新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月13日 その2 これくらいのことを言っても許されるだろう

2022-04-13 11:43:50 | コラム
ウクライナ対ロシアの問題:

私は目下進行中のこの全世界にとっての大問題については、マスコミ報道以外の情報源などない。そう断った上で言ってみたいことがある。それは、あの動乱(と、これまで表現してきた)について1ヶ月ほど前だったかに、畏メル友のRS氏に「この件については100%、ロシアそれもPutin大統領が悪いのであり、ウクライナ側には一点の瑕疵もないのだろうか。だが、世間の空気では『ウクライナには悪いところが皆無なのか』などと疑うのは許されないだろうと感じている」という見方を披露してあった。

しかも、その後には空気どころではなく、マスコミ報道によれば「ロシアという悪の専制主義国対善意の民主主義国群」という図式になってきていた。更に何事についても「慎重に検討する」岸田総理もロシア制裁に踏み切っておられたのだった。何も知らない私には、世間の空気は何か気味が悪いほどに徹底した「ロシアは悪者」になったと感じさせられていた。私は密かに「交通事故でさえ、滅多に10対ゼロ」という100%被害者に瑕疵はないとの判定はない」のにとも感じていた。

我が国には古き言い方で「盗人にも三分の理」や「喧嘩両成敗」というのがあるではないかと思っていた。断っておくが私には「ロシア擁護する意図」など毛頭ないし、飽くまでマスコミ報道からしか事の実態を読み取れないのであると言っているのだ。私にはロシアとあの大統領だけが間違っているという世論が形成され、そういう論調一色なのか怖いと感じただけだ。

そこにPresident誌の22年4月29日号に大前研一氏の連載コラム「日本のカラクリ」にはミンスク合意を引用されて、

「ところが19年に大統領になったゼレンスキーは「あの合意はウクライナが不利な条件を押しつけられたもの」と公然と言い出した。苦労して調印した合意を反故にするのだから、プーチンからすれば、大馬鹿野郎だろう。ロシア政府は「ウクライナが(東部の自治州)の自立を認めない独立宣言させる」と決め、プーチンは侵攻の一週間ほど前にこれにサインした。ゼレンスキーはすぐに自治権を与えていれば、あるいは当事者であったメルケル前独首相がすぐに仲介に動いていれば、プーチンも侵攻するほどイライラを募られることはなかったであろう」

と指摘されていた。

また、宮崎正弘氏の「宮崎正弘の国際情勢解題」の4月8日号(7292号)には

「ミンスク合意を守らなかったのはゼレンスキーブタペスト覚え書きには、ウクライナから核を撤去するが、その代わりに ウクライナ領土の保全、独立と主権は米英露の三国が保証するとして 1994年に締結された。フランスと中国が後日、加わり、国連安保理事会常任理事国五カ国が揃い踏みとなった。このブタペスト合意は、2014年のロシアのクリミア併合 で反古となった。西側のプーチン批判の原点は、ここにある。ミンスク合意(ミンスク議定書)を守らなかったのは、こんどはウクラ イナ政府であり、ロシアが声高にゼレンスキーを批判する根拠となっている。」

との見解が記載されていた。

私が思うには「大前氏や宮崎氏のような有識者はチャンとこれらのような問題であろう点を指摘しておられたのだから、報道機関もこのミンスク合意破りのような事実を報道してくれていても良かったのではないのか」ということなのだ。敢えて申し述べておけば、ウクライナ侵攻においてロシア兵やワグネルのような組織が蛮行を犯したのであれば、それは如何なる表現をも用いて非難されて然るべきだと思っている。西側の諸国がその国際法違反を捉えて、被害者であるウクライナを支持し、加勢するのも理があることだと思う。

だが、「ロシアは悪。Putinは狂気か」のような問題点を中心にして朝な夕なに報道されては、私のような一般の視聴者や読者はミスリードされるのではないのではないのかと危惧するのである。



迷惑メールは迷惑なだけではない

2022-04-13 08:26:32 | コラム
遂に200の大台に入った:

