新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

Job descriptionについて

2022-04-17 09:22:12 | コラム
職務内容記述書を考える:

先日「Job(ジョブ)型雇用の考察」を取り上げて論じたので、今回はその根幹をなす“Job description”(=職務内容記述書)を考えてみることにする。先ずお断りしておきたいことがある。それは間違っても“job”を「ジョブ」などと発音するとか、カタカナ表記して頂きたいということ。この発音はアメリカだけではなくUKでも「ジャブ」なのであるから。お疑いの向きはOxfordででも発音記号をお調べ願いたい。私は「ジョブ」のようなローマ字読みは認めないのだ。

職務内容記述書などと言うと何か厳かな感じがするかも知れないが、私の経験ではそれほど緊張することもないような極めて当たり前の事柄しか記載されていなかった。即ち、その職務を担当する者に与えられ、且つ達成することが求められている常識的な事柄が述べられているだけなのだ。例えば“sales and marketing“を担当するのであれば、大要下記のような項目が並んでいると思えば良いだろう。

*売上高と売上数量の目標。
*営業活動と市場戦略。
*販売促進活動。
*既存の取引先との密接な接触と関係の維持。
*競合する各社の動向の調査と報告。
*自社製品の市場における評価の調査。
*取引先の新規開拓と新製品の開発。
*日常業務の報告書の提出。
*毎月の市況報告。
*事業部長が招集する会議への出席。

という辺りになるだろう。注目して欲しいことは部内の誰とも重複しない業務を単独で担当する以上、我が国では重要視されているだろうことの「部下の指導・育成」は先ず要求されないと思っていて良いことだ。その仕事が何時までも続く保証はないのだし、後継者を任用するのはその営業担当者の仕事ではなく人事を含めて全権を持っている事業部長、即ちGeneral manager(GM)の責任になる事なのだから。

その担当マネージャーを採用するに当たっては、GMが面接してそれまでの経験と能力を確かめた上でその任務を担当させるのに相応しいと判断したのだから、上記のような職務内容記述書を与えて遂行と達成の方法の一切を任せるのだ。従って、既に述べたようにその項目ごとにその実行の手段とかの細かい指導や指示などしないものなのだ。それは、その為に面談して能力ありと判定した中途採用者なのだからだ。

実際に私は秘書さんとは業務を如何に分担するかを取り決めただけで、一切の細かい口出しはしなかったし、英語の指導などしたこともなかった。彼女には一切判断業務はしなくて結構だし、私の出張中や不在の場合に発生するかも知れない判断業務は放置しておいて結構だと定めた。その意味は「秘書にはマネージャーが担当する仕事である判断業務の為の給与は与えられていないというか、彼女のjobではないのだから。この辺りを英語では“I am not paid for that.“のように言うのだ。換言すれば、彼女にとっては”None of my business“なのだ。

この各マネージャーに与えられた職務内容記述書にあるような職務を各自がバラバラに遂行していて事業部が予算を達成できるのか、部門として成り立つのかとの疑問が出そうだと思う。私は割り切って考えるようにしていた。と言うのは「全権を持つ事業部長が事業部としての目標というか予算を立て、各マネージャーに目標の売上高と数量を割り当てて彼らが達成できればそれで良いのであって、私が他のマネージャーに課された目標値など気にせずとも良いだろう」と考えていたのだ。

事業部長は年の始めには会議を招集して部員全体にその年度の予算を通達するし、年度内にでも途中経過も知らされるようになっている。マネージャー足る者は言われなくとも、それくらいは承知しているべきはずだ。ここまで述べたように、アメリカ式では飽くまでも各人の能力が基になっているので、我々は「出来なかったらどうなってしまうか」という問題は十分に解っている。自分の職務内容記述書にある諸々の項目を達成する為の方法というか手段は各自に一任されているのだ。

我々は何時でも「その日のうちに処理しておくべき事」を抱えているのだ。それは必ずやり遂げておかないと翌日の負担が大きくなるだけだから、夜の9時になろうと10時になろうともオフィスに残って片付けようとするのだ。時には片付かない日もある。その場合は翌日の早朝にでも出勤して何とかしようとする。ウエアーハウザーの本社ビル内には、そういう者たちの為だけがどうか知らないが、Cafeteriaでは朝6時から朝食が供給されるようになっていた。これぞ“Don’t put off ill tomorrow what you can do today.”の表れだと思っていた。

