新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月7日 その2 “bow gun”で思い出したこと

2020-06-07 14:56:14 | コラム
1948年のアメリカ映画「腰抜け二丁拳銃」を思い出した:

1948年は昭和23年であり、忘れもしない第3回の福岡で開催された国体の高校サッカーの部で我が湘南高校が決勝戦で敗退した年だった。私の自慢の?記憶力を以てしても、このボブ・ホープ主演の映画の封切りと、我が母校の敗退の何れが先だったかは不明だ。なお、いきなり英語の講釈に行けば、“Bob Hope”は断固として「バブ・ホープ」とすべきだ。進駐軍が幅を利かしていたあの時点でも、既に忌むべき「ローマ字読み」の表記をしていたとは、21世紀の今日でも改めて遺憾の意を表しておきたい。

ところで、何故唐突にこんな事を言いだしたのかと言えば、関西のある都市でボーガン(bow gun)を使った犯罪があったからだ。私の関心は“bow”の方にあった。先ず思い浮かんだのがダイナショアが歌ったあの映画の主題歌「ボタンとリボン」(“Buttons and bows”)だった。ドンドン話が遠回りしていくが、この映画の原題は“Paleface“であり、言わば“political correctness”だったかに引っかかりそうな、アメリカ原住民が使う言葉だったそうだ。だからこそ、原題とは全く異なる「腰抜け二丁拳銃」との「邦題」にしたのだろう。

主題歌の“bows”は冗談交じりに漢字で書けば「坊主」になってしまう。ということは、“o”を素直に「オ」と発音していると言えるだろう。この場合の意味は「蝶結び」だったり“a bow tie”とすれば「蝶ネクタイ」になるのだ。更に「弓」となって“bow gun”とすれば「ボー(ボウ)ガン」にもなってしまうのだ。ややこしいのはこれからで、多くの方はもしかすると中学1年の頃に英語の授業開始前に立ち上がって先生にお辞儀をする時に「バウ」即ち“bow”と号令がかかっただろうと思う。不思議なことに、ここでは「ボウ」ではなく「バウ」なのだ。英語はかくも面倒なのだ。

主題歌の“Buttons and bows”は当時「バッテンボー」のように発音されて、かなり流行っていたと記憶している。だが、カタカナ語化する際の常套手法として、原題の複数を表す“s”が何処かに消えてしまったし、辞書には「リボンなどを使って、蝶結びにすること」というような解釈があるので、「ボタンとリボン」になってしまったのかと、今となっては推理している。そんな英語の講釈は兎も角、当時はホープが演じる喜劇のおかしさには大いに笑わせられたものだった。後になって知ったのだが、てっきりアメリカ人だと思っていたホープは、UKから帰化した人だったのだ。

この映画は確か藤沢から遙か東京まで行って観ていたのだったが、国体で優勝する為に連日練習に打ち込んでいたあの年は福岡まで遠征もしていたし、良く映画など見る時間が取れたものだと、72年も前の記憶を辿ろうにも、流石に思い出せる訳がなかった。


私が内側で経験したアメリカを振り返れば

2020-06-07 11:05:10 | コラム
アメリカの優れた部分を体験してきただけか:

中国が新型コロナウイルスを我が国に送り込んでくれた為に、2月には懇談させて頂くはずだった国際法と防衛学の権威であるTY先生との昼食会が、甚だ残念なことに未だに延び延びとなっている。そこで、この際はテレビのようなリモート形式ではないが、Emailによる意見交換を期せずして開始すること運びになった。そこで、私の方からはこれまで先生に余りお知らせしていなかった「内側から見たというかアメリカ側の一員として経験してきたアメリカの企業社会の実態」を回顧してみた次第。

私は我が国には数多くのアメリカの会社でアメリカの本部や支社、あるいは東京等の我が国の出先に勤務された方々は多いと思っている。だが、何故か(時には暴露物と私が書いたものが批判された事すらあったが)私がこれまで繰り返して発表してきた「内側から見アメリカの会社」か「我が国とアメリカの企業社会の文化比較論」を真っ向から論じられた方は少ないと思う。私の持論は「両国間には未だに相互の理解と認識不足があるのは極めて残念であり、この点を解決しないと何時まで経っても我が国は理解されざる不思議な国のままとなる」なのである。

私は今を去ること48年前に、アメリカの階層社会というかTY先生の表現を借用すれば「上層のすごい部分」か「上澄み」の支配階層の世界があったとは知らずに、無謀にもノコノコと入って行ってしまったのだった。その支配階層とは如何なるものかは今日までに繰り返して触れてきたが「ごく少数の生まれながらにしてその世界の住人となるべく育てられてきた者たちの世界」なのである。1975年にW社に転出した時点で教えられた事は、その「上澄み」に属していて当時の貨幣価値で年俸が5万ドルという者たちは、アメリカ全体の5%もいないだろうというものだった。

