新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月8日 その2 安易に外来語を使わないで

2016-11-08 14:55:07 | コラム
カタカナ語排斥論者は言う:

8日の産経新聞の「談話室」という投書欄に中野区の中学教師の方が「安易に外来語を使わないで」と題した投稿をされ、「例えばレガシー(遺産)、ワイズスペンデイング(賢い消費)、アウトソーシング(外部委託)、アクテイブラーニング(能動的学習)、インタラクション(相互作用)・・・などだ」と指摘しておられた。その通りだと思う。同志の登場は歓迎だが、当方がかかるカタカナ語の批判と避難を開始して何十年(?)も経っているとはご存じなかったようで残念だ。

そこで、昨年の11月にブログに掲載し、未だにお読み頂いていると知らされている駄文をここに敢えて採り上げてご参考に供したい。私はこの他にも繰り返して「カタカナ語(造語)集を作成して掲載してきたことも念のために申し添えておきたい。

嘆かわしいカタカナ語の氾濫:

カタカナ語族は日本語を破壊する気か:


昨5日に英語に明るい専門商社の知人から

<MSN?というYahooと同類のサイトを見ていたら和製英語特集があったので覗いてみました。以下は自称 native Americanなる人が指摘したカタカナ語です。

ビジネスホテル    →   Budget hotel    

モーニングサービス(=朝のお祈り?) →   Complimentary breakfast

モーニングコール   →    Wake up call

シャープペンシル   →   Mechanical pencil>

と知らせて頂いた。そこでこれに触発されて、久し振りにカタカナ語濫用の批判を展開しよう。最初は上記の「モーニングサービス」から

<モーニングサービス(=朝のお祈り?) →   complimentary breakfast>

の「朝のお祈り」は皮肉として素晴らしいとは思うが、これでは「無料の朝食」になってしまうかと。あれは「無料」ではないから、どうしても英語にしたければ難しいのではないか。そこで、無い知恵を絞って“economical breakfast”か“economically priced breakfast”か、いっそ陳腐に“breakfast at bargain price”くらいかなと思う。

全く違う話だが、先日W杯のラグビーの再放送(?)を見て(聞いて?)いたら、日本のアナウンサーが密集の中でボールを放さない反則を「ノット・リリース・ザ・ボール」と言うが、英語のアナウンスは”not releasing the ball”だった。文法的にはこちらが正解だと思う。これはフットボールでも「パス・インターフェア-」と叫ぶのが英語では“interference”と名詞形だ。「リリース」だけでは動詞で「インターセプト」も英語では“interception”となるのと同じ文法無視。

私がどうしても気に入らないのは”not”を「ノット」とカタカナ語化している点です。あれは「ナット」でしかあり得ないのだ、アメリカ語育ちの私にとっては。この種の批判は言い出せばキリがないのだ。

先頃私にEmailを送って下さった女性が「貴方が読まれるのでカタカナ語を使わないように気を遣った」と言われた。有り難いような申し訳ないような気分だった。しかし、そのお気遣いに感謝したいほどカタカナ語の氾濫は酷くなる一方だ。特にテレビで、それも英語にはない拡大解釈が誤用のような使い方をしているのが気懸かりだ。彼らはどのように英語を学んできたのだろうか。

思い付くままに例を挙げてみれば「シンプルに」、「コンパクト」、「トラブル」、「スタッフ」、「イベント」、「ジューシー」、「クリーミー」、「フルーティ-」、一寸捻って「コスパ」、「シャイ」、「オープンさせる」、「スタートさせる」、「チョイスする」、「~をゲット」とその派生語の「ゲットする」等々が即座に出てくるが、この他にも未だあるだろう。私が気に入らない例にカタカナ語ではないが「~対~」のと言いたい時に”VS”と表現するのがある。しかも「ブイ・エス」と発音するのは論外が。あれは「ヴイ-・エス」だ。

何故嫌うか、または何故おかしいと言うのかを言えば、先ず「シンプル」から解説する。“simple”はOxfordには真っ先に“not complicated”と“easy to understand”が出てくる。次ぎに”basic or plain without anything extra or unnecessary”がある。カタカナ語はこれらと違う使い方ではないか。ジーニアスでは「単純な、簡単な:解りやすい、扱いやすい、・・・するのが容易」とあるから、思うにこの一番始めのところを使っているのだろう。それならチャンと漢字を使った「単純な」か「簡単な」と言えば良いではないか!!

もっと理屈を言って批判すれば「シンプル」を“simplify”=「・・・を簡単(単純)にする」の意味か”simplified”=「簡単[平易]化;単純化」の意味なのにも拘わらず、文法無視で簡単に「シンプル」と表現しているのが普通だ。こんな出鱈目な使い方を併記するような英語を誰が教えたのか。

「コンパクト」も多用されるが、自慢ではないが私はこんな言葉を日常的に使った記憶がない。アメリカの辞書、Websterには“1. closely united, collected or packed, 2. arranged so as to save space, 3.not wordy: brief”と出ている。これを何で「コンパクトなスウィング」だの「コンパクトなディフェンスライン」のように使うのか。ジーニアスだって[限定]家・車・道具などがコンパクトな、無駄なスペースがない、こぢんまりとした;小さくて安い」となっているのだが、これらとは異なる意味で平気で使って日本語化している。