この反対に当日の仕事を早く片付けることが出来た者は、午後2時にでも3時にでも帰ってしまう。個人単位が基調だから、上司から何か言われることもない世界だった。自慢にも何にもならないが、私は東京にいる間に何度も土曜日か日曜日にも出勤していた。すると屡々ドアに鍵がかかっていない時があった。即ち、誰かが出てきているのだった。尤も、土・日や祭日に会議を招集して「この日ならば電話もかかってこないし能率が上がって宜しい」と言って東京事務所員を泣かせた他の事業部の副社長もいたが。

以上が職務内容記述書(Job description)の基調にある「job型雇用」の、私が経験した実態である。我が国の会社と比較して歴然として違う点は「飽くまでも個人が単位」であり「皆で一緒に行動して目標を達成しよう」とは誰も考えていないのだ。そこには年功序列制もなければ「新卒で入社して」と言うか、下から段階的に昇進する仕組みにもなっていないのだ。そういう制度をどうやって我が国の会社という文化の中に組み込もうと考えたのだろうかと、私は疑問に感じるのだ。先に指摘したが、その人次第で「向き・不向き」があると思うのだ。

余談になるが、アメリカには似たような考え方で“Standard of performance”(業績達成基準)や“Key goal”(達成指標)などという方式もある。


4月16日 その2 この世は上手く出来ているもの

2022-04-16 16:01:00 | コラム
大谷翔平君の今シーズンを心配して見せたら:

今朝ほどはブログの更新を終えて、やおらテレビを点けてみれば、大谷君が最早1回の表にホームラン第1号を放った後だった。迂闊に「彼の打撃が心配だ」など言うものではないと反省して見続けた。するとどうだろう、更にもう一本打って見せてくれたではないか。

つい1時間ほど前に「大谷君が打てそうな投球が全く来ない」と言ったばかりなのに、2本目は真ん中の高目の打ち頃に見えたし、大谷君は打った後に手応えを感じたらしく走る素振りも見せなかったくらいに良い当たりだった。世の中は上手く出来ているものだと、あらためて感心したのだった。こういうことになるのだったならば、もう一度「大谷君が心配だなどと言ってみせれば良い結果になるのかな」などと、しょうもないことを考えてしまった。

その5時間ほど前だっただろうか、確か早朝のTBSのニュースで「昨日の朝8時50分頃に我がアパートと新大久保駅との中間点になる約300mの所の線路際で猛烈な火事があり、山手線が止まらざるを得なかった」と報じていた。その火事の頃はブログの更新に集中していた時間で、この窓から火事が見えそうな場所だったことになるのだ。だが、私は何故か全く気が付かなかったのは「如何にブログに真剣だったのか」ということになりそうだった。

実は、ブログの更新を終えてメールを見れば、昨日マスコミが話題にしていた「小室圭氏の2回目のbar exam(アメリカで州毎に行われる司法乃至は弁護士試験)に失敗」がワシントンやカリフォルニア州で報道されていたか否かを知りたくて知人に照会しておいた返事が来ていた。それはワシントン州の昔の同僚からで

「私は小室氏の件が日本国内で大きな話題になった事は覚えている。しかし、こちらでは彼が弁護士試験を二度失敗したということまでは話題になっていない。それと言うのも、当地ではCOVID-19やウクライナへのロシアの侵攻、急激なインフレーション等々の方が、我々にとっては重大な問題なのだから」

となっていた。私は小室圭氏に関する件はアメリカ国内ではさほど大きな話題ではなかったと承知していたが、その後どのようにかの国のマスコミが扱っているかを確認したかったのだ。

