新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

香港の思い出を語る

2022-07-02 09:33:36 | コラム
私が知る香港は消滅したのだろうか:

香港が返還されてから25年経ったそうで、その記念の式典(なのか?)が開催され、習近平主席は「一国二制度は成功」と語ったと報じられた。昨日、偶々チャンネルがあった局でデーブ・スペクター氏は「20何回も訪れてきたが、もう行かない」と嘆いて見せていた。何故、彼がそう言ったかの解説を必要とされる方は極めて少ないだろうと思っている。

私も報道だけから判断しても、70年から96年までに4回も訪れていた香港にはもう行く事はないだろう。尤も、行かないという最大の理由は、2006年の心筋梗塞発症の後では2015年9月で失効したパスポートの再発行を受けていないからだ。海外であの発作に襲われたら如何ともし難いと怖れているからだ。

第1回目:
香港という異国に初めて入ったのは1972年8月のことで、最初で最後の社用での訪問だった。香港は台湾、フィリピンズ、シンガポールに続く第4番目の訪問先だった。フィリピンズでは初めて経験するアメリカ文明の香りに「外国」を感じさせられた。しかし、感覚では経済は明らかに華僑に牛耳られていた。シンガポールは華僑も何も人口の75%が中国系で、彼らは英語を普通に操って我々と仕事の話をするが、彼ら同士では中国語(広東語?)なのが印象的だった。

香港に初めて入って感じたことは「矢張り西欧文明の色が濃厚だが、仕事で出会った貿易商たちは勿論華僑ばかりで、フィリピンズよりも華僑(と言うのか?)が経済を回している所だと痛感させられた点」だった。何分にも37歳にもなって初めて出掛けた異国なので、ディザイナーブランドの店が数多く立ち並んでいる光景には「富有な人たちが数多く存在するのだな」と、林立する高層建築以上に圧倒された。食べ物は極めて美味だったと記憶する。英語はごく当たり前のように通じた。

ここでは「カルチャーショック」も経験した。それはホテルの最上階のエレベーターホールで早朝に出会った隙の無い服装をされた日本のご婦人が、「こういう場所で出会ったら“Good morning.”か『お早う御座います』のような挨拶をするべきなのですよ。貴方は未だ外国に慣れていないようだから気をお付けなさい」と一喝されてしまった。

これは些か過剰なお叱りだったと思うが、72年になってアメリカに行けば、見ず知らず同士でも“Hi!”とか“Hello!”であるとか“How are you doing?”と声を掛け合うのはごく普通のことだと解った。香港で大いなる予習をさせて貰えた。

第2回目:
この香港行きは1972年1月のパック旅行で、家内と小学校生徒の長男と幼稚園児の二男に加えるに義父と義妹も加わった大人数での観光旅行だった。子供たちにはこの頃から海外に馴れさせておくと将来役に立つだろうと考えてのことだった。この旅行の写真は数多く残っているが、色々と面倒を見ることが多かったせいか、余り記憶がないのが残念だ。そう言えば、マカオにも行って、カジノを見学できていた。

第3回目:
これは1988年11月のことだった。「我が社が嘗ては豪華なことをしたものだ」と回顧している「我がジャパンの東京営業所開設25周年記念」(だったと記憶する)の会社の旅行(company outingという)で、全員で香港旅行に出掛けたのだった。この際の香港での記憶は、先ず「ルイビトン」の店には延々長蛇の列が出来ていて2時間待ちであり、やっと中には入れても物凄い人で商品が陳列されているケースには近寄れず、皆で諦めて退出してしまったことを挙げたい。

正直なことを言えば、香港はduty freeなのだが、他の関税なしの国とと比べれば決して経済的な価格ではなかったのだと思っている。

次は意外でもなかったが、街を何名かで彷徨っていたら「ローレックスの偽物があるよ」と勧誘されて「皆で渡れば怖くないだろう」と、その怪しげな客引きに付いていったことも忘れられない。結局の所、何も買わずに無事に帰ってこられた。この偽物のローレックスだが、ビクトリアピークに上がっていくバスの中に売り込みに乗り込んできた者から何人かが買ったのだが、下山する頃には動かなくなっていたので、一同大笑いで終わった。

ではあっても、非常に楽しい旅だった。だが、私は帰国する日に重要案件で副社長が既に帝国ホテルで待っていると事前に知らされていたので、成田から直行して打ち合わせと決まっていたので、何となく落ち着かない香港の数日だった。

第4回目:
最後の香港は1996年9月だった。この時は既にリタイアした後なので、家内との気楽な旅だった。食べ歩きもしたし、気の向くまま足の向くままに市内を見て歩いた。ホテルのブレックファストを避けて当てずっぽうに朝食に入った店で、メニューも読めないままに注文した「朝粥」が絶品だったのは良き思い出だった。意外だったのは、この頃から既に英語が嘗てのようには通じなくなっていたことだった。商社の駐在の方に訊くと「中国本土から脱出してきた者が非常に増えたから」だった。

駐在の方たちに教えられたことは「中国が標榜する『一国二制度』に対する何とも言えない不安感」であり、「あの時点は香港が未だ自由貿易港の地位が維持できており、輸出入のビジネスは健在である」という辺りだった。

そういう堅苦しい事よりも私にとって印象的だったのが「上海がに」だった。永年の馴染みである専門商社の駐在員との会食で「上海がに」を我々の為に注文して貰えたのだが、彼らは他のものを頼んでいた。その理由は「もう食べ慣れたから」だった。その有名な料理を感激して頂戴した。だが、味はそれほどではなかった。

すると、食べ終えた頃に駐在員は「それほどではなかったのでは」と問いかけてきた。恐る恐る「実は・・・。」と答えざるを得なかった。彼らは慌てずに「実は、大袈裟に喧伝されているほどのものではないと認識しています」と言うのだった。たった一度の経験で云々するのも問題かも知れないが、世間の評判などと言うものは必ずしも当てにはならないのではないかと思わせられた。

結び:
上述のように、往年の香港とは「観て良し」、「食べて良し」、「買って良し」であり、「仕事をするのも良し」の場だったと思う。その香港を、報道の通りであれば、習近平主席は無残にも「一国」にしてしまったのだ。「二制度」は雲散霧消してしまったかの如くである。彼は観光収入も経済からの収入も捨てて、支配欲だけを充足する気ではないだろう。領土を拡張して太平洋のこちら側の半分を先ず支配する期なのだろうか。

私は何れにせよ、東南アジアの諸国の経済は華僑勢力に支配されていたのだが、習近平主席はその東南アジアを政治的に支配する一環として香港を潰してみせたのだろうかと思っている。何と例えて良いか解らない暴挙である。遺憾であり残念なことだ。