つい先ごろ迷惑メールが100を切ったので一安心と言ったばかりだったが、2~3日前からまた勢いを取り戻した感があり200の大台に迫ってきていた。勘違いなきように説明しておくと「当方はOCNの迷惑メールブロッキングサービスを利用しているので、この手のメールは何本きても一括してメールされてくるのだから、一々調べて削除する手間はかからない」のである。但し、時たま正常なメールもブロックされることがあるので、注意する必要もあるにはあるが。そこで本論だが、今朝ほどは246本と何処かの幹線道路のような数に達していたのだった。「遂に来たか」の思いだった。

参考までに、如何なるspam mailが来るかを取り上げておくと、毎回数えている訳ではないが、最も多いのはアマゾンかamazonで、最近急激に2番手にのし上がってきたのがメルカリかmercariである。その他はおよそこの世に存在するだろう全てのクレデイットカードとポイントカードと銀行関係のお知らせである。中には私がその存在すら知らなかったようなものもあり「えきねっと」もその一つだった。また、一時は減っていた私のメールアドレスを盗用した日本語が間違っている銀行関連の不届きなメールも復活しているのは、甚だ不愉快である。

ここで締めくくりに奇怪な横文字の読み方の批判をしておこう。これは何度も採り上げてきた“r”の表記である。それは、私が死ぬまで関係することがないと思っている「メルカリ」なのだ。この会社名のアルファベット表記はmercariとなっているのには呆れたし、悲しい思いがしたのだった。だってそうだろう、これはワクチン製造企業のModernaを「モデルナ」と表記した「愚行」と同じ性質なのだから。同じような“mer”を含んだ綴りの単語にmerchantというのがあるが、これを「メルチャント」とは発音しない。“modern”を「モデルン」と読むか。

何処の何方か発案したことか知らないが、何故“r”を「ル」と表記するような英語の読み方や発音を正しく理解していないとしか言えないようなことをするのだろうか。私はもう怒る気力も失せたし、こういう愚かなことをする連中がいることを心の底から情けなく思っている。


我が国に於ける野球の在り方を論じれば

2022-04-12 08:41:29 | コラム
佐々木朗希君の完全試合が示したこと:

先ずは、佐々木君は千葉ロッテマリーンズの監督コーチの非常に優れた良識ある指導方針の下に順調に育てられて、今回のような立派な成績を挙げたことを賞賛しておこうと思う。私はあの完全試合を快挙と言って良いと思うと同時に痛感したことがあった。それは、佐々木君の160km(アメリカ式に言えば100mileだが)超の速球を基調として高速フォークボールと幾らかのカーブを混ぜた配球に、私が理想としている野球という競技の在り方を、これでもかというほど具現していたと思うのだ。

それは「野球では投手はあらん限りの力を振り絞って速球を投げ込み、その投球を打者が負けてなるかとばかりに、日頃鍛えたバットの振り方で思い切り遠くに打っていこうとすることが基調にある」という考え方だ。その為には、選手たらんと目指す者たちは常日頃から体幹と身体能力を合理的且つ科学的な練習法で鍛え上げておくべきなのである。守備の訓練法では「飽くまでも体の正面で捕球する基礎の練習を中心とすべきであり、千本ノック的に遠くのゴロに飛び付いて捕球するのは身体能力の問題であって、基礎の練習とは別問題であると認識すべき」なのだ。

上述の私の認識から見れば、佐々木君のあの完全試合に於ける配球は理想的であり、速球が如何に効果的であり、その補助としてのフォークボールが速球を引き立てていたと言えるのだと思う。佐々木君はテレビの切り取り的な報道の画面で見た限りでは、“two seam”だのカットボールだのと呼ばれている細かい変化をする球種には頼っていないと見えた。即ち、私が主張する投手の王道に沿っていたと指摘したいのである。言いすぎになるかも知れないが「速球は細かい技巧の変化球とうの球種に優ると言って誤りではあるまい」と思うのだ。

