新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

続・続 アメリカにようこそ

2023-06-08 16:09:01 | コラム
「道を知りませんので」:

アメリカで何回も何回もタクシーを利用したが、たどたどしい英語でこう言われたことは何度もあった。あれほど多くの余所の国の人たちが、着の身着のままでアメリカに合法非合法の別なく流れ込んでくるのだから、何とか定着できた後でタクシー運転手になるのは解らないでもない。でも「道が解らない」と言われたことが何回あっただろうか。今回はその辺りを思い出してみよう。

「道を知らない症」に罹った運転手の被害に遭ったのは矢張りシアトルが最も多かった。殆どの場合シアトル市内のFour Hotelから「ウエアーハウザーの本社」と言うのだが、これは約$40と言う彼らにとっては稼ぐ絶好のチャンスなのだが、間違いなく到着できたことは一度しかなかった。それ以外は「道を知りません」で運転もできない外国人の私が道案内していた。英語ができなくても「道を知りません」が言えるのも面白い現象だ。

と言うのも、上述したように英語も禄にわからない何処かからの移民が運転しているのだから、無理もないこと。しかも、我が社は市内ではなくシアトルから40kmほど南のTacoma市(現在はFederal wayに改称)にあったのだから、仕方がないことかも知れない。だが利用する方が良い迷惑で、一度降りるときに腹立ち紛れに「何で道案内した客の俺が料金を払わなきゃならないのか」と毒づいたこともあった。

ここでお断りしておきたいことは「私は車の運転の仕方を知らないので、東京事務所の多くのマネージャーたちのように到着次第空港でレンタカーをすることなどできないのだ」という点だ。これは昭和12年12月に父が数寄屋橋の交差点でタクシーによる貰い事故で命を落としているので、残された母から私と弟に「他人に被害を与えるかも知れない運転だけはしないように」と厳しく言われたから。当時4歳と2歳だった兄弟はその言いつけを守ったに過ぎない。

タクシーの利用は何も本社に行くときだけではない。帰路もある。副社長秘書に読んで貰ったタクシーの運転手は嬉しいことに白人だった。安心して色々と話し合いながら乗っていて、Four Seasonsに行くのだからフリーウエイを降りる場所を間違えないようにと、あらかじめ警告していたにも拘わらず、通過してしまった。次の降り口は遙か北のワシントン大学(UW)になってしまう。でも仕方なくそこで降りて、一般道路で市内見物をしながら都心に戻った。

運転手には「UW見学と市内見物の料金は君が負担せよ。間違えたのは私の責任ではない」と厳命して納得させてホテルで降りた。このホテルには何時でも客待ちのタクシーが沢山並んでいる。2007年9月のある日の早朝に、Amtrakの南行きの列車の乗るのに徒歩30分ほどの「King Station」と告げて乗った。すると運転手は私が解らないとでも思ったか「30分も待ってこれかよ」と呟いたのだった。

そこで「俺だって客だぞ。King Stationが近くてそんなに不満なら直ぐ折り返して俺を下ろして、列の最後尾に並んだらどうだ。それとも、このまま行くか」と詰問した。驚いた表情でおとなしく駅まで行った。これは自慢話ではない。雲助運転手は何処に行ってもいるものだと言いたいのだ。「黙っていれば何をするか解らないのだから、おかしいと思ったら直ちに何か言うことだ」と言いたいのである。

一番凄いと感じた話をして終わろう。それはオレゴン州のポートランド空港のタクシー乗り場で遭遇したこと。そこから我が社の工場までは1時間ほどのドライブになるが、その日は工場では誰の手も空かず「タクシーで来てくれ」となっていた。乗り場には1台いたが、半分ほど席が埋まっていた。運転手が行き先を聞くのでLongviewと答えると「OK.乗りなさい」と言うが、座っても一向に動かない。

そのうちに後2人乗って満員となり、やっと動き出した。運転手は各人の行く先を再確認して近い順に下ろしていき、そこまでの料金を取っていくのだった。これには驚く前に呆れた。乗り合いならば割安になるのかと思えば、全員から満額を取っていくのだ。私の工場が最も遠く最後まで残って、$50か$60だったかを払った記憶がある。これもアメリカ式個人営業だから可能な離れ業だと思う。多の州のことは解らないが。

シカゴでも空港から市内まで1時間近く走るので、空港では沢山の客引き運転手がたかってくる。シカゴに行くときは既に取り上げたFood & Dairy Expoに同僚たちと集団で行くので、一度だけ皆でホテルまで利用したことがあった。ここでは一人ずつ料金を取られることはなかった。

「これぞアメリカ」であり「これもアメリカ」ということを紹介したのだが、どのように受け止められましたか

続・アメリカにようこそ

2023-06-08 10:35:19 | コラム
Welcome to Detroit!

