「我が国ほど良い国はない」と認識せよ:
Weyerhaeuserで2番目の上司だったニューヨーク州の名家の出身で、シカゴにあるハーバードと並び称されているとご当人が言われるノースウエスタン大学のMBAだった秀才が「先ず自分の足下を見てから外国を語るべきだ」と言ったのが忘れられない。
長年のつきあいがある海外経験豊富な商社マンと語り合った時に、彼はしみじみと「外国から帰ってくると、何時も我が国ほど良い国はないと痛感する」と言っていた。私も「誠に以て同感である」と応じた。彼は中近東駐在の経験がある他に輸出入を担当して北アメリカ、東南アジア、中国等々と年中海外を回っていた国際派である。
更に彼と意見が一致した点は「多くの外国にはそれぞれ良い点があって捨てがたいのだが、馴れてくれば我が国と比較した場合にその国ならではの欠点も見えてくるものだ。外国への出張なり個人旅行ででも数を経験すればするほど、我が国の良い点が見えてくるものなのだ」だったのだ。
私も1970年の未だアメリカの会社に転出する前に生まれて初めて社命により恐る恐る東南アジアを台湾、フィリピン、シンガポール、香港と回ってきてからは、自分では気が付かなかったが、他人様には「物の見方が変わってきた」と言われたものだった。即ち、外国を経験して見て初めて自分の国との比較が出来るようになると言うことらしかった。
その後の1971年には韓国への出張も経験して月並みな言い方だが「益々見聞が広まった」ということになったと思う。即ち、韓国では東南アジアの国々とは全く異なる文化というか国民性を痛感させられたのだった。解りやすく言えば、台湾の人たちのように「日本統治時代は良かった」と言う者など皆無の国だった」と言うこと。
そこでアメリカだが、1972年に全く思ってもいなかった偶然の積み重ねと運命の流れで、当時はアメリカの紙パルプ産業界で第5位のMead Corp.に転出したのだった。更に1975年には「本当にこれほどの偶然があるのか」と後に関係した方々と語り合った偶然と、またもや運命の流れで、Weyerhaeuserに転進したのだった。ここで先ず痛感したことは、あの広いアメリかでは東海岸の伝統的な企業であるMeadと、西海岸の太平洋岸にあるWeyerhaeuserでは大袈裟に言えば「文化が異なる」という点だった。
それから1994年1月末でWeyerhaeuserをリタイアするまでにアメリカだけでも2012年までに英語で言う“pleasure trip”を含めれば60回以上は往復していたと思う。その他にも在職中にもヨーロッパにも所謂観光旅行にも出掛ける機会もあったので、アメリカ以外では確か19ヶ国を回っていたと思う。
その外国を回った中でも事アメリカについては、何度も言ってきたことで「私は彼らの一員としてアメリカの為に22年半も対日輸出に励んできたので、そのような経験から多くの同胞よりもアメリカの文化に慣れ親しみ、我が国との相違点を幅広く深く理解し且つ認識していると自負している。即ち、22年半の経験で「自分の足下を十分に見る機会があったし、彼らの足下をも観察してきた」と言うことだ。
その経験が出来たからこそ、我が国との文化比較論などを紙パルプ産業界の中や数校の大学とラジオ局でも語る機会を与えられたし、且つ「アメリカ人は英語がうまい」という本にして上梓することも出来たのだった。
我が国とアメリカとの相違点は数多くあるのだが、私の捉え方を解雇すれば在職中に本部に出張してシアトル空港に降り立つ度毎に「あーあ、また何もかも違う国に来てしまった」と気を引き締めて、緊張していたのだった。年間に5回も6回も往復してどれほど慣れ親しんで来ても常に自分に「緊張感を忘れるな」と言い聞かせていた。
ここまでで言っておきたかったことは「海外訪問の経験を積んで、あるいは一度でも良いから外国に出掛けて、我が国との文化(原語・風俗・習慣、物の考え方の等々)の違いを経験しておくことで、その結果として見聞が広まって、我が国の良さが見えてくるものである」という点だ。
繰り返して言えば「自国の文化を知らない事には(自分の足下を先ず見極めること)、諸外国の文化は見えてこない」のである。「その外国が如何なる異文化を持っているかは一度だけ訪れただけも、その気になって観察すれば、必ず何か違いがある事が見えてくるものだ」なのである。勿論、何度も繰り返して訪れるに越したことはないが。
