新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月5日 その2 20年5月の新宿区の人口

2020-06-05 12:11:41 | コラム
20年5月は28人の減少で347,542人だった:

20年の5月の新宿区の人口は減少傾向が続いており、対前月比△0.008%の347,542人となっていた。日本人は975人の増加で308,326人となったが、今年になってから始まった外国人の減少が止まることなく△1,003人で39,216人と、遂に4万人の大台を割り込んでいたのだった。これは対前月比では△42.5%であり、全体に占める比率も11.3%と4月の12.6%をも下回ったのだった。これほど減少傾向が続いたのは、日本語学校が休校中である事の影響だろうかとは思うが、言わば鎖国に近い状態にある我が国から、彼等は自分たちの国に帰れたのだろうか。

これで、外国人は数は昨年12月には147人の減少で、今年の1月にも470人も減り、2月にも132人で3月にも562人、4月には1,685人の減少だったのだから、5ヶ月間の合計で3,967人もの減少という結果になっていた。私は東京都区内で世田谷に次いで感染者が多いここ新宿区では、600 mしか離れていない大久保通りまで出ていくのを躊躇っているので、街中でどれほど外国人が動き回っているかを把握できていない。だが、確かに我が家の近辺でも彼等の姿を余り見かけなくなった。特にイスラム教徒が目立たなくなっているのは間違いないと思う。

外国人が減ったのもさることながら、ここ1週間ほどのこの区内でのウイルスの感染者が「すわ、第二波の襲来」と思わせるほど増加して、小池都知事に「新宿区内の接客を伴う施設で云々」と名指しされたのは余り名誉な状況ではあるまい。我が家からはその問題の街であろう歌舞伎町を見下ろしてはいるが、もう何年もあの方面にまで出向いたことがないので、都知事が何を言われようと実感がないのが残念だ。

マスク等の安売りにも触れておこう。正規の販路と言うべき薬局で日本製が店頭に並ぶようになったので、仄聞するところでは大久保通りとイスラム横町の価格は50枚一箱で¥1,000が当たり前の値段になったほど下がってしまったそうだ。消毒用のスプレーなども値段さえ気にしなければ、幾らでも買える。だが、手洗い用の「ハンドソープ」類は出回っていないようだ。10万円の給付のことだが、5月最終週に漸く区役所から申請書一式が郵送されてきた。見れば、その為だけの封筒に入ってきたので、これだけの手間をかけていたと判明した。

私は3月から本気で大事を取って大病院と掛かりつけのクリニック以外にはほとんど出ていかないようにしていたので、街中を観察して得る情報も限定的になってしまった。だが、どう考えてもその方が安全だと思うのだ。小池都知事外貨にカタカナ語を駆使されて新型コロナウイルス制圧対策を試みられようと、心なき輩が夜の街に彷徨い出ていては、何時まで経っても事態は改善されないのだ。私は内閣は専門家会議に過度に依存することなく、自信を以て新型コロナウイルスが制圧に一層の努力をされることを心の底から願っている。

参考資料:新宿区広報 令和2年6月5日号


矢張り恐ろしい新型コロナウイルス

2020-06-05 09:29:13 | コラム
「怖いですね。毎日イヤな思いで暮らしています」:

これは昨日出会ったこのアパート住んでおられる私よりも高齢のご婦人の一言だった。私も将にその通りの捉え方で日々を過ごしている。

今週の週刊文春では飯島勲氏が小池都知事の英語(私に言わせれば「擬き」に過ぎないが)の乱用を批判しておられたが、知らない人は尊敬するかも知れないとの皮肉まであった。また、林真理子女史は「女帝」とは言ったが「でも、総理大臣にはならないで」と締め括っていた。東京都内の感染者の数が一向に減る様子がないのは、私は小池都知事が功を焦ってステージとやらの段階を1週間早めてしまった事が影響した気がしてならないが、もうどうにもならない事態なので、黙って外出の自粛しかないかと割り切ることにした。

小池都知事は歌舞伎町辺りの「接客を伴う業種」のことを言い出していた。だが、それを言うのであれば緊急事態宣言の解除とステージとやらを繰り上げたことなどが、多くの市民たちや自粛営業に耐えてきた者たちが開放感を味わいたくて、損失を幾らかでも補おうとしたことも原因ではないのかと考えている。何れにせよ、何らの強制力がない法律の下では市民の外出を禁じ得ない以上、東京のような事態が生じるのは不可抗力ではないのかと思っている。決して小池都知事だけを責める気はない。

そうかと思えば、読売巨人軍のように待ちかねたシーズン開幕を控えたこの時期に、2名の主力選手が擬陰性だか陽性だか知らないが、入院という状態になったようだ。後難を恐れて言うと「何ら感染するような場に出ていなかったにも拘わらず、抗体があったという事はこのウイルスは知らぬ間に感染させる物だ」となってしまう。高額の年俸を取って職業として野球をやっている者が自粛要請の期間中にストーイックに生活していたはずだが、まさか・・・ということはなかったと、ふと考えてしまう。だが、ウイルスの恐ろしさは十分に思い知らさせる事案だった。

週刊誌からの引用ばかりでは、まるで野党の揚げ足取りと同じになってしまうかと危惧するが、週刊新潮では室内でマスクを着用している場合にかの「ソーシャルデイスタンス」とやらの2 mは過剰ではないのかと疑問を呈していた。この問題はテレビが起用する医師によって見解が分かれるように聞こえるが「マスクとは感染者が飛沫を飛ばさないようにする為のものだ」と「ウイルスの侵入を阻止するだけの機能性はない」と2説に別れている。週刊新潮の指摘は「そうであれば、劇場等の屋内では何とかデイスタンスを採るのはは過剰ではないか」となっていた。

私は現在のように未だに特効薬もなく、ワクチンが実用化されるまでに一定以上の日数とか年数を必要とするのであれば、何とかデイスタンスのような防御法を採るのは仕方がないことではないのかと考えている。いや、言葉を換えれば、フラストレーションからの開放感を味わいたくて、危険を知ってか知らずかのこのこと夜の巷に出ていく連中の危機意識の欠如こそ問われるべきではないかと思うのだ。西村康稔大臣にも小池都知事にも何らの強制権が与えられていない以上、人々の良識に依存するしかないのでは、百年とまでは言わぬが、せめて1ヶ月くらいは河清を待たねばなるまい。