テレビも新聞も佐々木君の完全試合をこれでもかとばかりに絶賛の嵐だが、何故かあの160km超の速球中心の組み立てと速球の効果には触れていないのだ。私はこの辺りに我が国の「野球ジャーナリズム」の歪みを見出しているのだ。分かりやすく(もしかすると「分かって貰えないかも知れないが」)彼らは枝葉末節の技巧を礼賛し、高校生の自己犠牲とでも非難したい150球も200球も一人で投げ抜くような高校生の将来を等閑にした出鱈目の投手起用を賞賛するのだ。私に言わせれば「安手のヒロイズム」に過ぎないのだが。「佐々木君を予選の決勝戦の登板を回避させた国保監督の見識を見よ」なのだ。

次なる問題点は「甲子園の野球が頂点にある」としか思えない『野球』の在り方が、baseballとは非常に趣が異なる競技に仕立て上げてしまったこと」である。日本高野連は「野球は教育の一環である」との主張を捨てずに未だに「1回表、ノーアウト走者1塁乃至は2塁の場面では、必ず美しき自己犠牲の精神の発露である犠牲バント作戦を採る」のだ。この作戦を近頃漸く一部のジャーナリズムが「勝利至上主義を排す」などと批判を開始した。だが、甲子園の野球即ちトーナメント戦を勝ち抜く為の細かい技術と技巧中心の彼らが言う「スモールベースボール」に陥らせているのだ。

私はその甲子園野球至上主義が悪いとまでは言う勇気はない。だが、その至上目的の為に「角を矯めて牛を殺す」かのような選手育成法になっていないかと言いたいのだ。陳腐な表現であり、マスコミですら指摘している(敢えて言うが)弊害とは「甲子園で優勝した投手でプロ乃至は大学に進んで大成した者は例外を除いては極めて少ない」という点なのだ。それはそうだろう。未だ出来上がっていない体力と鍛え抜かれていない技術で、連日のように連投して一試合で100球以上も投げるのだから。

よく考えなくても分かることで、鍛え抜かれたMLBの投手が100球までも投げないのに、年端もいかない高校生が連投して良いはずがないのだ。それを褒め称えるマスコミも不見識だ。私は野球ジャーナリズムの連中がこの辺りの問題点を承知していないとは思っていない。勝手な推測であるが、高野連に気兼ねをしているのかと疑いたくなるのだ。

私は「犠牲バントの多用」は我が国の「全体の為には自己犠牲を厭わない美しい精神の表れ」であり、寧ろ我が国の文化の一部分であるとすら解釈している。この精神が「野球をbaseballと似て非なるものに仕立て上げてしまった重大な要素」であると認識している。アメリカのように個人の能力を基調とする文化の国では、各人は全体(例えば会社)の為よりも自分の為を優先しているのだから、sacrifice buntなどを命令されれば怒るだろうと思う。誤解無きよう申し上げておくと、私は文化の違いを論じているのであり、優劣の議論ではないし、方針変更せよなどと言う気もない。

更に「犠牲バント作戦」を追及してみよう。プロ野球の解説者たちの中には「投手としてはバントをしてくれれば無償でアウトを一つ貰えるのだから有り難いので、次の打者2人を打ち取ることに注力すれば危機は回避できる確率が高まる」と、投手側の見解を述べる者がいるのだ。もっと言えば「野球ではどれほど優れた打者でもヒットを打つ確率は30%なのだから、次の打者を打ち取ることに力を注ぐべきなのだ」となるのだ。だから、相当数の試合を見たMLBで犠牲バント作戦を採ったのは、弱い時のシアトルマリナーズの一度だけだった。

結局は私の得意とする「我が国とアメリカとの文化と思考体系の相違論」になってしまうのだ。大学は言うに及ばずNPBの次元に行っても、高校野球の甲子園での優勝作戦の中核を為す「犠牲バント作戦」が頂点にあるのは、ただ単に文化比較論の問題ではなく、勝利至上主義に凝り固まっている指導者の問題ではないのかという気がしてならない。高校野球の投手を「あらゆる種類の変化球を操る優れた技巧の持ち主」などと褒めそやすような論調も考え直すべきではないのかと思う。あれでは甲子園の為には「小成に甘んじろ」と言っているのと同じではないか。


4月10日は忙しかった

2022-04-11 09:10:53 | コラム
初夏の暑さの中、都内は大勢の人で賑わっていた:

