行や重箱読みの濫用はあのような命名をする親御さんたちの世代では、学校教育で正しく国語や漢字の使い方を教えられていなかったのではないかと真剣に疑っている。換言すれば初等教育に始まる教育の質の劣化である。

そうでもなければ、どこの地方に行っても「翔」かそれと他の漢字との組み合わせ、「雄大」(ユーにアクセントを置く)、「航」と書いて「ワタル」と読ませる、「賢人」や「健斗」のような”Kent”を想起させる「ファーストネームのもじり」が多い。これは女性では「沙羅」(”Sarah”か”Sara”の当て字だろうが実際の発音は「セァラ」か「セーラ」に近いのだが)や「理沙」や「梨佐」(”Lisa”が元だろうが)と同様な欧米への憧れかと疑ってしまう。

これら以外にも「偏見」か「差別」と反撃されそうなことを言えば、一昔と言うか六昔とでも言いたくなる時代には、支配階層では使わなかったような「~平」、「~太」、「~助または介」等が多く見受けられたのも、時代の変化かと痛感させられた。と言うか「俺も年をとったものと自覚すべき不満なのか」と少し憂鬱な現代の命名の仕方だった。