新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

私が見るアメリカの現状

2016-03-27 16:28:07 | コラム
アメリカは劣化したのではないか:

アメリカ人が100人いれば99人は・・・:
1990年代に入ってからだと記憶するが、シアトルからの帰りのノースウエストの便で隣の席に座った日本の方とずっと語り合った。彼は東大・工学部出身でC化工建設の支店長であると名乗った。理系の方らしく頭脳明晰でアメリカとアメリカ人の分析も鋭く大いに意気投合した。その議論の中で私はついうっかりと「アメリカ人はbakaばかりで1,000人の中にまともな者は1人しかいないのが困る」と言わば口を滑らせてしまった。

すると彼は「そのbaka云々説には基本的には賛成出来なくもないが、如何に何でも1,000人に1人は言い過ぎではないか。私は100人に1人くらいだとの実感がある」と反論された。彼とはこの件で暫く語り合った結果、私は前説を撤回して「100人に1人説」で決着を見た。即ち、これは拙著「アメリカ人は英語がうまい」にも出ているのだが、「アメリカの大手企業ではその頭抜けた1人が残る99人を引っ張っていく形で、各事業部乃至は会社が運営されているので、その指導者の立場にある1人が失敗すれば100人全部が転けてしまうようなシステムになっている」と極論的に言えるようなお国柄であるという意味でもある。彼にも異論はなかった。

そこからさらに話が進んで行った中で、私がまたもや迂闊にも「アメリカという国では本当にやっていられない。空港のチェックインではあれほど簡単な手続きなのに地手続きが地上勤務の連中の手にかかると全く事が捗らず、1時間も待たされるのは当たり前だ。またホテルのチェックインでも同様だし、買い物をすればまともに釣り銭の計算も出来ない売り子ばかりでウンザリだ」と言ってしまった。

すると「貴方それは自己矛盾だ。つい先ほど1,000人に1人しかまともな者がいないと言ったばかりではないのか。それが100人に1人で妥協されたとはいえ、それでも貴方は市中で常に90%を占める連中に出会ったいたのであるし、まともな者に出会える確率は10%に過ぎないではないか。そこに不満を述べてはおかしい」と指摘されて一言もなかった。しかし、考えてみても頂きたい。アメリカでは精々1~5%の富裕にして有名私立大学出身のMBAやPh.D.が支配しているのだ。その支配者に街中で会える確率などは1~5%に過ぎないのだ。

文化の違い:
アメリカでは我が国とは文化が異なっているから、実業の世界から政界に転身する者がいれば、大学や大学院の世界から企業に転じてくる者もいるし、実務の世界からワシントンDCに転じる者もいるし、大統領が変われば議院内閣制でない以上企業の経営者が閣僚になることもあれば、法律の世界から会社に移って経営者になった者などいくらでもいる。何が言いたいかと言えば「1%」の連中が政治・経済・司法・行政の間を往来しているということ。我が国と異なる点は新卒が入社して段階的に昇進するのではなく、昇進する者たちは最初から所謂”speed track”に乗っているのだ。

少しだけ具体例を挙げておくと、ニクソン政権時代のFBI副長官は大統領をウオーターゲート事件で追い詰めた結果で馘首されたが、直ちにW社の法務担当の上級副社長に就任した。ブッシュJr.政権のポールソン財務長官はゴールドマンサックスの社長だったというようなもので、その世界には流動性が高いのだ。W社には元大学教授のマネージャーが何人もいたし、リタイヤー後に教授になった副社長も当たり前のようにいた。

1972年から20年ほどの間に私が見聞してきた限りでは大統領に選ばれた者たちは少なくとも100人のうちの何人かの優れ者で、その支持者は(民主党にはやや怪しげな点があるという気もするが)一定以上の知性も資産も備えている所謂”minority”ではない者たちであったと思っていた。しかし、私の周りにもあったアメリカを揶揄する声の中には「アメリカ人は心優しく懐も深くお人好しに過ぎる。あれほど無造作に世界の各国から移民を受け入れただけではなく、世界の警察官の役目をほとんどボランテイヤー式に引き受けている」という見方があった。

その過度な「お人好し」の結果で何時の間にか”minority”が急増して「1%が99%の富を握る」というような不平不満を唱える”poor white”以下の層が支持する大統領が7年ほど前から登場するに及んで、私にはアメリカの雲行きが怪しくなってしまったように見える。リーマンショックは決してオバマ大統領の責任ではなかったが、彼は「誰がやっても上手く行くことはないだろう」と危惧された時期に「政治・経済・軍事・外交等々」の素人でありながら”Change”に期待した層に支持されて当選してしまったのだ。それ以降のアメリカの弱体化というか劣化の詳細を此処に私が述べる必要もないだだろう。