先ほど、野次馬根性に駆られて昨日火事があったと報じられた場所に視察に行ってみた。そこは掛かりつけの調剤薬局の真裏だったと顔馴染みの店員さんに教えて貰った。彼が言うには「30台もの消防車がやって来て大変な騒ぎだったし、道路を塞がれて出勤できずに困ったほど」だったそうだ。「その騒ぎをご存じなかったとは・・・」とまで言われてしまった。早速、線路際まで回って見ると、報道された通りに3階建てのアパートが煤で真っ黒になっていた。家内はテレビに「山手線が運休」と出たので動いていないとは承知していたそうだった。


野球の話をしよう

2022-04-16 09:14:57 | コラム
大谷翔平君と阪神タイガースのこと:

4月15日は気温が11度Cと低かっただけではなく、ここから真正面に見える建築中の「東急歌舞伎町タワー」とやらいう48階建ての建物の半分が霞んでしまったほどの雨模様で、安全策を採って外出もせずに閉じこもっていた。結果としてブログの更新を終えた後は、テレビの野球中継ばかり見ていたことになった。

先ずは大谷翔平君のロスアンジェルス・エンジェルス(何でテレビも新聞もロスアンゼルス・エンゼルスなという戯けたカナカナ表記をするのだろう)とテキサス・レンジャースの試合から。私は大谷君に「我が国を代表してMLBに入り我が国の野球選手の質の高さを全世界に示してくれ」と頼んだ覚えはない。だが、今や、かれは我が国どころかアメリカ全体の中でも光り輝く存在になってくれたのだ。私はそのことは立派だし日本国民の一人として誇りに思う価値はあると思う。

だが、私には心配なことがある。それは何時も言っている「マスコミによる過剰な大谷君の持て囃し方」である。私の持論は「そのように無用に持て囃されていることを当人が意識したか否かは別にして、過剰に囃し立てたことが必ずしも良い結果をもたらしてはいなかったこと」であり、その持ち上げられたご当人が意識して慢心したか否かとは多くの場合に関係なしに、その選手が振るわなくなってしまっていたことを心配しているのだ。

その点では、昨シーズンの大活躍でMVPを含めてMLBの多くの賞を獲得した大谷君に対する我が国のマスコミだけではなく一般人からの賞賛が、私を不安に陥れていたのだった。人は恐らく誰でも褒め称えられて悪い気分になることはないだろう。だが、経験からも言えるもだが、褒められるとか「先生」と呼びかけられることは、一瞬でも「俺様は満更でもないようだ」と感じさせられて恐ろしかった。

95年から96年にかけては講演をさせて貰える機会が多かった。その会場で多くの方から「先生」と呼んで頂けるのは正直に言って、非常に恐ろしく感じられた。自分に「錯覚を起こすなよ。これはお前が偉いのではなく、読んで下さった先方様の礼儀であるだけだ。お前の価値に対してではないのだ」と懸命に言い聞かせていた。現在の大谷君がおかれている立場と環境を私如きと比べるのは不当だと思うが、大谷君はかなり難しい環境の中で今シーズンに入って行ったのだろうと案じている。

そこで、昨日を含めて今シーズンの出来だが、余り芳しいとは見えなかった。打つ方から言えば私の目にはゴルフを始めた頃に散々注意された「スウエー」と同じで体が前方にぶれていっているようだし、スウイングも下からしゃくり上げているようにしか見えなかった。私は大谷君がそもそも往年の「世界の王」こと王貞治氏と同様に「非常に巧みな打ち方をする打者」ではなくて、凄い打者だと見ているのだ。今朝も金村義明が指摘していたように基本的には「引っ張る打者」なのだ。

ということは「投手は引っ張れない投球で攻めれば良い」のである。アメリカのスポーツ界では「スカウティング」という手法を編み出したのであるから、今年になれば大谷君に対する攻め方はこれでもかというほど研究し尽くされていても不思議ではない。昨日見ていた限りでは、如何にして大谷君を三振に斬って取るかに徹底していたし、実際に「打ちやすい投球」は殆ど来ていなかった。

即ち、大谷君はどうやって対戦相手の精密なスカウティングの成果と、どのようにして対応していくかではないのかと思って見ていた。また、金村義明が指摘したように審判の判定に不満だとの態度を見せたことは、これから先にも良い結果にならないと危惧するのだ。