4月10日は、最早染井吉野も散ってしまったことと承知で、染井霊園に祥月命日よりも1日早かった母の墓参に出掛けた。好天には恵まれていたが、それよりも何よりも初夏を思わせる暑さをものともしない人出には、人々はBA.2は怖くないのかなどと考え込まされた。当方は息子の車に依存していたのだったが、気が付けば車内でもマスクをかけたままだった。

墓参りを終えた後では、巣鴨駅周辺では目当ての駐車場も寿司屋も満員御礼以上の混み方で昼食は諦めざるを得ず、儘よと築地に向かったのだった。新型コロナウイルスの襲来以来国立国際医療研究センターの主治医の厳かな「日頃の行動範囲を逸脱した外出は避けるべし」との指示を守ってきたので、新宿区を離れて都内を移動すれば恰も「今浦島太郎」状態なのだ。築地までの間は変わり果てた(?)東京都内の旅となった。都内の変貌に馴れているはずの息子でさえ「あちこちで新しいビルが建つか再開発などがあるので道標にして来た建物がなくなり、見当が付きにくくなった」と言うのだった。

新宿区は我が家から見える範囲内では建坪か容積の制限があるらしく、建設中の48階だったかの「東急歌舞伎町タワー」を除けば、11~12階までの低層建築ばかりだ。だが、都内の中心街はそうではないようで、何時も言うことでまるで谷底を走っているかのような錯覚にとらわれるほど、数多くの大型の高層建築ばかりだ。そして晴海通りを抜けて築地に近付くと、人出は一層大規模になって、偽らざる感想を述べれば「彼らは皆3回目のワクチン接種を終えているのか、またはウイルス何するものか」と高を括っているのかと疑ってしまうのだ。

とは言うものの、我々3人は未だ3回目のワクチン接種の効果が薄れていないと信じて、築地の場外で寿司屋の列に並んでみた。そして、行き交う大勢の人々の流れも観察していた。以前とは異なって中国人は見かけなかったが、意外に白人の親子連れなども見かけた。街は全く新型コロナウイルス以前の賑わいだったのには、悲観論者の私は「これでは都内の新規感染者が一向に減らず、第7波の到来が迫っていると警告する専門家がいる訳だ」と思わせられた。正直に言えば「彼らは楽観的すぎるのか、状況の見方が甘いのではないか」なのだ。

場外からは速やかに退散したが、気が付いたことをいえば「以前は5枚で¥1,000だった鮭の切り身は¥1,500と50%の値上がりだった現象。この値上がりにロシアからの輸入に期待できなくなるだけではなく、ノルウエイからの入荷も減少すれば、鮭の切り身は高級ではなかった、高額な食べ物になってしまうのかなどと考えていた。復路も東京見物を楽しみ、90%ほど散ってしまった桜を見て帰宅した。そこで待っていたのは、ロッテの佐々木朗希君の完全試合だった。いや「完全試合進行中」のニュースだった。

私はこの「令和の怪物」などと呼ばれている佐々木君を高校野球の、敢えて言うが悪習である、連投をさせることなく無事にここまで成長する基礎を築いた大船渡高校の国保監督を賞賛したいし、丁寧に指導・育成してきたロッテの井口監督と吉井前投手コーチも「指導者とはかくあるべし」と大いに評価したいのだ。

考えてもご覧なさいで、MLBでは開幕のエンジェルス対アストロズの試合では大谷翔平をアッサリと80球で降ろし、アストロズの監督もヴァルデスも同様の球数で交替させていた。MLBの投手たちは鍛え上げられた大人でも投球数を制限しているのに対して、年端もいかない高校生を彼ら指導者は平気で150球かそれ以上を投げさせ、アナウンサーは言うに及ばず解説者も一言も批判めいたことを言わないのだ。彼らは「練習は裏切らない」などと長時間の猛練習を礼賛する。

だが、日大フェニックスのアメリカのフットボールの強豪大学にコーチ留学した橋詰前監督は、短時間の練習でフェニックスを立ち直らせて、甲子園ボウル出場を果たした。私はスポーツ界とそれに絡んでいるマスコミは、もうそろそろ目覚めても良いのではと思って見ている。ズバリと言えばアメリカ式の合理的且つ科学的な練習法に目を転ずべき時代なのだ。

