新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

「謝罪の文化」を考えよう

2022-07-05 08:27:43 | コラム
KDDI高橋誠社長の謝罪記者会見の虚しさ:

我が国は西欧文化圏の諸国には存在しない「謝罪」という文化がある。彼らは先ず絶対と言って良いほど「自らの非を認めて積極的に謝ることはしない」のである。我が国では先ず謝れば言わば「水に落ちた犬は打たない」のが習慣であるから、アメリカの会社に移った後では、この両極端の狭間に落ち込んで悩まされたのだった。

それはそれとして、我が国ではテレビ時代になってから、何時何処で何処の会社が先鞭を付けられたのか知らないが、何か重大な過失乃至は事故を起こした会社の首脳部が記者会見を開いてテレビカメラを入れて、そのテレビカメラの前で全員が一斉に頭を下げて詫びることで、罪一等を減じられるかのようになったのだった。

また、ここには我が国と西欧諸国との文化の違いがあって「彼ら諸外国、中でもアメリカでは副社長兼事業部長を始めとして首脳部は職責上と年俸の高さから常に第一戦というか現場に出て客先を訪問するので、何が何処でどのように起きているかを把握している」のだ。一方の我が国では「管理職としての地位が上昇するに従って、現場から遠くなる傾向が顕著なので、どうしても現状の把握が十分ではなくなるし、特に役員ともなられればその感が否めない」ようだ。

私には、このような記者会見に臨まれる社長や役付役員の方々は、動もすると心からの謝罪と言うよりは実務担当者が用意した原稿を読んでおられるだけになり、本気で事故乃至事件が起きたことをお詫びしておられるようには聞こえないことが極めて多いと見える。極端な表現を用いれば「頭を下げて、強風が過ぎ去るのを待っているのでは」と、疑いたくなるような例も散見された。

これぞ「謝罪の文化」の悪しき表れであろうか。俗に「御免と言って済むのならば警察は要らない」と言われているではないか。我が国の「謝罪の文化」では「謝って自社の非を認めたからと言って、自己の全責任を負い先方の求めに従って全額を補償するということまでには至らない」のだ。

だが、アメリカのように「謝罪の文化」の欠片も存在しない国にあっては、気軽に“I am sorry this accident took place.”とでも言ってしまった時点で「御社が被った如何なる経済的損失も補償する責任を負います」と明言したことになるのだ。だからこそ、彼らは謝らないのだ。この点が非常に大きな文化の相違点である。

であるから、アメリカ人たち交渉の最初から謝るようなことは言わないし、責任を認めることを極力回避する議論を展開しようとするのが普通である。ここには悪意はないと言って誤りではない。

自慢話ではない切実な回顧談であるが、私はこの文化の相異という深い谷間に落ち込んで、彼らに「謝ることは全責任を負いますと認めることにはならないのが日本の文化であり、謝って初めて本当の補償(乃至は先方からの求償)の話し合いには入れるのだ」と説得し続けたのだった。簡単には理解されなかったのは言うまでもないこと。最後には「貴方は何か適当に英語で言ってくれ。それを私が謝罪の文言に直して通訳するから」とまで説いて聞かせたこともあった。

結果としては、彼らも謝ること、それも誠心誠意で謝ることが出来るようになり、先方と本当の意味で「意思の疎通」(「コミュニケーションが取れるようになって」などという間抜けなカタカナ語は使わないよ)を図れるようになって、真の信頼関係が構築されたのだった。「雨降って地固まる」という言い慣わしがあるが、我が方にとっては「謝って地固まる」となったのだった。

何も、KDDIの高橋誠社長にこの文化の相異に始まる経験談を聞かせようとは思わないが、「心が籠もらない、誠心誠意ではない謝罪など無意味だ」と承知して貰いたいのだ。

畏メル友RS氏は私が“「利用者その他の損害を受けたであろう方々に向けて真剣に誠意を込めてお詫びしよう」という気迫が全く感じられなかった。”と指摘したのに対して、“実に軽い「申し訳ありませんでした」との謝罪でした。あれでは逆効果、au離れが起きるのではないかと感じました。”と反応しておられた。