投手大谷翔平君も見ていこう。未だ何処がとまでは言えないが、体の動きにキレがないというか迫力がないのではと感じた。それが「定まらない制球」に現れていたし、速球には表示された球速ほどの凄みが感じられなかった。特にあの9番打者に満塁ホームランを打たれた高目に入って直球がスプリットの投げ損ないだったとあったのは「調整不十分」を思わせた。解説の伊東勤は「シーズンに入るまでの期間が短かった為の調整不足では」と言ったが、私は「調整はシーズンオフの期間に自分だけでも出来ること」で、言い訳にはなるまいと思った。

何れにせよ、このように色々と改善すべき点が見えたことは、改善されれば昨シーズンの大谷翔平に戻れるはずだが、対戦相手も「そうはさせないよ」とばかりに真っ向から向かってくるだろうから、大谷君にとっては楽なシーズンとはならない気がするのだ。だから言うのだが、過剰な持ち上げ方と期待は無用だと言いたくなるのだ。彼は未だ成功した1年だけだったのだと見た方が無難だろうと思う。

阪神タイガースを落ち着いて見たのは昨夜が初めてだった。読売ジャイアンツに勝てたのは*青柳投手が良かったこと、*菅野投手が限界に来たかと思わせてくれたほど威力が無かったこと、*ホームランが2本出た事だったと思う。だが、私には矢野監督が開幕前に「今シーズン限りで引退」と表明したことが、全員の士気を減退させたように感じられた。これが不振の最大の原因であり、適時打が出ていないことは別な問題だと思う。

今年のNPBの野球の最大の問題点は「余りにもCOVID-19に感染する者が多いこと」だと思う。専門家が言われるように「エアロゾル感染」があるにもせよ、感染が不可抗力であるかも知れないにもせよ、管理態勢の不備というか、選手たちの健康管理に対する意識不足があるのかなと思わせられている。集団で生活し且つ行動する団体競技である以上、幾ら注意して行動しても注意しすぎとはならないのではないのかな。


2020年の世界のグラフィック用紙

2022-04-15 09:15:23 | コラム
印刷媒体の衰退と新型コロナウイルス禍の影響を強く受けていた:

先ずは「グラフィック用紙」という専門語の解説をしておかねばなるまい。これは平たく言えば「印刷用紙」のことであり、その範疇には新聞用紙、上質紙(模造紙)、コート紙、中質紙(ざら紙か藁半紙)、塗工された中質紙が入ってくる。私のように長い年月我が国とアメリカの紙パルプ産業界にいた者にとっては、印刷媒体の衰退は悲しい出来事なのである。

紙業タイムス社刊のFUTURE誌22年4月18号には

「グラフィック用紙の世界的な退潮が言われて久しいが、それでも2020年現在、世界全体では年間9,000万トンを超える生産と消費がある。前年までは1億トンを超えていたが新型コロナウイルスのパンデミックにより2020年は対前年比で16%前後、数量にして1,700万トン超の減少という大幅な落ち込みとなった。パッケージグ用紙が同じくコロナ禍に遭いながら生産・消費とも+0.4%、数量にして100万トン超の伸長があったのとは極めて対照的な結果だ。

情報という、もともと形のないものの伝達手段であるグラフィック用紙に対して、リアルな物流を支えるパッケージグ用紙は世界的なパンデミックの中で、むしろその有用性が再評価されたと言える。逆にグラフィック用紙は瞬時かつ大量の双方向コミュニケーションを可能にするSNSの出現と普及により、その役割が一段と限定されるようになった」

と解説されていたのだった。

次には具体的に統計面から世界の2020年の生産量を、以下に品種別に2019年と比較してみよう。なお、単位は1,000トンである。

新聞用紙は13,255で対前年比△23.6%、上質紙(塗工紙を含む)は62,771で△12.1%、中質紙(塗工紙を含む)は15,504で△20.4%だった。グラフィック用紙全体としては91,530で△16.0%となっていた。矢張り、新聞用紙の減少幅が最も大きいのが象徴的である。