アメリカは劣化したのか:
私はアメリカ人はお人好しだとは言ったが、それは彼らのごく一部の面を表しているに過ぎない。彼らは我が国とは全く異なる「性悪説」を信奉しているし、二進法でしか物事を考えられない人種であるが決断は実に早く、「話せば解る」ことはなく飽くまでも討論するし、その”debate”を学校で教育されているし、CIAを存在させるような”Intelligence”の世界を構築する連中である。

しかし、そのお人好しに付け込んだ合法と公称1,200万人を超える不法移民を抱え込んでしまった結果で、この度のトランプ氏のような言って良いのか、そのような層の支持を得るような発言をする、本来は泡沫候補であったような者が、もしかすると共和党で指名を獲得するかも知れないと危惧される時代となった。アメリカはそこまで変化してしまったのだ。このままに推移すれば、誰が次期大統領になろうと、私は余り我が国にとっては好ましいことにはならない気がしてならない。もしかすると、アメリカ人はやや年齢的にも疑問が残るクリントン夫人かトランプ氏化の選択を迫られることになってしまうかも知れない恐れすらあるような気もする。

しかも、その二者択一かも知れない事態を招いたのは、他ならぬアメリカ人自身の「心と懐に広さと深さ」だったとしたら、どうするのだろう。私にはその辺りがアメリカの人口が在職中には2億6,000万人と認識していたものが、今や3億数千万人にまで増加させたことこそが原因だと思っているのだが、如何なものだろうか。


3月26日 その2 高校の全国大会排斥論者の弁

2016-03-26 17:20:48 | コラム
私は甲子園の野球排斥論者である:

何を隠そう、私は嘗て高校の級友の脇村春夫君が高野連会長就任祝いのクラス会の席上で、彼に「甲子園野球を止めよう」の文書を渡して驚かせたほどの高校のスポーツの全国大会を嫌う筋金入りの野球に限らず高校のトーナメント方式の全国大会の排斥論者である。そういう主張を始めたのは1979年頃ではなかったかと記憶する。言いたくはないが、アメリカには州毎の大会はあるそうだが、全米高校大会などないそうだ。これは我が国独特の文化ではないのか。

その理由と根拠はこれまでに何度も展開してきたが、此処にあらためて要点だけを並べれば、特に夏の甲子園は朝日の販促の手段に過ぎないだけではなく時代感覚が著しく欠如していること、この大会に出るか勝つ為に指導者がその水準(カタカナ語では「レベル」)に子供たちを小さく纏めてしまうと言うか小細工を覚えさせ過ぎること、大学なりプロなりに行った際に大きく伸びる素地を消してしまうこと、その狭い世界しか知らぬ若者を養成する嫌いがあること、その世界しか知らぬ世間の常識を知らぬ大人が支配する組織を作ってしまう結果を招いている辺りになる。

目下のところ、現時点では高校の1、2年生だけが集まっている春の選抜野球が開催されている。甲子園野球を排斥するとは言ったが、時々はそのNHKの中継放送を見ることもある。本日は1回の裏だったかに大阪桐蔭がホームランで1点を先取したのを見て「これでは千葉県の木更津総合の勝ちはないだろうと思って、見るのはそこまでにした。結果的には如何にも公立学校風の名前の木更津が優勝候補だったかの大阪桐蔭に勝ってしまった。そこであらためて検索すると、木更津は私立の学校だったのは意外だった。

私が甲子園野球嫌う根拠には必ずしも高野連の責任だけではないが、NHKの中継放送の仕方にも嫌らしいところが数々ある。順序不同で行けば、先ずはあの負けた学校が涙とともに準備してきた(!!1)「甲子園の砂」を入れる袋を持ち出して下俯いて両手で掻き入れる場面だ。それを大勢の写真係が這いつくばって撮るのは天下の奇観だ。余りに感情的だし、この行為が(誰が流行らしたカタカナ語か知らぬが)「ルーテイン」化されているのが不思議だ。大体からして負けるのを想定してか、それ用の袋を持ってくる感覚が理解不能だ。

