埼玉県の英語教育法には賞賛したいが疑問な点もある:
昨6日は箱根からの帰路、即ち5日にはかなり痛くなっていた巻き爪を何とかして頂かねばと、左足の親指が痛烈に痛む足を引きずって歩き、何とかかかりつけのクリニックに09:01AMに到着。当方の不注意か既に化膿していたそうで、処置と言っても言わば緊急の最小規模の手術となった。結構痛かったが、医師は経過を見て金曜日にまた来るよう指示された。さらにジムと入浴はとりあえず見合わせよとの告知。勿論、痛み止めと抗生物質も服用となった。
ジッとして家にいて痛みが引いた頃に見たフジテレビだったと思ったが、私にとっては大変興味深いニュースが出てきた。それは、埼玉県では「国際化が一層進んでいく現代であるから、時代に即応する英語力を備えた人材を育てていこう」との大方針を立てられたそうだ。
そのために、小学校では1年から英語教育を開始しているのだそうだ。私に言わせれば「止めた方が良いのに」となるが。中学校では英検3急に合格した生徒の数が全都道府県の第1位だそうである。凄いじゃないか。
さらに中学校の英語の授業は全て英語のみで行うこととして、各教室には外国人のALT(Assistant English Teacherのことで、何処の国とは言わなかった)も配属されている画面も出ていた。結構な体制であるとは言えると思う。埼玉県が狙っていることは「生徒たちをキチンとして文法を守った英語で話せるよう育てること」にあるようだったと勝手に察した。
例として、テレビ局員に英語で質問されたのに対して、女子生徒が“I am not so good at speaking English.”と答えたのがあった。これなどは私が日頃から推薦している表現だから、「こういう言い方ができるようになっているのは、良い方向にあるな」と思って聞いていた。 何処が良いのかを解説すると“I cannot speak English.”だと「話すことができない」と言いながら英語を話していることになるのだが、これならば「上手に話せない」の説明になっているから良いのだ。
埼玉県の教育法は良いようであるとは言ったが、矢張り気になる点が幾つか見えてくるのだ。その辺りを考えてみよう。先ず注意すべきことはALTの外国人の質である。私ならば卒業した大学で外国人に日本語を教える課程を経ているかを調べる。次は私が常に取り上げる「採用する側でそのアメリカ人が外国人に教えて良いほどの正調で正確ではなく、正確な発音になっているかを審査できるのか」なのだ。“native speakerであれば誰でも良い」とは絶対にない
この意味は「アメリカの地区によって違う表現の仕方がある」、「南部のキツい訛りを教えて良いのか」、「東海岸は非常に早口である」、「アメリカにも英連邦系の人沢山いるので、アクセントが違う」等々の他に、英連邦のUK、オーストラリア、ニュージーランド、には独特の発音があるのを忘れてはならない。Australiaは国内で「オーストライリア」になるし、David Beckhamは「ダイヴィッド・ベッカム」と自称している。私はニュージーランド人の研究員に“basis weight”を「バイシス・ウワイト」と発音されて困惑させられた。
私は英語ならばあらゆる倍エーションを何とか聞き分けられるほど慣れたから、本当の正調のKing’s Englishとその他の訛りやLondon Cockneyなりを峻別できるし、アメリカ語ならば訛りは直ぐに解るし、話すのを聞いただけで如何なる階層に属するかの見当は付くから、忌避すべき者は解る。私が懸念することは「我が国の独特の科学的な英語教育で育った方に、この篩分けはできないのではないか」なのである。アメリカに行って“No mail came.”を「ノー・マイル・カイム」などと言ったら恥ずかしいよ。
この埼玉県の英語教育が、早くから英語に慣れ親しませて英検とやらで高得点をあげるとか、TOEICとかTOEFLを目指しているのであれば疑問に思わざるを得ない。その問題点をここのぐだぐだと論じる気はないが、試験の成績のための教育であれば目的が違うと思う。
昨日、放映を聞いていて一つ気になったことがあった。それは上記の“I am not so good at speaking English.”もそうだったが、他の生徒たちが声に出している「教えられた表現をキチンとつなぎ合わせた文章」も、「全部抑揚がなく、強調すべき単語を強く発音していないし、単語にもアクセントがなく、平べったくて日本語と同じ流れになっていた」ことである。外国人がついていてどうしてそうなるのだろうと不思議だった。
何れにせよ、ここには微妙な問題も多く含まれていると思う。*「英語学」を学ばせるために外国人に介添えさせているのか、*正確なnative speakerの発音を、仕込み且つ耳を慣らそうとするのか、*I know how to express myself in English.と自信を持って会話に入っていけるための基礎を作るのか、*全員を5段階に分けて評価する手法も残すのか、どれを目指しているのかが重要だと思う。
私は39歳でアメリカの大手紙パルプ産業界の大手の会社に転身して「アメリカと日本の文化の違い」に加えて「我が国とアメリカの企業社会にける文化の違い」という「バーが私の身の丈よりも高い位置に設定されていた『異文化』というハイジャンプ競技に大苦戦」だった。ここで言っておくことは「言葉が解るだけでは何とならない場合があるので、そのような異文化を何処かの時点で教えるべきだろう」なのである。英語とはペラペラしゃべれれば良いのではなく、相手を説得できる論旨の組み立てができることが交渉の場合に肝要なのだ。
最後に一つ、敢えて付け加えておきたいことがある。それはYM氏と私がLAの近郊の韓国の弁当屋での経験。早朝の店番をしていた若い女性が実に綺麗な現地風に英語を話すので、二人とも“Were you born, here?”と声をかけてしまった。これは「貴方は英語が非常に上手ですが、アメリカ生まれですか」という褒め言葉。それほど、普通にnative speaker並に話すのだった。
聞けば、韓国では2年も英語を勉強しておらず、LAに来ても3ヶ月だという。明らかに学校教育ではないような年齢だった。YM氏と「韓国では余程短期間でもあれほど話せるようになる教え方が確立できているのだろう」との結論に達した。この点では我が国は劣勢であると思う。政府にも大学にも英語教育界にも奮起して頂きないものだ。