新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

今時貿易摩擦?

2017-04-01 10:43:23 | コラム
日米間の貿易の問題点をあらためて考える:

トランプ政権下のアメリカはまたもや「日本の対米貿易が不公正である」と言い出した。しかも、事もあろうに中国と同列で非難したのである。このニュースを聞いて「未だアメリカは20数年、あるいはもっと前の対日本観と言うか日本の輸出能力に対する被害妄想を引きずっているのか」と思わざるを得なかった。また、見方を変えれば「自分たちの思うように行かないとなると、相手を誹ることに持って行く国民性を表す人たち」なのである。

私は1972年以降、この難しい貿易相手国日本に決して高品質とは言い切れないアメリカの一次産品ではない物を買って頂く仕事をしてきた。私は決して全世界に物を売る仕事をしてきた訳ではないが、我が国ほど厳しく、屡々非現実的なほどに高度な品質を要求し、本質を離れてでも細かい点に拘泥し、神経質で、価格に対して厳密で、お客様を神様視する国と言うべきか国民性は他に例がないと認識している。

だが、それなるが故に世界の何処に国にも負けない(時には過剰に?)優れた製品が非常に競争力が高い(英語では”competitive”と言えば良いと思う)価格で国内に溢れているのだと言えるだろう。その優れた品質は国内においても非常に競争が激しく、屡々非現実的な水準にまで品質を高めないとその業界で生存出来ないこともあるのが現実である。あるアメリカのビジネスマンはその有様を見て「我々にも”artificial”な需要を追えというのか」と過当競争の実態を知って驚きを表現した。

何回も繰り返して採り上げた来たことだが、1974年7月にNHKと読売新聞が共催で「何故アメリカの対日輸出が振るわないのか」とのパネル・デイスカションが開催された際に、当時のUSTRの長だったカーラ・ヒルズ大使が「アメリカが対日輸出を増やす為には識字率の向上と初等教育の充実が必要だ」と発言された。これは大使が「アメリカの労働力の質の低さが対日輸出の不振の大きな原因である」と認められたというか、認識しておられたことを示している。

この労働力の質の問題は22年半もの間、対日輸出の従事した者としてはイヤと言うほど経験させられた重要な要素であり、その改善と向上なくして対日輸出の飛躍的拡大はあり得ないと今でも思っている。このような議論は私の在職中にも1994年1月のリタイヤー後にも何度も出てきた。また、1980年代の民主党というかクリントン政権下では繰り返して「アメリカからの輸入を増やせ」と身の程を弁えない圧力がかかっていた。

そこには日米間の企業社会における文化の違いという大きな問題もあるのだが、日米相互にこの「違い」に対する認識は不十分だったと思う。私はその文化の違いという谷間に20年以上も彷徨った経験から、1994年には日本製紙連合会の広報誌に、1995年には紙パルプ産業界に特化した出版社である紙業タイムス社の「紙業タイムス」誌にこの文化比較論を発表する機会を得ていたので、このアメリカトランプ政権が古き(好ましからざる)問題を採り上げた機会に、当時の論点をここに採録して「アメリカの何処が認識不足だったか」を参考までにご覧に入れたい。

お断りしておくが、私が論じているのは「紙パルプ産業界」を中心にする文化比較論であり、問題点であるのだが、その文化の違い論は他の産業界にも通じるところはあるだろうと考えているのだ。私はW社においては労働力と品質の問題点は長年の努力で解決したからこそ、日本市場に定着出来たのであると確信している。換言すれば、カーラ・ヒルズ大使が23年前に指摘された問題点が解決されていなければ、対日輸出は簡単に短時日には増えていかないのだ。

1995年に指摘した諸点を列記していけば、まずは「アメリカの市場の品質基準」で、アメリカという市場はメーカー主導で需要家や最終消費者の要求や需要を満たすことを二の次で、如何にして自社の生産設備を最大限の効率で回すかに主眼が置かれていると思えば解りやすいと思う。換言すれば「プロデューサーズ・マーケット」とでもなるかと思う。即ち、

1, 製品の機能は重視するが美的な要素は追求しない、2,作業能率重視で大量生産指向、3,スペック表重視だが、必ずしも市場の要求に合わせた訳でもそこから逆算されてもいない、のである。簡単に言えば、その製品に求められる機能さえ果たせば良いという製品を市場に大量に出して、消費者がそれに慣らされていくようになっていると言えると思う。更に換言すれば「多少美観を犠牲にしてもその需要の目的を果たせば十分だろう」との割り切り方をしているのだ。

言わば、この自己満足の視点で作った製品を「世界最高の原料を使い、世界最高の設備で、世界最高の労働力で仕上げた製品を買え。買わない貴方が間違っている」と自信たっぷりに、しかも何らの悪意なしに推し進めようとする販売姿勢が、謙りの精神で売り込みをする文化の我が国の市場では先ず受け入れらなかった。それに世界最高だったはずの製品が、必ずしも我が国の市場の需要動向と実態(カタカナ語にしたらニーズ)には合わなかったのである。我が国の需要家の消費者もアメリカのように寛容ではなかったという簡単で冷厳な事実だ。

専門ではない自動車産業の例を採ってみよう。アメリカは我が国に先駆けて厳しい排ガス規制を行ったが、アメリカのメーカーが手間取り戸惑っている間に、我が国のメーカーはその優れた技術力で基準を達成し、結果においてアメリカ市場を席巻した。そしてデトロイトが無残に崩壊した。アメリカはそれを日本の廉売と採った向きもあったが、とんでもない見当違いだった。私はこれくらいの文化の相違をアメリカの自動車産業界が解っていないとは思わない。

そのような理解と認識を不足を21世紀の今となって言い出したトランプ政権が本当に認識不足なのかどうかは私には解らない。だが、少なくとも我が国には不公正且つ不当な輸出などしているはずがないと思っている。それに、トヨタを始めとするメーカーは皆十分に解っておられると思う。我が国と政府が為すべきことは、トランプ政権の認識不足か誤りを「これを言うことで失うものはない」との精神で堂々と申し入れるべきだ。もしも問題があるとすれば「アメリカ側がその点を承知で圧力をかけているかも知れない」点だろう。負けてはならない。言うべきことは言わねばならない。

論ずべき点は未だ未だあるが、今回はここまでに止めておく。