私もアメリカの会社に転出してから数年後までは「何でこうなるのだろうか」とか「何という物を知らない分からず屋ばかりの国なのだろうか」と勝手に悩み且つ苦しんでいたものだった。それは、他でもない「外国と我が国との間の文化と思考体系の相違があるなどは全く考えもせずに入って行った」からだとする方が正確なのだ。即ち、「我が国でもアメリカでも会社と称している以上、物事は同じように起きるものだ」と浅はかにも考えていたからに他ならないのだ。だが、アメリカ人たちも同じように軽く考えていたようで、“Things happen the same way in Japan as in the U.S.”と思い込んでいたのだと、時間の経過と共に見えてきた。これだから屡々話が通じなくなったのは当然の現象なのだ。
以前にも回顧したが、「我が国とアメリカの企業社会における文化の違い」(英語の題名は“Japan Insight”だった)と題したプリゼンテーションを本部で全員に集まって貰って行ったのは、何とWeyerhaeuser入社の15年も経った後だった。勿論、アメリカは魅力に溢れた良い国であって、初めて1972年8月にMeadにトレーニングという顔見せで25日間も出張した時には、このまま永住しても良いなと真剣に考えたほど魅了されたのだった。だが、アメリカを知れば知るほど、同時に我が国の良さが見えてくるようになって、上記の「我が国ほど良い国はない」に行き着いたのだった。
ここまで縷々述べてきたことは「兎に角、色々な意味で何処でも良いから外国を訪れて、出来る限り観察してくることだ」と言いたかった点なのだ。即ち、「外国を見てくれば、そこで何かを学ぶか知り得れば、それが貴方の視野と見識を広げることに繋がっていくのだ」となるのである。古い言い方に「百聞は一見にしかず」(=“Seeing is believing.”)というのがあるではないか。「兎に角、外国に行って見聞を広めようではないか」が私の主張である。
Weyerhaeuserで2番目の上司だったニューヨーク州の名家の出身で、シカゴにあるハーバードと並び称されているとご当人が言われるノースウエスタン大学のMBAだった秀才が「先ず自分の足下を見てから外国を語るべきだ」と言ったのが忘れられない。
長年のつきあいがある海外経験豊富な商社マンと語り合った時に、彼はしみじみと「外国から帰ってくると、何時も我が国ほど良い国はないと痛感する」と言っていた。私も「誠に以て同感である」と応じた。彼は中近東駐在の経験がある他に輸出入を担当して北アメリカ、東南アジア、中国等々と年中海外を回っていた国際派である。
更に彼と意見が一致した点は「多くの外国にはそれぞれ良い点があって捨てがたいのだが、馴れてくれば我が国と比較した場合にその国ならではの欠点も見えてくるものだ。外国への出張なり個人旅行ででも数を経験すればするほど、我が国の良い点が見えてくるものなのだ」だったのだ。
私も1970年の未だアメリカの会社に転出する前に生まれて初めて社命により恐る恐る東南アジアを台湾、フィリピン、シンガポール、香港と回ってきてからは、自分では気が付かなかったが、他人様には「物の見方が変わってきた」と言われたものだった。即ち、外国を経験して見て初めて自分の国との比較が出来るようになると言うことらしかった。
その後の1971年には韓国への出張も経験して月並みな言い方だが「益々見聞が広まった」ということになったと思う。即ち、韓国では東南アジアの国々とは全く異なる文化というか国民性を痛感させられたのだった。解りやすく言えば、台湾の人たちのように「日本統治時代は良かった」と言う者など皆無の国だった」と言うこと。
そこでアメリカだが、1972年に全く思ってもいなかった偶然の積み重ねと運命の流れで、当時はアメリカの紙パルプ産業界で第5位のMead Corp.に転出したのだった。更に1975年には「本当にこれほどの偶然があるのか」と後に関係した方々と語り合った偶然と、またもや運命の流れで、Weyerhaeuserに転進したのだった。ここで先ず痛感したことは、あの広いアメリかでは東海岸の伝統的な企業であるMeadと、西海岸の太平洋岸にあるWeyerhaeuserでは大袈裟に言えば「文化が異なる」という点だった。