最後に、昨日は上皇様と上皇后様のご成婚記念日だった。実は私事であるが、我が方もご夫妻から4年遅い4月10日が59回目の記念日だった。思い起こせば、1963年は東京オリンピックの1年前であり、東海道新幹線も開通してはいなかった。


英語論

2022-04-10 08:14:34 | コラム
茂木健一郎氏の指摘を考える:

President誌の22年4月29日号では「英語レッスン革命」を特集してあるが、その中で私が注目したのが脳科学者の茂木健一郎氏の“3つの「幻想」が日本人を「英語脳」から遠ざけている”との指摘だった。そこで、その3つを引用して私なりに考えてみた。

>引用開始
第1の幻想は「テスト」である。英語力を測るうえでは、テストのスコアは助けになるが唯一の指標ではない。英語に関するさまざまの資格も英語脳を保証するものではない。私自身、大学時代に当時あった試験な全部受けたし、英検1級や、国連英検A級という資格も取った。しかし、それらはなんの保証にもならなかったと言うのが実感である。
<引用終わる

誠に尤もであると受け止めた。私はTOEICなるテストの内容は何度か見たが、率直な印象は「我が国のテストを主体とした科学としての英語教育の結果を試すものであっても、英語による自己表現や論旨の組み立てとうの能力の指標にはなっていない」と解釈したのだった。即ち、茂木氏が指摘された英語脳を創り上げる役には立っていないと見たのである。このテストで高得点を取った方が、外国人を相手にしての折衝の場で論旨を組み立てて交渉するとか説得する能力を養ってきてはいなかったと、ある企業の人事担当者が喝破しておられた。

私は英語で自分の意志を表現するとか議論をする場合には、英語だけで考える力を備えておく必要があるのだと繰り返して主張してきたが、茂木氏の指摘も「英語脳」という表現でこの点を指摘されたのだと解釈している。

>引用開始
第2は「ネイティブ」の幻想から自由になる必要がある。一口にネイティブ英語といっても、例えばイギリスとアメリカではかなり違う。同じ国でも、社会の中のクラスターで異なる英語を話している。単一のネイティブ英語があるわけではない。また、今日の社会では英語を母国語としない人どうしが英語を通して話す機会のほうが多い。(以下略)
<引用終わる

ここを私が解釈すれば、既に論じてきたことで英連邦とアメリカでは例えば異なる挨拶の仕方があるし、発音と訛りの違いがあるということを指摘されたのであろう。私はこの点よりも強調したいことは「日本語と英語では発想と思考体系が異なっている」という点である。彼らの二進法的思考体系から来る発想の中に、我が国独得の「落とし所を探るとか妥協点を見出そうとする発想で入っていっても、噛み合わないことになる」と指摘したいのだ。

>引用開始
第3は「留学」の幻想から解放される必要がある。留学さえすれば英語が話せるようになるというのは幻想だ。勿論、留学にはメリットがあるが、せっかく現場に行っても、しばしば見られるように、日本人だけで固まっていたら効果はない。日本にいても、今や無限の英語学習の教材がある。
>引用終わる

これもその通りであると受け止めた。私はこれまでにさほど留学の効果を批判してこなかったが、留学や駐在が必ずしも英語で思うように自分の意志を表現する能力に貢献しないとは指摘して来た。その辺りを「“I know how to express myself in English.”の能力である」が、留学や駐在をしただけでは成果は不十分のようだとは述べてきた。何故そうならないのかと一因を、茂木氏が「日本人だけで固まる」と指摘しておられたと解釈した次第だ。

だが、私が重要だといいたい点は「そこに到達する為には、我が国内で十分に基礎を固めておく必要があること」なのだ。それは、我が国の英語教育が茂木氏の指摘のように科学的に英語を教え尚且つテスト重視の幻想があるのが好ましくない点だと指摘したいのだ。英語というか言語は、算数のように科学的ではなくて意思表示の道具であると思うのだが。