新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

30年目に入った新宿区暮らし

2017-04-09 14:38:06 | コラム
昨4月8日で東京復帰満29年

昭和16年(1941年)まで生まれ育った東京市小石川区駕籠町(現文京区本駒込とか)を疎開で離れてから47年を経て、東京都新宿区に戻って昨日で満29年も経っていた。陳腐な表現だが、遠い昔のようでもあり、ついこの間のことでもあるようにも思える。当時はこのPC部屋からはレインボーブリッジも東京タワーも見えていたが、今では六本木ヒルズも何も見えなくなってしまったほど、多くの高層建築が乱立してしまった。

藤沢から移ってきたのが昭和63年(1988年)だったのだが、その頃の大久保通りたるや寂れた田舎町のようで、これという小売店もなく300円で版権切れのジャズのCDを店頭に並べて細々と売っているような雑貨屋とも何ともつかない店が並んでいて、ここには将来の希望があるのかと思わせてくれた。また、当時はその筋の者たちが支配していたようで、勤務先の青山から夜遅くにでもタクシー利用しようと思うと行く先を聞いただけで運転手が拒否反応を見せるような危ない街でもあった。

どう危ないかと尋ねると、そこに入っていって空車にでもなった後に乗ってくるお客が怖いのと、組関係者が路上に駐車している高級外車のそばを通るだけで「兄貴の車に疵をつけた」とありもしない因縁をつけられた同僚がいるので、自分はその被害を避けたいから勘弁してくれと言われたりしたものだった。

また、大久保通りと職安通りを結ぶ無数の路地と言うか有名だったホテル街には、南米から東南アジアまでの無数のstreet walkersが入り乱れて熱心に営業していて、誠に風紀が乱れていたものだった。一説には、その連中を仕切っているのがイラン人で、その他にも麻薬密売等も手がけているとも言われていた。その猥雑さを見学に来たNY駐在経験がある商社マンが「NYよりも酷い状態」と言って呆れたのも印象的だった。

当時は韓国料理屋などはごく僅かしか営業しておらず、私が三大名店と形容した新大久保駅に近い路地にあった「ハレルヤ」と「田舎屋」の他には職安通り寄りの「松屋」くらいのものだった。その田舎屋などは2年ほど前だったかに消えてしまったし、最古の老舗ハレルヤも500円ランチなどで凌いでいる様子で、正統派?韓国料理屋の衰退は著しいものがある。

安価な雑貨店のような店ばかりだった大久保通りは2~3年前までは”Koreatown”として異常なほど栄えていたが、今や私がしきりに書いているように韓国語を話す者の数が激減したし、多くの韓国製性化粧品を売る店とサムギョプサル等に特化した若い女性を目当てにした焼き肉屋が残っているだけだ。しかも、新大久保駅を境にして大久保通りの北側は完全に中国人を主体にしてイスラム教徒たちも闊歩する町に変貌してしまった。こういう変化が良いことかどうかには疑問が残るが、一日中人の流れが絶えない通りになったのは確かだ。

次に忘れてはならい変化の一つに「大久保通りには都市銀行の支店がなくなり、ATMのみとなったこと」が挙げられるだろう。元々第一勧銀(現みずほ)と三和(現三菱東京UFJ)の支店しかなかったのだが、韓国化というかアジア化が急速に進むにつれて、都市銀行は見事にこの街を見切っていったのだった。今では新大久保駅の周辺に外国送金を業とする店舗が日本語学校とともに急増しつつある。日本語学校(弊害?)については最近の週刊新潮が詳しく特集していた。

山手線の内側の線路沿いで新大久保駅の近くには、その昔「ロッテは良くもこんな辺鄙な場所を選んだものだ」と、日本の会社の同僚たちと語り合っていたチューインガムの工場があった。この歴史ある工場も数年前に閉鎖され、今では取り壊し工事が始まっている様子だ。その工場の隣にはロッテ球団の事務所もあったのが懐かしい。

と言った具合で、新宿区百人町から大久保界隈では著しい変化が急速に進み続けてきた。その変化が我々住民にとって好ましいかと問われれば「疑問だ」と答えざるを得ないような外国人の居住者と旅行者なのかも知れない者も圧倒的に増えている。それらの外国人の需要を満たす為か、我々日本人の為か知らないが、大・中・小の小売店が林立するこの地区では物価が安いのは確かだと思う。

しかも交通の便も良くて、ここ百人町からはJR山手線と総武線の駅が近いし、西武新宿線も新宿と高田馬場から利用出来る。更に、かの歌舞伎町だって至近距離にあるし、新宿駅までは歩いても20分程度で便利だ。また、区内に7軒もの大病院があるのも安心なのは有り難いことで、医療関係は誠に充実している。ではあっても、ここ百人町界隈の中国人を中心とするアジア化には馴染めない。