この統計を地域別にも見ておくと、ヨーロッパが27,194で△18.0%と世界全体の減少幅よりも大きくなっていた。アジアは世界最大の製紙国中国があるだけに数量は大きく46,368だったが、対前年比△13.0%を記録していた。北アメリカは12,959だったが落ち込みは△21.3%とオセアニアの31.0%に次いで大きかった。

最後に国別の生産量に目を転じると、世界最大はここでも矢張り中国で23,720となっていて、対前年比△9.7%だった。世界全体に占める率は25,9%に達していた。第2位はアメリカで11,218、前年比では△22.9%、構成比は9.4%だった。次が我が国で9,934の△20.1%で構成比は8.7%だった。4位はドイツで7,291の△14.3%、構成比は6.8%だった。5位にはインドネシアが4,687で登場し△9.6%、構成比は6.1%となっていた。

以下20位までに、インド、カナダ、フィンランド、韓国、スウェーデン、ロシア、ブラジル、イタリア、ポルトガル、フランス、タイ、ベルギー、ノルウェー、ポーランド、英国と続いていた。

参考資料;紙業タイムス社刊 FUTURE誌 4月18日号


円安傾向から脱却する為には

2022-04-14 08:22:25 | コラム
¥126の円安に悲観論者が思うこと:

昨13日の午後4時前だったか、テレビの画面に「ニュース速報」と出た。東京都の本日の感染者数のお知らせにしては早すぎるなと思えば、20年振りだったかの円安である¥126への低下を知らせてくれたのだった。テレビ局側にはそこまでの危機意識があったのかと、あらためて認識できたのだった。

当方は常々申し上げてきたように悲観論者なのである。尤も、ウエアーハウザー・ジャパンの社長だったフランクリン氏には「何故君は何時でもそう否定的なのか」と突っ込まれたこともあった。その時の私の答えは「私は何時も四方八方に目を配り、情報を蒐集しているので知識が豊富になり、物事の裏の面まで見えてしまうので、私の見解が否定的に聞こえるのではないか」だった。

そこで、円安である。確かに多くの著名なエコノミストが解説されたように「アメリカではFRBが金利を引き上げているこの時期に、我が国では相変わらず超低金利政策を続行し、デフレ傾向を是正できず、内需も振興せず、世界的水準から見れば低賃金」であれば、当然の流れのようにしか見えないのだ。しかも、ウクライナ対ロシアの動乱が示すように国際情勢が不安定化している最中に、未だに憲法改正の議論さえ進められない国会の煮え切らない状況と、総理大臣が非核三原則の固持を表明され、媚中派が跋扈する有様を見れば「円を売ってドルを買おう」とされても不思議ではないと思ってしまうのだ。

ここまで言えば「確かに貴殿は悲観論者で否定的だな」と思われるだろう。だが、私は悲観論者である他に、これから申し述べる事柄のような一面もある事をご理解願いたいのだ。それは、私は常に「全てのコインには両面がある」との論者だったのだ。この意味は「物事を一面だけからだけ見るのは如何なものか」なのである。即ち、上述の我が国に生じている否定的な要素は、為政者と経営者がその気になって可能な限りの努力をすれば、全てをひっくり返して裏面というか肯定的な面に転換が可能なのである。

換言すれば「現在不振であると言うことは、明日か明後日には好転させられる可能性がある」性質なのである。これと同様な考え方で、私は「現在絶好調を謳歌している企業や事業が、何時までも好調であるとは限らないのだ」と主張してきた。我が国が嘗ては「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などという本まで出たほど高度成長を続けていたし、その経営の手法を学びに世界からやって来たものだった。「WA」だの「KAIZEN」という英語まで出てきていたのではなかったか。

「経営者の劣化だ」と指摘された昭和一桁生まれの元社長もおられた。私は劣化論も兎も角、現代の経営陣は何となく自信を失っておられるのではないのかと感じている。何故そうなってしまったかは分からないが、GAFAMのような企業が何故我が国には誕生しなかっただろうかとも考えている。何故「技術の日本」ではなくなりつつあるのかも、深く考えて見る必要があるという気もする。要するに「ナンバーワン」と世界に認められた日本を如何にして取り戻すかではないのだろうか。