次は負ける方の最後の打者が一塁に頭から滑り込む(ヘッドスライデイングは造語で英語では”headfirst sliding”と言うようだが)儀式はあれは何だろうと思う。そういう場面でなくてプロでも、屡々ヘッドスライデイングを敢行者がいる。しかし、走り抜ける方が速いと解っているのに、闘志を表す儀式が此処でも標準化されている。余りにも非合理的ではないか。非合理と言えば、高校生で体も出来ていない投手が連投や100球以上も投げるのは良くないと思うが、マスコミも解説者も何も言わない、イヤ言えない仕組みになっているのかな。

試合が終わると、各校の野球部員か監督を先頭に引き上げてお定まりのインタビューとなるのだが、その先頭に麗々しくダブルのブレザーを着て野球帽を被ったおっさんが先導している。小学生でもあるまいに、自分たちだけで歩かせば良いのにと、つい思ってしまう。これだけではないが、野球という運動の世界にはなんだかんだと古き良き(?)仕来りが多過ぎはしないか。最近は全ての野球部員は野球帽の前の部分を垂直に立て、ひさしを湾曲させている。あれは高野連から全部員はあのような形に帽子を整形せよとのお達しでも出されていたのかと、ついつい疑ってしまう。

近頃は道具入れの頭陀袋のようなとでも形容したい大きな学校名入りの悪趣味な大きな袋を止めて、背負い袋(リュックサックでも良いが)に変えた学校が増えてきた。私はあの袋よりも背負い型の方に好感を覚える。何れにせよ、学校名をあれほど大きく書かれてはあれを肩から提げている限り非行には走れないぞと言う学校側の教育の一環というか、過剰な親心かと思っている。これは野球だけではなく、全ての運動部にも通じるのではないか。

運動部という組織の為にこ子供ちを縛って画一化するのは、それはそれで良いところもあるのだろうが、私には一寸没個性に過ぎると思えてならない。尤も、その没個性が全体としての「常に一丸となっている個性だ」と言われれば、返す言葉もない。此処までのこういうことを言えば、異論、反論が来ることを十分に恐れて申し上げてみた次第だ。


ベルギーと表記される国

2016-03-26 09:23:45 | コラム
Belgiumという国:

先頃のISが犯行声明を出した凄惨で悲惨なブリュッセルでのテロ(”terrorism”のカタカナ語)でテレビや新聞で詳細な解説があるまで、このUNの本部がある国について私は自慢にも何にもならないが、某商社に此処に駐在経験がある人物を知っていた以外にほとんど知識がなかった。だが、オランダ語圏とフランス語圏に分かれているくらい承知していた。

と同時に、EUというものを創り出し所属する各国の間を国境もなく自由に往来出来るという理想型のようなものの「コインの裏側」が出てきたことには、戦慄さえ感じている今日この頃だ。さらに言えば、イスラム圏からの移民の扱いが如何に難しいかをイヤと言うほど知らしめてくれた例であり、キリスト教徒イスラム教徒の間に何千年も存在する諍いのようなものの存在もあらためて認識させられている。

先ほど日テレの辛坊治郎が司会する番組に元ベルギー大使の方が出られて、あの国に内在する諸問題を指摘されていたのを聞いて、そこまでになっていたにも拘わらず警戒態勢に不行き届きがあったというのは信じがたいと言うよりも驚きに近い感があった。警察と言えば我が国ではかなり厳しく動くものだと思っていたが、かの国ではそうはいかないらしいというのも不思議だったし、そこにUNの本部を設けたという感覚も不可解だった。

私はISという存在が何処まで我が国をそのterrorismの標的にする気かなどは想像も出来ない。だが、此処新宿区百人町にはイスラム横丁と呼ばれる小さな一画があり、イスラム教圏の国からかなりの人数が押し寄せており、仮説のモスクというか礼拝所まで作ってあるとの噂まで聞けば我が国にも彼らの言わば工作員が紛れ込んでいたとしても不思議ではないとすら、今では驚くには足らないとすら危惧している。それが一部の跳ね返りが礼賛する「国際化」であり「グローバル化」の「コインの裏側」というものだろう。我が国の行政府かNSAか知らないが、この地区に何が潜んでいるかを調査なさったのだろうか。

