新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月11日 その2 「外国に出て行くこととは」を考えてみた

2023-06-11 10:44:48 | コラム
外国人と渡り合うには:

先ほど“加藤未唯さんの件を論じた後で、ふとEnd justifies the means.”という言い方があったのを思い出した。我が国には「目的は手段を正当化する」となっている。私はこれが果たして訳文なのか、我が国での発想なのかは知らない。

でも、20年以上もアメリカ人というか白人の会社で過ごしていると、TK博士がwebで読んだと教えてくれた「web上の記事で、スポーツのプロはスポーツマンシップというモラルが高いかというと、極めて低いという調査結果がある」という論調は当たっているような気がしたのだった。

アメリカやUKが発祥の地である球技系の競技には、数多くの「フェイント」がある。例えば、私が世界で最も難しい競技だと聞かされたテニスなどは、フェイントと駆け引きの応酬は凄いなと思ってみている。アメリカのフットボールには相手のディフェンスを欺くように細かくデザインされたオフェンスのプレーはある。だが、柔道や剣道にはフェイントがあるとは見えないのだ。それが我が国の綺麗さと美しさの表れだと思う。

英語力にも触れておこう。あの対戦相手の猛抗議は何語だったのだろう。加藤さんは充分に英語でも何でも審判が納得するように抗議か反論されたのだろうか。私は加藤さんが混合ダブルス優勝後のスピーチで、目を落として原稿を読んでいるように見えたのは、慎重を期したのだとは思うが、が少し気になっていた。だが、文章はチャンとしていたと聞いた。

国際場裏に出ていくということは言葉の上手い下手も一つの要素ではあるが、言うべき事を堂々と言えるだけの度胸というか「debate」に慣れておくことは必須である。だからというか何というか、私は英語で会話や議論ができるようになるための重要な要素が「慣れと度胸である」と主張するのだ。再度言うが、加藤さんの失格は不当であり、復権させるべきだ。誰がこれを主催者に度胸を以て言いに行くのだろう。


加藤未唯さんの失格の問題

2023-06-11 08:05:35 | コラム
全仏テニスでの加藤さんの失格の件に思う:

このフランスでの出来事は色々と物思わせてくれる案件だった。いや、「あんなことで失格にする」とは不愉快なことだった。

先ず、不可解だったし不愉快だったことは「審判が対戦相手からの猛抗議によって判定を変えて失格したこと」を挙げたい。私は試合の成り行きがどうなっていたか知らないが、対戦相手のサラ・ソリベルトルモ(スペイン)とマリエ・ブズコバ(チェコ)が狡賢くもこのことを奇貨として失格にさせてやれとばかりに、抗議の形にしたのだとほぼ信じている。

それを受けて判定を変えた審判も見識がないのに驚き呆れる。テニスにも“challenge”(=「異議申し立て」であり、「挑戦」ではない、念のため))があるはずだが、あれは試合中の判定の問題ではないのだから、異議申し立てのように審判に抗議ができる案件ではないのではないのだろうか。その点が報道では明らかになっていない。

加藤未唯(ミユ)さん(立命館大学宇治高卒)も、審判に「悪意無し」という点を主張して抗議しているような様子が見えた。だが、矢張り一寸気になったことが、相手側の不当な横槍を退け、審判を翻意させるだけの英語(になるのだろう)での表現力があったのだろうかという点である。相手側も英語圏の国の者たちではないが、世界を転戦して歩いていたとすれば、語系は違っていてもそれ相応の英語力の有利さがあったのではとも疑っている。錦織圭君を見てくれ。

次に取り上げたい点は週刊AWACS氏も指摘しておられた「彼らの狡猾さ」である。後難を恐れずに言えば「彼ら」ではなく「白人」としても良いかも知れない。「そんな無礼なことを」とお怒りの向きは、週刊新潮に高山正之氏が連載しておられる「変見自在」を読んで頂ければ、FDRの他にも幾らでもその悪辣さの例が出ている。

ドタ勘かも知れないが、私はあの加藤さんの対戦相手の猛抗議と聞いて「勝利のために手段を選ばず」とばかりに、絶好の好機到来と読んだのではないかと思った。長年白人の中で過ごしてきた私には、彼らの中には途方もなく頭脳明晰の者がいると承知しているが、彼らは同時に悪知恵も発達しているし非常に狡賢くもあることを知って頂きたい。

怒りの他にも「イヤな時代だな」と感じたことがあった。それはPCと表現されている「言葉狩り」とでも言いたい表現。当初のテレビ放映では「ボールパーソン」と、あのボールがぶつかった女子を呼んでいたこと。野球でも昔から普通に「球拾い」を「ボールボーイ」としてきたが、未だにMLBの中継放映で「ボールパーソン」と呼んだのを聞いたことがない。それが、英語国ではないフランスに行くと「ボールパーソン」になっていた。誰がこう言えと決めたのかなと思った。

PC(political correctness)だったかは、何時の間にかアメリカ中に普及していた。93年一杯の実質的在職中にはどうなっていたか記憶は定かではないが、確か“businessman”は駄目で”business person”でなければいけないと聞いたと思う。また、90年代に入った頃だったか全副社長兼事業部長が集められて「Sexual harassmentとは及びその対策」の会議があった。

当時は先ず「言葉遣い」から気を付けろということから始まっていたが、現在の我が国で悉く問題にされるような女性に直接に手を触れるとか、英語に言う“to make a move”(=口説く)は範疇になかったと思う。PCは一例だけ挙げたが、面倒な時代になったものだとつくづく思う今日この頃だ。

最後になるが、あの失格扱いは取り消されるべきであると思う。あのままでは人種差別と言われたら主催者側は負けるだろう。