新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月25日 その2 半日の東京見物

2017-04-25 15:53:19 | コラム
スカイツリーの直ぐ下を通って:

25日は好天に恵まれて、何年か前に花が散ってしまった後に訪れて言わば空振りに終わった、亀戸天神の藤棚が今度こそは見頃だと思って家内と出かけていった。往路は安全を期してJRを利用したのだが、記憶にあった亀戸駅周辺と景色があまりにも違って近代化?されているのに驚きながら、15分ほど歩いて亀戸天神に到着した。藤棚は80%ほどの開花だったが十分に満足させられた。

前回の空振り訪問の時と著しく違っていたことは、ここにも多くの外国人が群がっていた点だった。一体何が彼らをここに招き寄せたのかという前に、ICT化の時代ではネットに教えられた彼らが押し寄せるのも無理はないかと、妙に納得していた。実は、彼らにこういう我が国独特の美的観念が何処まで解るのかと多少訝ってはいたのだが。折角だからと、恐らくここ10年間で初めてだろうと思う携帯電話で最も美しいと思うところの写真を撮ったが、悲しいかなこれを何処かに送る手段を知らないのだ。

帰路は亀戸天神駅前までバスを利用したが、更に駅前からかちどき橋を通って豊海埠頭行きのバスに「エイヤ」ッとばかりに乗ってみた。何処を走るか知らないが、かちどき橋に着けばそこから先は勝手知ったる中央区で、築地市場も近いのである。途中全く予期していなかったスカイツリーの直ぐ下をバスが走ってくれたのでその偉容を下から見ることが出来た。初めてのことで望外の幸せ?だった。

そこから先は、このバスは本所や高橋(タカバシ)や越中島等の長年東京に住んでいながら来たことも来る機会もなかった街を通って、清澄白河・森下・門前仲町:月島等の都営地下鉄大江戸線の上を走って一路かちどき橋に向かってくれた。この経路で非常に印象的だったのは何処に行っても高層の集合住宅(高層マンションとも言うが)が林立し、恰も谷底を通っているかのような感があることだった。家内は「これほど沢山建てて、全部埋まっているのだろうか」との感想を漏らした。

かちどき橋からはまたバスを乗り換えて築地六丁目に向かった。丁度11時半を回ったところで、昼食の時間だったのだ。しかし、外国人で大混雑の場外を敬遠して家内がジムの遠足出来たことがあるという、とあるビルの地下にある魚料理専門店に入った。メニューも豊富だったし静かな環境を楽しんで結構な昼食を終えた。

その後は場外の店を観察して歩いたのだが、誇張して言えば「歩いている人の半分以上がアジア系(中国人か)を中心にした外国人であるのはいつもと変わらない」現象だった。彼らは何か買うと言うよりも恐らくネットででも教えられてのであろう、我が国の観光名所(tourist attraction)を興味半分で訪れているのだろう。私には彼らが5切れ¥1,000の鮭の切り身を買いに来るとはとても考えられないのだ。

築地の業者たちが「出来てしまった以上活用せねば」と嘆いていた築地魚河岸会館(?)だったかにも入ってみたが、その広さと規模には寧ろ驚かされた。なるほど、これでは「豊洲に移転するつもりで出店してしまったのに移転延期とは」との怨嗟の声が上がっているのは良く解った。私にはあそこに出ている多くの店が素人向けなのか業者向けなのかが良く見えてこなかった。ではあっても結構賑わっていた。

そこから先は都営地下鉄大江戸線とバスを利用して新宿区百人町の我が家に戻ってみれば午後3時近く。約5時間半ほどの東京見物だった。次の標的は根津神社のツツジなのだが、これも数年前に盛りを過ぎてから訪れていた。今度こそは失敗したくないのだが、明25日雨降りだと言うし、29日を過ぎればゴールデンウィークという名の休日が来てしまう。迷うなー。


日本語の問題点を考える

2017-04-25 08:09:46 | コラム
新日本語を考える→劣化なのか時の流れなのか:

1970年頃だった、未だアメリカの会社に転じる前のことで、韓国の中小規模の財閥のオウナーのご子息で、UCLAに留学中だったK氏と語り合ったことがあった。彼はかなり正統派の英語を話していたが、その話題の中に言葉の変化があった。彼は誇らしげに「私が話している韓国語が最も現代的で、時代の最先端を行っている」と言った。言葉とは時代とともに変化していくものだったかとあらためて思い知らされた感があった。

その「時代とともに変化する」という現象だが、私は現在我が国に現れて、気が付けばその傾向が著しくなった新日本語がカタカナ語の乱用とともに形成されているようだと考えている。カタカナ語の氾濫もその要因の一つで、私には日本語を劣化させているように思えてならない。即ち、私は良い傾向だとは思っていないのだ。そこで、その中から思い付くままに悪いだと思っているものを採り上げてみよう。

「1000円からお預かりします」:
これはどう考えてもおかしいのだが完全に戸籍を得ており、多くの小売店に普及している。これでは「1000円以上を預かります」という意味のようでもあるが、私は「1000円頂戴します」と「1000円お預かりします」が何処かで混同してこのようになったと推理している。これでは意味不明だが現実的に普及している。老爺化した私はこう言われて何度か店員をたしなめたことがあった。

こういう言葉を何の疑問にも思わずに使う多くの販売員たちの常識の欠如と感覚が情けないのだ。しかも、聞くところではこういう仕事をしているのはアルバイトの大学生が多いようで、ますます情けなくなる

「~になります」:
と言って料理屋で(スタッフが)料理を運んでくるのも今や普通のことだ。恐らく某通信社が作ったと聞く「用語ハンドブック」と同様に、「スタッフの用語マニュアル」でも出来ているのかと半ば本気で疑っている。これも立派な新日本語だと思う。「それでは、今は何なんだ」と突っ込むのが陳腐なギャグもあった。「~で御座います」か「~を持って参りました」辺りが旧来の日本語だろう。私は可能ならば、その用語マニュアルを書き換えたいと思うのだが。

これらは新日本語のほんの一部に過ぎないのだと思う。だが、「悪貨は良貨を駆逐する」という言い慣わしが示すように、新日本語は瞬く間に間に普及する。私はこの現象は持論である「言葉は耳から入るものが最も良く定着する」の典型的な例だと思っている。それと同時に、国語教育の劣化が手伝っているのではないかと疑っている。

そこには、ガ業の鼻音化が出来るアナウンサーが珍しくなってきたことの上に、彼らが使う言葉が怪しげになっただけではなく、テレビ局が使うタレントやら芸人たちがこの手の奇妙な新日本語を乱用することも大いに負の貢献をするからでもあるのだと信じている。そこに「スタッフ」や、何でも「トラブル」で括ってしまうカタカナ語が無限に広まっているのだから日本語がおかしくなるのだ。

私の結論を言えば、新日本語とは日本語の劣化だと思っている。