それから1994年1月末でWeyerhaeuserをリタイアするまでにアメリカだけでも2012年までに英語で言う“pleasure trip”を含めれば60回以上は往復していたと思う。その他にも在職中にもヨーロッパにも所謂観光旅行にも出掛ける機会もあったので、アメリカ以外では確か19ヶ国を回っていたと思う。
その外国を回った中でも事アメリカについては、何度も言ってきたことで「私は彼らの一員としてアメリカの為に22年半も対日輸出に励んできたので、そのような経験から多くの同胞よりもアメリカの文化に慣れ親しみ、我が国との相違点を幅広く深く理解し且つ認識していると自負している。即ち、22年半の経験で「自分の足下を十分に見る機会があったし、彼らの足下をも観察してきた」と言うことだ。
その経験が出来たからこそ、我が国との文化比較論などを紙パルプ産業界の中や数校の大学とラジオ局でも語る機会を与えられたし、且つ「アメリカ人は英語がうまい」という本にして上梓することも出来たのだった。
我が国とアメリカとの相違点は数多くあるのだが、私の捉え方を解雇すれば在職中に本部に出張してシアトル空港に降り立つ度毎に「あーあ、また何もかも違う国に来てしまった」と気を引き締めて、緊張していたのだった。年間に5回も6回も往復してどれほど慣れ親しんで来ても常に自分に「緊張感を忘れるな」と言い聞かせていた。
ここまでで言っておきたかったことは「海外訪問の経験を積んで、あるいは一度でも良いから外国に出掛けて、我が国との文化(原語・風俗・習慣、物の考え方の等々)の違いを経験しておくことで、その結果として見聞が広まって、我が国の良さが見えてくるものである」という点だ。
繰り返して言えば「自国の文化を知らない事には(自分の足下を先ず見極めること)、諸外国の文化は見えてこない」のである。「その外国が如何なる異文化を持っているかは一度だけ訪れただけも、その気になって観察すれば、必ず何か違いがある事が見えてくるものだ」なのである。勿論、何度も繰り返して訪れるに越したことはないが。
私もアメリカの会社に転出してから数年後までは「何でこうなるのだろうか」とか「何という物を知らない分からず屋ばかりの国なのだろうか」と勝手に悩み且つ苦しんでいたものだった。それは、他でもない「外国と我が国との間の文化と思考体系の相違があるなどは全く考えもせずに入って行った」からだとする方が正確なのだ。即ち、「我が国でもアメリカでも会社と称している以上、物事は同じように起きるものだ」と浅はかにも考えていたからに他ならないのだ。だが、アメリカ人たちも同じように軽く考えていたようで、“Things happen the same way in Japan as in the U.S.”と思い込んでいたのだと、時間の経過と共に見えてきた。これだから屡々話が通じなくなったのは当然の現象なのだ。
以前にも回顧したが、「我が国とアメリカの企業社会における文化の違い」(英語の題名は“Japan Insight”だった)と題したプリゼンテーションを本部で全員に集まって貰って行ったのは、何とWeyerhaeuser入社の15年も経った後だった。勿論、アメリカは魅力に溢れた良い国であって、初めて1972年8月にMeadにトレーニングという顔見せで25日間も出張した時には、このまま永住しても良いなと真剣に考えたほど魅了されたのだった。だが、アメリカを知れば知るほど、同時に我が国の良さが見えてくるようになって、上記の「我が国ほど良い国はない」に行き着いたのだった。
ここまで縷々述べてきたことは「兎に角、色々な意味で何処でも良いから外国を訪れて、出来る限り観察してくることだ」と言いたかった点なのだ。即ち、「外国を見てくれば、そこで何かを学ぶか知り得れば、それが貴方の視野と見識を広げることに繋がっていくのだ」となるのである。古い言い方に「百聞は一見にしかず」(=“Seeing is believing.”)というのがあるではないか。「兎に角、外国に行って見聞を広めようではないか」が私の主張である。