終わりに私のかたかなご排斥論を批判する方がおられると承知でカタカナ表記の不思議を。「ブリュッセル」とは言うが、私にはこれが何処の国の言葉に準拠しているのか、寡聞にして不勉強でもあって知らない。英語では”Brussels”となっていて、おしまいに”s”が付いているが、例によって省略されてしまった。発音記号に基づけば「ブラスルズ」が最も近いだろう。「ベルギー」だって英語表記は”Belgium”で「ベルジャム」か「ベルジアム」となるだろう。申し上げておくが、カタカナ表記が面白いと言っているだけで、皆様のご参考までに採り上げたまでだ。


3月25日 その2 Kazk様に感謝します

2016-03-25 13:33:31 | コラム
胸のつかえが下りるようなコメントに心から感謝申し上げます。仰ることに全て賛成です。

何とか言うフランス語を話す監督もさることながら、あのような状態にある代表テイームをそのままに放置する協会の大仁会長以下も誠に困ったものだと思います。

あの程度の相手に苦労していた選手たちを褒めることしかしない解説者どもは余程協会が怖いのでしょう。私は「最早何処のテレビ局も使わなくなった野球の広岡達朗私的な解説者よ出でよ」と叫びたい思いです。あんなサッカーをやっていながらW杯に出ようなどとは根本的に考え誤っています。このままでは益々ラグビー如きの後塵を拝するだけでしょう。

W杯サッカーの二次予選観戦記

2016-03-25 07:32:03 | コラム
弱敵を相手にして我が男子代表のみっともない勝利だった:

ハリルホジッチ監督は相手が既にアウエーで6対0で勝っているアフガニスタンだったので、この機会にとばかりに本田と香川を「これから先50年も代表テイームに定位置があると思うな」と申し渡して外し、経験の浅い者をその2人以外にも多く使ってこの楽勝であるべき試合に臨んだ。理解出来ない戦法ではない、先日の世代交代の遅れもあってオリンピック出場を逃した女性の例もあったことだから。

試合の結果がもさることながら、この場ではどうしても言っておきたいことがある。それはNHK(昨夜はBSだった)にせよ民放にせよ、協会の意を体したかの如き御用解説者ばかりが出てきて、良いプレーだけを採り上げて持ち上げ、失敗例や不味かったプレーに対する批判は先ず避けてしまうことが不満だ。NHKはこれまでは比較的もの申す方だった山本昌邦も昨夜は褒めるばかり毒がなく、TBSはベンチャラ色が濃い福田正博だったので視聴は回避した。私は御用解説を聞きたくて見ている訳ではないので、彼らはもう少し言うべきことを厳しき言うことを切に望んでおきたい。

兎に角昨夜のような不出来な試合では偶にしてか出てこない連中と長く代表としてで続けてきた長友、長谷部、私は評価していない酒井宏樹、吉田、岡崎等とまるであっていないのだった。金崎などは意余っているだけではなくプレーが粗雑で20本以上のシュートを放ちながらまともにGKにまで達したものなどほとんど見かけないほど粗雑なサッカーで幻滅だった。だが、山本もスタジオ解説の早野もその「意欲」を褒めるのにはややウンザリだった。

ハリルホジッチという監督はどうやら香川を余り評価していないようで、暇さえあれば清武を使いたがる。その意図は何とかして清武を成長させて香川と入れ替えようとするのだとしか見えないが、私はこれから先難しくなる一方のW杯予選の最中に試みることではないと思う。それとも、彼は前任者が残した連中を未熟な二線級と入れ替えて自分の色を出していこうかとでも考えているのか。彼は原口を重用するが昨夜も90分間使っては見たが、目立った効果は私の目には見えなかった。森重だった同様だったし、長友君にはインテルが使わないので明らかにサッカーの質に劣化が見えた。

昨夜のように勝って当たり前で勝ち点3が稼げるのが確実な試合に、二線級を使って育てるのは必要なことだとは解るし、監督の意図は否定しない。だが、あの遙か遙か格下の相手に対して前半には1点取るまでに43分も浪費した。選手たちも恥じ入るべきだが、私であれば先に香川と本田以下を使って勝利の形を作ってから二線級を出しただろう。あんな齢相手にろくに裏を取るパスも出せないような連中を使って時間を無駄にした作戦は評価しない。

二線級を何とか引っ張って実力を発揮していた岡崎や長谷部を無駄遣いした試合運びでは、見ている方も退屈を極めた。しかもアウエーで6点取ったものがホームでオウンゴールまで献上して貰っても5点止まりではとても評価出来ない。選手・監督ともに10点満点で5.5程度にしか評価出来なかった。監督はW杯に本気で出せるテイームを作っているのか、それとも世代交代を優先する機なのかが見えない試合だった。