新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月20日 その2 JR大崎駅にて

2016-01-20 17:30:21 | コラム
ニューオータニ・インを探すのに迷うところだった:

本日は毎度お馴染みの商社マンの都合で、JR大崎駅前のニューオータニ・インで昼食兼懇談会となった。その後に折角近所まで来たのだからと、大学時代の雀友で某英字新聞の副編集長だった旧友(級友)とも久闊を叙した。因みに、当時の我が謹厳実直な学生ばかりの大学では、麻雀などというけしからぬ遊びをする学生は全学で20人くらいのものだった。

旧友にSwearwordを知らなかった都立の名門高出身の学生の件を語ったが、「そういうものだろうが、そういう教育になっていないようだし、そういう事まで教育が出来る教師がいないのだろう」という話になった。また、某有名私立大学の学長先生がテレビで英語を話された際に文章表現は立派だったが、”you know”ばかりだったという話も持ちかけたが、「何ということだ」嘆いてくれた。また、彼も現役を離れて久しいので、TOEIC重視の英語教育の実態と、あれがO社の作で逆輸入だとも知らなかったそうで、呆れ返っていた。

商社マンからは相変わらず紙市場は一向に復調しないという嘆きや、対前年同期比の売上高の落ち込みの件や、中国経済の現状や過剰設備を抱えて苦しんでいることとかの話題で、楽しくもあり憂鬱でもある懇談会となった。彼も指摘した大きな問題点は、中国との関連で盛り上がってきた会社もあれば、その傾倒ぶりが先行きの不安材料でもあるということ。

東京生まれでありながら生まれて初めて降りた、辺鄙なところだとばかり思っていた大崎駅の素晴らしく近代化された所謂駅ナカや、隣接するニューシテイーの絢爛豪華な商店街と飲食店街にはただ驚くだけ。何分にも極度にアジア化された新宿は百人町界隈の田舎しか知らぬ者には、やや浦島太郎にでもなったような気分。近くに大手製造会社のビルが多い為か、昼食に出かける人たちの服装が垢抜けしているので、目がくらむ思いだった。しかし、級友との懇談会はサイゼリアとなった。それは最早この辺りには喫茶店がなくなったためだった。

昨年の11月にYM氏と品川駅の南港口で待ち合わせした際には、その規模の大きさとそれまでに知っていた品川駅との変化に戸惑い、何度か確認してから長い廊下を歩いて外に出られた時は疲労困憊だった。また、やはり昨年末に小田急の成城学園駅に降り立って、そのあまりの変貌ぶりに驚かされ、駅員にタクシー乗り場の場所を尋ねてから改札口を出たほどだった。高齢化即ち田舎者化かと家内と嘆きあったものだった。それと同じ戸惑いをまた大崎で感じた半日だった。

法定基準額の果たす役割?

2016-01-20 07:45:15 | コラム
またもやマスコミの知っていて知らん顔か:

碓氷峠での痛ましいバス事故の報道で、マスコミはしきりにバス会社が法定基準額を守らずに(守らせられずにか?)安値で引き受けたと報じている。そうして如何にバスツアーが過当競争であるかを言いたいようだ。私に言わせれば「何を言うのか。あなた方が競争の実態を知らないわけはないだろう」となる。

在職中に「輸入貨物の通関から倉庫保管を経て荷主に配達するまでの料金には”tariff”(=鉄道・電信などの運賃かその表を言う)が定められている。だが、現実に市場で起きている現象は、その仕事を取る為には”tariff”からいくら安くして引き受けるかの競争が激化いているのだ」とその業界筋から聞かされていた。即ち、タリフは「そこからいくら安くするか」の基準に過ぎないことが常態化しているという意味だ。これと同じ事態がバス料金の法定基準額にも起きているのではないのかと、私は考えている。

私にはこのような市場の実態をマスコミが知らないはずはないとしか思えないのだ。このような競争を引き起こしているのが、未だにデフレ傾向から脱し切れていない我が国の景気というか経済の実態を反映しているのではないか。その辺りを知っていて知らん顔で「法定基準額を無視した」というような報道をするマスコミの姿勢を私は批判したいのだ。法定基準額が取引の中で果たしている役割を指摘せずに「安さ」ばかりを報道して何の役に立つというのか。

ツアー会社でもバス会社でも「そんな値段では受けられない」と突っ張りきれば何が起きるかは解りきっていることである以上、「ギリギリだ」と言いながら受注せざるを得ないのだろう。もしかして、韓国のように「民間がやっていることだから政府は努力するだけ」と言っても良い事態ではないのではないか、塩崎さん。一台が何千万円もするバスを使う事業を如何にして正常化するかは、誰の仕事で誰の責任かを考え直す時期が来たのではないか。これ以上傷ましい多くの若者を犠牲者にしない為にも。

終わりに謹んで死者のご冥福を祈りたい。