その支配階層であり上澄みがアッパーミドルから上の層にある者たちであり、私が勤務した2社の管理職以上の地位にある精鋭たちはその階層を代表していたと思う。彼等がどれほど裕福だったかというか年俸を含めた資産があったかを考えて見よう。彼らはその頭脳明晰な子供たちを複数で東海岸の有名私立大学に送り込み、当時では1人当たり年間5万ドル以上もかかる学費を軽い気持ちで負担しているような人たちなのだ。そして、そのような階層にある人たちの家庭における躾の厳しさや、言葉遣いの上品さは聞きしに勝るものがあり、子供たちのプライドの高さには驚かされたものだった。

だが、私の60年来の友人であり尊敬するYM氏や、嘗ては昭和33年からのゴルフ友達であり某電器会社の元副社長のJK氏などは、アメリカの上澄みの世界の人たちと十分に肩を並べるだけの知性と教養と資力を備え、尚且つ絶対に驕る事なき品性を備えている。即ち、私が強調したい事は我が国にもアメリカ的な「上層のすごい部分」に属する人たちはチャンと数多くおられるという点なのだ。私は意図して転じていった訳ではないW社でも何処でも、アメリカの大手企業の中で20年以上も過ごせば、某大統領のような品性を嫌悪する人たちがいるという事は理解できるのだ。

ここで誤解されないように念の為の確認して置くが、彼らの多くも(あるいは私も)その大統領の政治手法や政策や外交方針を頭から否定しているのではなく、例えば私も既に触れたように黒いコートの前を開けたままで闊歩されるような服装学には好感を持ちようがないという意味でもある。アメリカの企業社会においては「ビジネスマンの服装学」については厳しい規範があり、副社長兼事業部長の考え方次第では、部員にも彼の定めた規範に従うことが厳密に要求されるのだ。

そうでなくても、私が未だそういう文化を知らずに本社ではなく工場に出向いていた際に、同じスーツで2日続けて出勤したところ、技術サービスマネージャーが鼻をつまんで「汗臭いスーツを今日も着て来るとは何事。今回は大目に見るか二度と繰り返すな」と怒鳴りつけられたのだった。副社長兼事業部長の規範では本部にブレザーに替えズボンという服装での出勤許されず、ワイシャツは白のみで、床屋には最長でも2週間以内には行くこと、髭ももみ上げを伸ばすのは禁止等々だった。私は本社に出張するときは少なくとスーツの着替えは2着は持っていくようにしていた。

M社のパルプ部では1974年4月にフロリダで1週間開催された“Division meeting”(=部会)に参加した。その際には午前中に会議が終了した後は、午後になると食事会を含めて色々な催し物が予定されていた。アメリカに未だ馴れていなかった私が悩んだのが、日替わりである催し物に参加する為の服装の選択だった。即ち、どの程度に着飾るべきかキャジュアル(「カジュアルはカタカナ語だ」でも良いかを判断する基準が解らなかった。

ところが、ある夕食会にネクタイをせずに出ていくと後から来たアメリカ人がスーツにネクタイ姿で“Am I over-dressed?”と慌てて着替えに戻り、結果では私の判断が正しかったと判明した事があった。M社はそもそもがニューヨークを本拠とする名門の会社だったが、あの街の環境の悪化というか公害を嫌ってオハイオ州のデイトンに移転した由緒正しき会社なので、服装にも厳格だったのだ。W社はアメリカ西北部の会社なので、M社と較べれば拍子抜けするほどキャジュアルだと言っても良いかも知れない。だが、トリプルAの格付けに相応しい厳格さは維持されていた。

何故、そこまでの厳格さがあるのかと考えて見れば、両社とも創業者の名字を社名にしている名家が所有する格調高い会社だ。そして、当然のように副社長以上の地位にある者たちの大多数は東部のIvy Leagueがそれと同等の大学のMBAやPh.D.が占めているという事は、上記の「上層のすごい部分」と言うか「上澄み」乃至は支配階層の家柄の出身者なのである。この辺りを外国人である私が見れば「アメリカの企業社会で一定以上の地位を占める為には、少なくともアッパーミドルかそれ以上の家に生まれるしかない」となるのだ。

このようなアメリカの社会の在り方を「格差社会」という不平等なものと見るか、努力さえすれば、才能さえあれば、ビル・ゲイツにもステイーブ・ジャブズにも一代で成れるのだと思うかは、私には俄に判断は出来ないのだ。私に言えることは「我が国の方がアメリカと比較すれば、出自に関係なく企業社会で身分の垂直上昇が可能であるという点では、遙かに平等であり公平である」と思って見てきた。故に、私は「自分自身が外国人であり、修士号もなしに入っていくべき世界だったかとの疑問は残る」と何度も回顧してきたのだ。