「スタッフ」)(=“staff”)は最早戸籍を得て完全に定着した嫌いがある。即ち、職員・従業員・部員・局員・従業員と言う熟語はテレビでも職場でも死語と化してしまったのだ。職場や仕事場で着ている上着(ジャンパーはカタカナ語であって、英語ではない)には必ずと言いたいほど”staff”と表記されている。全員が同じ上張りを着ていればそこの者だと思うではないか。誰も「参謀」や「幕僚」とは思わないぜ。

「イベント」はジーニアスには先ず「(重要な)出来事、(注目すべき)(大)事件」が出てきて、その後に(年中の)行事、催し、イベントの順であるのに、「行事」と「催し物」を全て「イベント」で片付けてしまっている。熟語に“in the event that ~”(=ついに、とにかく、結果的には、結局)というのがあるが、「英会話」でこういう使い方をされた時にどう対応する気かな-?

近頃気に入らないのが、テレビでは何でも「揉め事」、「諍い」、[事故」、「故障」、「事件」、等を全て「トラブル」で括って報じていることだ。“trouble”の本来の意味を辞書で解説する前に「何故、漢字を使った熟語で言わないのか」と責めたい。もしかして視聴者は国語を十分に勉強していないのでカタカナ語にしてやらないと理解しないとでも信じているのか。怪しからん所業だ。

Oxfordには“a problem, worry, difficulty, etc. or a situation causing this”とある。次ぎに出てくるのが”illness”だ。上のどれに当てはまるというのか。「普通に漢字を使った熟語で言え」と怒鳴りたい。”VS”も同様だ。簡単に「対」と言っても書いても良いのではないか。此処では困るのが”V”を「ブイ」と言うこと。あれは「ヴィー」だ。なお、基の英語は“versus”であるのは使い手たちがどれほど承知しているか疑いたくなる。

批判は此処までで十分だろう。カタカナ語が如何にもとの英語とは違う意味で使われていると解ってくれたと思いたいから。こんな事をやっていて「英語力をつけよう」などと夢にも思うな。使い手たちはあらためて辞書でも引いて英文法を見直して、本来の日本語を使って話し、書き、語るように努力せよと厳しく指示して終わる。




天皇陛下の譲位のご意向に思う

2016-11-08 08:19:43 | コラム
有識者5人から意見を聴取とは:

天皇陛下が所謂「生前退位」のご意向を示されてから、かなりな日数を経たと思う。私はそのご意向を受けて安倍内閣は速やかに行動を起こして、そこに向かって行くのかと勝手に思い込んでいた。だが、安倍総理はこの件の処理を急がないような考えを表明し、速やかには進めようがない種々の法的根拠も説明されていた。そこには確かに「その通り」かと思わせてくれるものがあった。

すると、この件に関しても例によって「有識者会議」が設けられて「えっつ、その人が何で」と、私が受け止めてしまった人まで入っていた。そして何回か会議が開かれていたようだったが、今回はまた別な(のだろう)5人の有識者からの意見聴取が行われたようで、賛否両論があったと報じられていた。私はここに至って「どういうことなのか」と良く解らなくなってしまった。

それは天皇陛下ご高齢になられ(ではあるが、当方は畏れ多くも陛下の1学年上である)多くの難病を経験された結果で、数多いご公務を消化するのが難しくなってきた現状をお考えになって「譲位」(産経新聞が使い始めた熟語であり、私はこの方に共感出来るので)をお考えになった以上、政府は可及的速やかにその通りになるように法的な整備等を進めるものだと思っていた。

ところが昨日の聴聞会(ヒアリングを和訳したつもりだ)では平川祐弘元東大教授は「摂政で良いのでは」との意見を述べられた由であり、反対の意見を述べた有識者も2人おられたそうだった。ここまで来て、私はまた」もや理解不能に陥ったのだった。それは陛下のご意向は民間の有識者等の意見を基にしてその「可否」を決めるような性質だったのかと、あらためて教えられ解釈したからだった。

現行憲法の下では陛下は「象徴天皇」であらせられるので、そのご即位は兎も角、ことが譲位となると有識者の意見を聞いてからでないとことが進まないような仕組みなのかと読まざるを得なかったのである。私はもとより法律には暗く、その方面には何らの知識はない。だが、こういう進め方をする案件だったのかと、やや驚いているのだ。

陛下はこと心臓関連の疾患では私とは異なって外科的手術を受けておられたし、前立腺の手術もご経験済みだ。そういう条件下で私と同じ年齢層でありながら、あれほど連日連夜ご公務をこなされては、それが身体的にもどれほどの負担になっているかは容易に想像が出来る。陛下よりも遙かに気楽な日常を過ごしている私には、最早定期的というか日常的に公式な行事をこなそうという意欲もなければ、そういうことを考えてもいない。

それどころではない、何時4度目の心筋梗塞が発作が襲ってくるか、心不全が再発しないかと、常に警戒を怠らない生活をしているのである。当人の感覚では毎日が綱渡りなのだ。言いたいことは、引退している私がこれほど恐れているのだから、「陛下のご負担を軽減して差し上げる方法を考えるのが、内閣の急務ではないのか」なのである。皇室典範等々の法律的なことも重大だろうが、私は事は人命に関する案件ではないのかと思うのだが。私は間違っているだろうか。