新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

1月29日 その2 甘利大臣辞任事件の考察

2016-01-29 16:44:44 | コラム
結末が見え透いていた事件だったが:

とは言え、私には不可解なことが多いとしか見えなかった。それは辞任が不可解というのでもなく、「秘書が」とはしたが自分の美学が云々を辞任の根拠にしたことを指すのでもない。では何が不可解なのか。

文藝春秋社の狙いは何だったのか:
何が故に彼らならば、編集会議を開いたかどうかは知らぬが、あのような譬え一方的な暴露ものを基にしたとは言え、「我が国の政界とマスコミの手法とこれまでの実例かからすれば、あの内容では甘利氏が辞任に追い込まれることは三歳の児童でも解っていたのではないか」と言うような事案ではないか。それでもなお、あれを特ダネとして打ち上げたのかという疑問を、私は避けて通れない。何を狙ったのかと問いかけたい衝動に駆られる。

即ち、極限まで深読みすれば、疑えばキリがないが、週刊文春の編集部は安倍内閣の悪政(だと、リベラル派だの無能な野党は罵るが)を排除したい一心で、その中核にある甘利大臣をまんまと辞任でも追い込めば、我が国に明るい未来が開けるとでもとでも目論んで、あの記事を二週にわたって掲載することに決めたのではないかと、つい考えてしまう。文藝春秋社は意外にもリベラル派の支持者だったのかということ。そうとでも思わない限り、あの一向に登場しない一色某を取材源としたあの記事を掲載する理由が見つからないのだ。

果たせるかな、参議院選挙も近くなった時点で、このまま「安部一強」状態を続けさせれば「憲法第九条」が危機に瀕するだろうし、安倍総理は考えていないという衆議院の解散の危険性だってあり得るのだから、無能な野党が天の助けだとばかりに飛びついてきたではないか。そして首尾良く甘利氏を辞任に追い込み、予算審議だって遅らせられる可能性が出たし、基地問題にしても付け込む機会が訪れるかも知れないのだ。文藝春秋社ほどの出版社がこれくらい読めなかったはずはないと思うが、如何か。それとも、端から安倍内閣打倒がを意図していたのか?

安倍内閣の危機:
私はあの記事が出た時には「甘利辞任」の危険性は読んだが、内閣の危機となるまでは考えなかった。しかし、昨日からの野党の「待ってました」の言動とマスコミが嬉々として内閣の危機説を採り上げている事態を見れば、確かに安倍総理も正念場に近いところに持って行かれたと危惧する次第だ。勿論、何事にも「コインの裏側」があるもので、安倍内閣が株高、円高、デフレ脱却、賃金の上昇傾向等の数々の実績を挙げたアベノミクスを導入された功績や、甘利氏が中心となって大筋まで纏めたTPP等は野党やリベラル派にとってはコインの裏側で、快い事態ではなかったのだろう。それを陥れる機会を文春が準備してくれたのだ。

だからと言って、安倍内閣を危うくすることが我が国の国益となるとは、私には夢にも考えられないのだ。民主党政権のあの3年有余の間に何が起こったかをじっくりと考えてみれば、物事の理非曲直がお解りではない一部の国民の皆様を除けば、民主党政権の再来を望む国民は少ないと思いたい。だが、何度も指摘してきたように我が国の民度は東京のように東国原や蓮舫に百万を超える票を投じてしまうような危ういものなのである。故に、安倍内閣の危機が訪れなければ良いがと思うだ。

石原伸晃新大臣:
諧謔を交えて言えば「元大臣」と言いたい。父親で同期生の石原君には申し訳ないが、ニュースで彼が後任と知った時には思わず「えーっ」と声を上げてしまった。小泉内閣時代の期待されて政治改革を担当した際の出来、幹事長だった時の手腕、安倍内閣だったか何時だったか忘れたが何度かの失言等々、揚げ足を取ればキリがなく、私は彼の能力を評価出来ない。お世話になっている国際法のTY先生は「彼がテレビの画面に出た瞬間にチャンネルを変える」と冗談交じりに言われたほど毛嫌いしておられる。

報道によれば、所謂「身体検査」は既に以前の入閣時に済んでいるので、その幹事長と環境大臣としての経験を買ったとあったが、何となく買ってはならないものを総理がお買いになった気がして心配なのである。これから極めて短期間のTPPの承認の儀式までに、それこそ身を挺してまで甘利前大臣との引き継ぎを完全に行っておかないと、国際的な場面を大過なく切り抜けるのは難しくなるだろう。しかも、その後には未だまだ安定したわけではない我が国の景気対策と、中国が自分勝手に手を広げ過ぎた結果徐々に自滅態勢に向かいつつあり、不安定化させた「グローバル・エコノミー」が待ち受けているのだ。彼に対応出来るのかと言った専門家もいたではないか。

文藝春秋社は甘利氏を陥れると上記のような「桶屋が儲かる」的に事態が変わっていくと読み切っていたのだろうか。以上が悲観論者の当方の考え過ぎに終わることを望んでやまない。