1981年の秋だった。XX製紙が30数名の日本全国の乳業会社の幹部30名ほどの団体を、イリノイ州シカゴで隔年に開催される“Food & Dairy Expo”にご案内されたときに、私もお手伝いして思いがけない貴重な経験をした。因みに、Expoは通称“Dairy Show”と呼ばれ、ほぼ全世界から食品と酪農製品のメーカーが出展する大規模な言うなれば博覧会である。我が社は酪農関連である牛乳パックとそれを作る原紙のメーカーとして出展していた。

その際にXX製紙の団体の一員だった九州南部のQQ酪農会社の専務さんが、ご自分の判断で隣のミシガン州デトロイトにある乳業会社を見学する予約を取っておられたのだそうだ。だが、初めて広いアメリカに来てみて、単独でシカゴ市内からO’Hare空港に戻ってデトロイトまで飛んでいくのは無理と知り、XX製紙の団長さんを経由して、お手伝いをしていた私に助けを求めてこられた。「お安いご用」と引き受けた。航空券は専務さんが用意された。

さて、アメリカの自動車の都デトロイトの空港に降りてみて「何だ、これは」の思いだった。自動車産業が衰退していることくらいは承知していたが、その空港の荒れ果てた掃除が行き届いていない汚さと、閑散としたというか、活気がない有様は非常の衝撃だった。到着ロビーには如何にも古びた車が展示されていたのも、弱体化を象徴しているかのように見えた。

タクシーで目座す乳業会社に向かった。運転手が雲衝くような大男のアフリカ系だったのは別段驚くことでもなかったが、社内の汚さも然る事ながらメーターが壊れていて動き出したと同時に猛烈な勢いで動き出しあっという間に途方もない金額に達してしまったのには肝を冷やした。運転手に「メーターが壊れているじゃないか。これでまともに料金が解るのか」と問いかけると「心配ない。そこまでの距離も料金も解っているから」と平然と言うのだった。

途中に、確かあのGMの建物の前を通ったし、荒みきった市内の光景も見た。アメリカの自動車産業が駄目になったと知ってはいたが、これほどまでにデトロイトが壊れていたとまでは予想もしていなかったので、非常の衝撃的だった。これではアメリカの製造業が落日だと言われる訳を、実際に自分の目で見た迫力は何物にも代えがたい経験だと思った。製造業が駄目になったのはズバリと言えば「労働力の質」の問題なのだが、何度言っても解っては我が国方々には貰えなかったようだ。

乳業会社には、それこそ無事に着いた。アメリカに慣れておられなかった専務さんにはかなりの恐怖だったようだ。請求されたタクシー意料金は妥当だと判断できたのでチップとも渡した。工場の規模と設備は“another dairy plant”、即ち、「何処にでもそこにもあるような普通の工場」だった。念のために、タクシー料金のことを事務の方に確認してみると「正当な額である」と認めて頂けて一安心。

そして、工場見学のお礼を言って、帰りのタクシーを呼んで頂くようお願いした。するとどうだろう。やってきたのは、あのメーターがぶっ壊れたタクシーだった。運転手は「何だ。またあんた方か。もう心配しなくて良いと分かっただろう」と平然と構えていた。世の中は狭いとは言うが、この広いアメリカに来て数時間の間に、同じタクシーに二度も乗るとは余り経験がないことだった。

余計なことかも知れないが、アメリカのタクシー会社では個人で営業できる者に車を貸して営業させて、その収入から一定の率で賃貸料を取っていると聞いた。即ち、彼らは社名を付けた車に乗ってはいるが個人タクシーが多いので、料金は運転手が勝手に決めている場合が多いとかである。だからこそ、あのデトロイトの運転手は壊れたメーターでも意に介していなかった訳だ。

それだけではなく、あの場合は英語が通じる運転手だったが、何処に行っても英語が解るアメリカ人である運転手は少ない。ニューヨークではエチオピア人だったことがあったし、シアトルのFour Seasons Hotelの前に並んでいた1台にはwind shield(「フロントガラス」を英語での正式名称)の前に「English Spoken」という札を掲げているのもあった。彼の国では、それほどタクシー運転手は外国人の仕事場になっているのだ。

そういう連中には雲助が多いこともあるが、道を良く知らない者も多いので、乗ったならば先ず英語で話しかけて「言葉ができるのだから妙な遠回りをするな」を意味する警告を発していくと良いと言われているのだ。道を知らない外国人の運転手なんてざらにいる国だと思っていた方が無難だ。「これもまたアメリカ」なのである。